第二話『臥竜』
山の奥、そのまた更に奥深く。
木々が深く生い茂り、苔に隠された岩肌に、ぽっかりと口を開けた洞があった。
誰も近寄らぬ、瘴気すら感じるその穴に、
一匹の竜が棲む。
豺狼がその洞を見つけたのは、雪の融けきらぬ初春の頃だった。
鼻先をかすめる、重く湿った匂い。
獣とも土とも違う、何かが老い、朽ちている気配。
それに導かれるようにして、豺狼は訪れた。
竜の棲み処、この洞穴を。
洞の中は、ひどく静かだった。
しかしその奥に、確かな「命」の気配がある。
それは、じっと息を潜めたまま。まるで岩に擬態しているように微かに脈動している。不思議なのは、その気配が今にも消え入りそうであったことだ。
「…山犬でも、狼でもないな。おまえは…何だ。」
その場へ足を踏み入れた途端、豺狼へ問う。
響く声は低く、地の底から鳴るようだった。
“竜”との出会いだった。
豺狼はその威厳に敬意を払うよう、静かに答えた。
「――豺狼。山に嫌われた獣だ。山犬の子であり、狼の子であり…そのどちらにも成れぬ者。」
竜はしばらく黙ったあと、岩が割れて光が差すように、ようやくその大きな瞼を開いた。
「ならば、おまえも“間の者”か。」
「…間?」
「人でも獣でもなく。天でも地でもなく。我もまた、間に落ちた者だ。空の上から、落とされた竜よ。」
―――竜は、語った。
ある日、空を翔けていたその身は、神の怒りに触れたのか、流星のように地上へと墜とされた。
翼は燃え、鱗は砕け、もはや地を這うことも叶わぬ。
その巨体を隠すように、この洞に身を沈め、山と共に何百年と眠っていたのだという。
「ここにいると少しずつ、身体が溶けていくのがわかるのだ。石に、草に、水に、命が分け与えられ散りゆく。おまえはそれを恐れるか?」
豺狼は黙して、その問いへ見つめ返し、答えた。
「私はな、もともと“器”なのだ。」
「器…。」
「天の光や。地の熱や、気まぐれな神気を、この身に宿すための入れ物だった。だが、いつしかそれを忘れ、零した。その罰が下ったのだろう。」
豺狼は竜の言葉の重みを測るように、横顔を見つめた。
竜は続ける。
「けれどな…器が壊れども、中に満ちていたものは山へと沁み入る。土に渡り、草を育て、水を巡らせる。そうして、命になる。私はそれで良いのだ。」
「…死ぬということか?総ての苦しみを身に受けて。」
「還る、ということだ。」
竜は目を閉じた。
「天に在りしものが地に還る。奇しくも、おまえと出会ったことも、我がこの地に還しつつある証だろう。」
――竜はそれ以上、語るのをやめた。
豺狼はその晩、洞で過ごした。
竜の息づかいは、まるで岩盤の震えのように響いた。
最期を迎える時を計るように、豺狼の呼吸と重なる。
小鳥のさえずりが聞こえるころ、目も開けられぬまま、竜は言葉を紡ぐ。
「おまえは私だ。だが、おまえはまだ“生きる者”だ。この山を駆け、この風を嗅ぎ、この陽を浴びろ。それのできるうちは“生きる”ということだ。」
竜は、何かを遺すよう、語りかける。
「…すべては、いずれ朽ちる。」
豺狼は、肚に落ちぬよう、応える。
「朽ちてこそ、価値があるのだ。
命とは、残ることではなく、巡ることだ。」
豺狼は、言葉を返さなかった。
だがその瞳は僅かに、波紋のように揺らいでいた。
――遂に竜は、その動きを止めた
遺された身体は荘厳で、儚く冷たかった。
見れば肉が溶け、肌が岩となり、鱗は水へと変わり始める。洞の底に、新たな脈動が生まれつつあった。
しんしんと湧く音が、洞の空気を静かに満たしてゆく。
豺狼は何も言わず、すべてを見届けていた。
山の雪解け――
滲み出した水が天井より滴り、竜と交じる。
その巨大な骸が洞窟の奥深く、湖へと成りゆく様を。
――それが、竜へ送る唯一つの、弔いであった。
竜は朽ち、
洞には静かな湖が遺される。
まるで永遠の時を映す竜の瞳のように、澄んだ湖面が広がっていた。
――――――
豺狼はときおり、その湖を訪れる。
ただ水面を見つめては、しばし、静かに座している。
誰に知られることもなく。
誰に語られることもなく。
それは山の奥、かつて竜が還った場所――