だってあなたは彼女が好きでしょう?
「だってあなたは彼女が好きでしょう?」
私は、彼の恋人の名前を口にした。
「エリザベート……というのでしょう?姓まではわからなかったけど……。心当たりがないとは言わせないわ」
手紙を見つけたのだ。
恋人からの手紙を、彼は後生大切にしまっていた。
それを見つけたのは、ただの偶然。
彼の部屋に入った時、たまたま見つけてしまったのだ。
ライティングデスクの上に置かれた、小箱を。
それは、宝石箱だった。
蓋が開いていて、中身が見えていた。
入っていたのは、宝石ではなく──紐でまとめた、手紙の数々。
宝石箱の隣に、いまさっき開封したと見られる手紙があった。封が切られていて、一枚の手紙が机に置かれていた。
気付いた時には、その文章が目に飛び込んでいた。
【愛するクリストファー様】
女性の筆跡だ。
続く文面は、こんなものだった。
【私もあなたをお慕いしております。先日のオペラはとても楽しかった……】
それからのことは、覚えていない。
クリストファーの家、ゼンパー伯爵家と、私の家、ザイデル伯爵家は、昔から懇意にしていた。
父親同士が級友なのもあって、私もクリストファー……クリスも、互いの家をよく行き来していたのだ。
その日も、私はなかなかクリスが起きてこないから、起こして欲しいと執事のボブに頼まれて──彼の部屋に入ったのだった。
気安い関係で、幼馴染で、婚約者。
クリスは、穏やかでこころ優しいひとで、私の初恋のひとだった。
彼は、物静かだけど冷たいわけじゃない。
昔から『ちいさなアヒルを吹き出すのが得意』と言われる私のお喋りに付き合った後、彼はゆっくりと自論を展開させるのだ。
聞き流している訳ではなく、ちゃんと私の話を聞いてくれていた。
『エマはほんとうにお喋りが好きなのね。誰に似たのかしら』
お母様にそう呆れられるほど、私は話すのが大好きだ。
だけどクリスは、私の話をちゃんと聞いてくれた。
大抵の男のひとは、お喋りな女性を好まない。
淑やかで大人しく、気品ある女性が好まれるこの社交界で、クリスだけが別だった。
それは、幼馴染だから、私のことをよく知っているからこそ、なのかもしれない。
だけど、優しく居心地のいい彼と一緒にいて──私は、自然と彼に惹かれるようになっていた。
燃えるような恋ではない。
激情的な感情ではない。
ひたすら穏やかで、優しくて、ずっと大切にしたい想い。もしかしたらこれは、恋ではなく、愛なのかもしれない。
それくらい、私にとってクリスと一緒にいることは、自然なことで日常生活のひとつとなっていた。
だから……驚いたのだ。
女性の筆跡。
見知らぬ恋のお手紙。
悲しくて、悔しくて。
裏切られたことが寂しくて。
その日は、結局クリスを起こさずに帰ってしまった。
☆
それから、私は数日意識を失った。
私は、自身の血から宝石を生み出す【宝石姫】だ。
この国に、百年に一度生まれると言われている、宝石姫。
私の役割は、毎月規定量の宝石を王家に差し出すこと。
私の血は、空気に触れた瞬間宝石になるものだから、注射器での採取はできない。
そのため、私は毎月手首を切って血を流す。
宝石姫としての体質なのか、血を抜き取っていることが原因なのか、私は度々、寝込むようになった。
酷い時は二日、三日、意識が戻らない。
目が覚めると、いつもメイドがホッとした顔をする。
王家の方々は好きだ。
敬愛しているし、親愛の情を抱いている。
心身を削って宝石を生み出す私に王家の方々はいつも気を遣ってくださるし、王太子殿下も私の宝石を必要としなくなるように尽力すると仰ってくれた。
それに──何より、クリスが一緒にいてくれたから。
だから、耐えられた。
私が、血を流す時はいつだってクリスがそばにいてくれた。
幼い頃、あまりの痛みに泣いてしまった私を慰めてくれたのも、彼だった。
痛がる私を見兼ねたのだろう。
『家にある宝石を代わりに献上しよう』──。
クリスはそう言った。
それは、とんでもないことだ。
宝石姫が生み出した宝石は特別で、鑑定されればすぐに知れる。それなのに、彼は私のためにそう言ってくれた。
そうすれば、私が苦しむことはなくなるから、と。
そこでようやく、私は気付いた。
痛みに苦しむのは私だけだと思っていたけど、私が手首を切る時。私の手をしっかりと握ってくれている彼の手もまた、震えていたことに。
クリスも、私と同じくらい──苦しんで、一緒に耐えてくれていた。
それに気付いた時、私はひとりではない、と思った。
彼の優しが温かくて、嬉しくて、泣いてしまった。
クリスは私が泣き出したのを見て、まだ痛みがあるのかと心配してくれたのだっけ──。
☆
目を覚ました私は、ベッドの上でぼう、と考え込んだ。
次に宝石姫の役目を果たす日は、明後日。
いつも通り、クリスは来てくれるだろう。
そして、私の手を握ってくれるはずだ。
……いつものように。
(嫌だわ)
もしかしたら、なにか事情があるのかもしれない。
その可能性も考えた。
でも、愛するクリストファー、と書かれていた。
お慕いしている、とも書かれていた。
どんな事情があったとして、あのラブレターを書いたひとがいるのは事実だ。
それに、手紙には【私も】と書かれていた。
それはつまり、クリスが彼女に愛の告白をしたということ……。
(そういえば、私、クリスに好きって言われたこと……ない)
クリスは、私のことなんて好きではないのかもしれない。
この婚約も、親が決めたもの。
互いに恋愛関係になったから結んだものでは無かった。
私は……私は、クリスを無理に縛り付けていたのだろうか?
彼は、私に恋情ではなく、同情を抱いているのかも。
そうだとしたら……もう。
宝石姫の役目を果たすとき、彼にはそばにいてほしくない。
これ以上、私に同情なんてしてほしくない。
同情だけで、そばにいてほしくない。
長年抱え込んだ恋心は緩やかに、少しずつ、凍りついて、融解し、どろどろになっていく。
私のこころも、そんなふうに溶けてしまえば楽になれるのに。
そんなことを思いながら──私はクリスを待つ。
今日は、彼がザイデル伯爵邸に来る日だった。
☆
思えば、ここ数年、クリスは突然多忙になった。
前までなら、彼はよく邸の蔵書室に篭っていたというのに、突然外出が増えるようになった。
今思えば、それも……。
考えれば考えるほど、こころあたりが多すぎて。
私は、胸を押えた。
そして──クリスがザイデル伯爵邸に訪れた。
彼はいつも通りサロンに案内されて、穏やかに微笑んで私を迎えた。
(どうしよう……)
私、言えるのかな。
彼が恋人の存在を認めたら、もうこないで、ってちゃんと言えるのかな。
だって、こんなに好きなのに。
こんなに好きなのに……。
傷心の痛みは、まだ癒えていない。
ぐずぐずとした、掻痒を持った浸出液がじわじわと滲んでいるのだもの。
いつもと違う私の様子に気がついて、クリスが首を傾げた。
「どうしたの、エマ。……そういえば、この前、僕を起こさずに帰ったんだって?起こしてくれてよかったのに。何かあった?」
そういう、些細なことにも気がついてくれているのに。どうして、あの手紙のことは黙っていたの?
私は、気がついたら口を開いていた。
「だってあなたは彼女が好きでしょう?」
そして、彼に尋ねていたのだ。
「エリザベート……というのでしょう?姓まではわからなかったけど。心当たりがないとは言わせないわ」
クリスは目を見開いた。
まさか、そんなことを言われると思わなかった、とでも言いたげな顔。
それを見て、私はやはり手紙は本物なのだと悟る。もしかしたら、あれは手違いの……とにかく、なにか事情のあるものなのかもしれないと、ほんの少し、願うようにその可能性もあるかもしれないと思っていた。
だけど、クリスの驚いた顔からするに、やはりあれは隠していたものなのだ。
「……どうして、黙っているの?言えないようなお相手なの?」
問い詰めるように声を低くすると、クリスは少し逡巡して──だけど、ハッキリといった。
「うん。僕は彼女を愛している。もちろん、きみのことも」
「…………は?」
「そっか。きみはエリザベートのことを知っちゃったのか……。どうしようかな」
その言葉に、瞬間的に頭がカッとなった。
私は思わず立ち上がり、大声で彼を怒鳴りつけていた。
「どうしようかな、ってなによ!!私にバレてまずいものなの!?ずっと、私を騙していたの!?」
「違っ……ごめん!言い方が悪かった!」
「言い方が悪かった!?何をどう言っても、あなたが彼女の存在を隠していたのは事実だわ。あなたは私を騙して──」
「違う!違うんだよ、エマ!!エリザベートは、きみなんだ!!」
私の声を遮るようにして、クリスが言った。
彼のそんな、大きな声を聞いたのは──はじめてだった。
そのことに驚いて、それから。
私は、彼の言葉に呆然となる。
(エリザベート……が、私?)
言っていることが分からなくて、どんな顔をすればいいのか分からなくなった。
引きつった笑みを浮かべて、私は彼に尋ねる。
「な……何それ?それ、どういう誤魔化し方?」
「誤魔化してなんていない。ただ……僕の一存でそのことをきみに伝えていいものか、分からなかった。先生の許可がなければ……」
「言っている意味がわからないわ!!私に、わかるように説明して!」
「それは俺が説明しよう」
ふたりして、ハッとそちらを見る。
いつの間にか、サロンには私のお兄様がいた。
帰ってきていたのか。気付かなかった。
言い争う私たちを心配して、侍女か従僕あたりが呼んできたのだろう。
私は、お兄様を見て刺々しい声で言った。
「お兄様には関係ないわ」
「いいや、関係あるね。少なくとも、我が家には関係のあることだ。……クリス、すまなかったね」
「……いえ」
クリスが、まつ毛を伏せる。
(なに……?)
そのふたりに、何となく嫌な予感がした。
そして、お兄様はクリスの隣──私の対面のソファに座ると、言った。
「エリザベートは、お前のもうひとつの人格だよ」
「──」
…………は?
思わず、私は目を見開いた。
私が絶句するのが分かっていたのだろう。
兄は、眉尻を下げた。
そして、優しい声で言う。
「お前は──宝石姫としての任を果たした後、夢の世界に入ってしまうことが何度かあった」
「なに……言って」
「ほんとうのことだ。これは父上も、母上も、そしてザイデル伯爵家かかりつけ医である先生も、もちろんご承知のことだ。……お前は、宝石姫としての苦しみに耐えかねて……別の人格を作り出した。それが、エリザベートだ」
「しん、じられない。信じられないわ!嘘よ!!そんなの!!」
思わず私は立ち上がっていた。
叫ぶ私を、お兄様が痛ましげに見る。
クリスは、まつ毛を伏せていた。
見れば、侍女や従僕も一様に気遣わしげに私を見ていた。
そういえば。
以前から、度々寝込むことがあった。
酷い時は、数日ほど意識を取り戻さないことも、多く、て──。
ふ、と私は理解した。
お兄様の言葉は──真実なのだ。
☆
エマ・ザイデル。
百年に一度生まれると言われている、宝石姫。
彼女の役目は、その血を流し、価値の高い宝石を生み出すこと。
その宝石は海外に輸出され、とんでもない高値で売られていた。
彼女の作り出す宝石は不純物が無く、奇跡の石とも呼ばれていた。
宝石姫の生み出す石は、この国の特産品だったのだ。
だけど、石を生み出すには苦痛が生み出す。
理性ではそれを納得していても、こころは悲鳴をあげる。
結果──彼女が生み出したのが、別の人格【エリザベート】。
彼女は、宝石姫なんていう特異体質ではないふつうの少女。
裕福な家に生まれた、平凡な娘。
──エリザベートは、そう自認していた。
それはつまり、エマ自身がそうなりたいと望んでいたということだ。
初めてエリザベートの人格を目の当たりにした家族たちはあまりのことに衝撃を受け、夫人は泣き、夫に強く抗議した。
伯爵は王城に足を運び、宝石姫の任務を解くように懇願し、兄も父同様、強くそう願った。
そして、誰よりもそれにショックを受けたのは、婚約者であるクリストファーだった。
彼は、近くで彼女の苦痛を見ていたはずなのに──その状況を変えようと動くことはしなかった。
しかし、それも仕方ないというものだった。
なぜなら、当時彼はエマ同様幼く、子供だったからだ。子供にできることなどなく、彼は彼女の手を握ることくらいしかできなかった。
だけど、今なら。
……今からでも、遅くない、はずだ。
そう思って。そう思いたくて。
クリストファーはその日から、家にこもるのをやめ、頻繁に外出するようになった。
苦手な社交にも精を出し、協力者を増やした。
従兄弟でもある王太子と協力し、宝石姫の力を必要としない政策を考え始めた。
彼がここ数年、邸を不在がちになったのも、エマを宝石姫という呪縛から解放するためだったのだ。
それを教えられたエマは、あまりのことに愕然とした。
☆
「そ……んな、こと。教えてくれれば……私は、別に」
頭では、理解しているつもりだった。
私が、宝石姫として生まれたのにはきっと理由がある。
私が宝石姫として生まれたからこそ、王家はザイデル伯爵家を丁重に扱うようになったし、世間の反応だって同様だ。
百年に一度の宝石姫が生まれたと知ると、世間は歓喜に沸き、ザイデルの家を称えた。
私は、宝石姫としての義務を果たす代わりに、名誉や、王家からの特別待遇といったものを対価に得ている。
これは、正しいことなのだと。
これは、栄誉なことなのだと──そう、思っていた。
……思い込むようにしていた。
だから、実はこころの奥底が、自分の深層心理で、嫌がってるなんて──悲鳴をあげている、なんて。
思いもしなかった……。
想像もしていなかったことに、私は言葉を失った。
クリスがスッと立ち上がって、私の前に跪く。
いつものように優しい──エメラルド色の瞳。
あの日、私が好きになった瞳の色。
その彼が、心配するように、気遣うように、私を言う。
「……不安にさせてごめん。ごめんねエマ」
「……どうして、言ってくれなかったの」
掠れた声が、こぼれおちた。
クリスがなぜ言えなかったか、なんて聞かなくてもわかる。
それでも、言ってしまった。
予想通り、彼は苦しげに眉を寄せ──それから、私の手を取って、手の甲に口付けを落とした。
「言ったら、きみは気にするだろう?余計な心労を増やすと思った。……それに、ごめん。僕が、言いたくなかった。悩むきみを見たくなかったんだ」
「…………ごめん、なさい。私、決めつけて、あなたを怒鳴りつけたわ」
「いいよ。あの手紙を見たら、きみがそう思うのもとうぜんだ。それにね、エマ。今日僕は、先日の──きみが僕を起こさずに帰ったことを尋ねるためだけに、来たんじゃない。報告をしに来たんだ」
クリスの手に誘われて、私は立ち上がった。
目が合って、彼が優しく笑う。
「きみは、宝石姫の任を解かれることになった」
「え…………」
目を見開く私に、彼がまた、笑う。
困ったように、情けなさそうに。
「リックの助力のおかげだ。彼も、宝石姫を搾取して栄えるこの国の在り方を疑問に思っていた。だから、彼と協力して、きみの力を借りずとも問題がないように事業改革を進めていた。五年経過して、ようやく見通しがつきそうなんだ。……遅くなって、ごめん。辛い思いをさせてきて、すまなかった」
リックは、王太子殿下の名前だ。
謝る彼に、私は首を横に振る。
目頭が熱い。抑えようもなく、それはぽろぽろと雫となって目元からこぼれてゆく。
「どうして……どうしてあなたが謝るの?あなたのせいじゃないわ。クリスは……悪くないもの」
クリスが、私の目元を拭う。
そして、私の銀の髪をすくうと、その毛先に口付けを落とす。
「思ったより時間がかかってしまった。もっと早く、きみをこの責務から解放してあげたかった」
私はまた、首を横に振る。
そっと彼の背に手を回すと、クリスもまた抱きしめてくれる。
顔を上げ、彼の緑の瞳と目が合った──時。
コホン、とわざとらしい咳払いがサロンに響く。
それにハッとして、私とクリスはぱっと離れた。
見れば、お兄様がとても気まずげに、私たちを見ている。だけど彼のその目元も、赤かった。
「……俺は、父上と母上に報告に行ってくる。……それまで、ふたりで部屋にでも行っていたらどうだ?」
婚約者を自室に通す──社交界に知られれば、とんでもない醜聞だ。
だけど、ザイデル伯爵家とゼンパー伯爵家は古くからの付き合いで、私とクリスは幼なじみだ。
幼い頃はよく、互いの私室を行き来していたし、それは今も同じだった。
お兄様の言葉はつまり、ふたりきりで話をしろ──と、そういうことなのだろう。
しばらくの間、私たちをふたりきりにしてくれるらしい。
お兄様はサロンを後にしようとして、ハッと思い出したように振り返る。
眉を寄せ、硬い声で言った。
「侍女は下がらせるなよ」
「あのね……お兄様。私だって、そこまで考え無しじゃないわよ」
くちびるを尖らせると、彼も本気でそういったわけではなかったようだ。
笑って、そのままサロンを出ていった。
くるり、と振り返って、私はクリスに言う。
「……エリザベートの話をして」
打って変わって不機嫌な私の声に、彼が目を瞬いた。
続けて、私は言う。
「私の知らないあなたがいるのは、なんだか……嫌だもの」
私の言葉に、クリスは優しく微笑んだ。
そして、エスコートするために私の手を取って彼は答えた。
「もちろん、きみの仰せのままに。僕の愛しいひと」