第一話『黎明』
山の奥深く、陽の差さぬ苔むした森に、人知れず一匹の獣が産声を上げた。
山犬のように雄々しく、狼のように気高く、しかしどちらともかけ離れた、異質な姿。
その毛は黒曜のように硬く尖り、触れた者の肌を裂く。
牙は岩をも砕き、爪は大木をも切り裂く。
まるで寄り添う者すべてを拒むためその身を作られたかのように、禍々しく異形の獣であった。
その獣、誰が呼んだか名を“豺狼”という。
父に山犬、母に狼を持ち、混血の化物、はたまた妖としてこの世に生まれ落ちた存在。
山犬には「混ざり者」として追われ、
狼たちには「異物」として拒まれた。
豺狼が山を歩けば、
鳥たちは飛び去り、獣たちは遠巻きに避けた。
皆、その姿を見れば畏れを抱え、逃げ去る。
――豺狼は、孤独であった。
冬。
山に降る雪も、彼の上には積もらない。
優れた毛並みが雪を拒む。
山犬も、狼も、その他の獣にも類を見ぬ優れた毛と皮。
山の獣らが身を寄せて寒さを凌ぐそのときも、
豺狼は独り、洞の奥で目を伏せていた。
孤独は、彼の心をじわじわと蝕む。
けれどそれよりも、豺狼を真に苦しめたのは
――「長命」であった。
豺狼にとって、時の流れは残酷だった。
父が皮になり、母が骨になるまでに、豺狼が感じたのは、ほんの数夜の夢ほどの短さだった。
山犬が一匹、狼がまた一匹と姿を消し、
新たな群れに、豺狼は顔すら合わせなくなる。
聞き覚えた烏の声も、ある日突然、変わる。
誰も彼も、いつのまにかいなくなっていた。
季節は巡り、山の顔ぶれは変わり続ける。
木々が育ち、風の匂いが変わっても、豺狼だけが変わらずそこにいた。
いや、変われず、取り残されていた。
ある晩、月が異様に赤く、空を染めていた。
豺狼は久しく山を歩く。
足跡を残さぬよう、音を立てぬよう、気配を風に紛れ込ませることにも、慣れてしまった。
夜の森には、新しい生き物の匂いが充ちる。
見知らぬ鳥の羽音、世代を経た草花の香り。
どれも、彼に馴染まぬものばかり。
「――俺は、いつまでここにいるのだろうか…」
ふと、そんな“問い”が浮かび、風に攫われた。
応えるのは、ただ風が木々を揺すり靡く音だけ。
そうして豺狼は、悠久の時を生きることを悟る。
牙も爪も、鋭く。
毛並みも、さらに艶やかに。
飢えもせず、ただ孤独に耐え、生きていくのだ。
どうして生きるのか、わからない。
けれど、生を止める理由もまた、見つからなかった。
――そして今日も、黎明の光を待つ。
夜が明けるその刹那。
山から滲む黒い影が、木々の隙間を縫う。
東の空が微かに染まる。
まるで、日の光を避けるように。
まるで、風の攫った問いを取り戻すように。
―――吠えた
これは、犬でも狼でも居れぬ獣が、
ある山の奥、黎明を待つ、
儚く、無常の――物語。