薬瓶と心の傷
ある日の夕刻前、お忍び姿のジセイがなんの前触れもなく屋敷を訪れた。
「シロン、久しいな。今日は夜行鳥狩りに誘いに来たのだ」
「えっ! 待ってください」
「郷長、妹だけでは粗相があってはいけません。私もご一緒させていただきますね」
シロンの手を引き、すぐにでも連れ出そうとするジセイの手をやんわりと遮り、ラカはシロンの前に歩み出る。
「いいだろう、お前も一緒に来るといい。時間がない、行くぞ!」
三人が狩場に到着すると、丁度日暮れの時間となった。沢山の風穴から夜行鳥が飛び立ち、耳を塞ぎたくなるほど羽音が凄い。ジセイは弓を構えるとよく狙って矢を放つ。矢は飛び立ったばかりの夜行鳥に見事に命中する。
「よしっ!」
「お見事!」
ラカの賞賛にジセイはどこか得意げだ。
「シロン、弓はやった事があるか?」
「いえ」
「よし、では教えてやる」
ジセイは戸惑うシロンに自分の弓を持たせると、シロンに弓の弦を引くように指示をする。けれど、ジセイ用に設えられた弓はシロンには強すぎて弦を引く事すら出来なかった。
「では、私が一緒に射てやる」
ジセイはシロンのすぐ後ろに立つとシロンを補助する体勢をとる。弓を持つシロンの手に自分の手を添え矢をつがえると弦を引く。
「いいか、獲物から目を離さずに、飛び立つ少し先に狙いをつける」
シロンは耳元で囁くように指示するジセイの低く艶やかな声にぞくりとする。
(何?! この状況。逃げたい)
耳まで真っ赤に染まって今にも湯気をたてそうなシロン。ラカはどのタイミングでジセイから助け出すべきか図りかね、ハラハラしながら見守った。
「今だ!」
ジセイに補助されてシロンが放った矢は、飛び立った夜行鳥を大きく外して、弧を描いて落ちていった。
「残念だったな。まぁ、最初はこんなものだ」
「ご指導ありがとうございました。しかし弓も引けぬ私にはまだ狩りは早いかと」
シロンはなるべく自然に見えるようにゆっくりジセイから離れ、弓を返した。
「そんなに落ち込むことはない。次までに、お前にあった弓を用意してやろう」
「……お気遣いありがとうございます。ですがどうぞ、お気になさらず。必要であれば自分で用意いたしますので」
「そうか? 遠慮せずとも良いのだぞ」
「いえ、郷長のそのお気持ちだけで」
「そうだな、初めてお前に贈るものが弓というのも色気がないしな」
シロンはジセイからの弓矢の贈り物を回避することに成功し、ホッとする。
「では、シロン。後は私が射るのを見ているといい」
「はい勉強させていただきます」
ジセイは矢をつがえると弦を引き、夜行鳥に狙いを定めて弓矢を放つ。夜行鳥がまた一羽地に落ちて来る。ジセイが次の矢をつがえた所で弦がバチンと切れてジセイの手を打った。
「つっ!」
「大丈夫ですか?」
「弦が少し当たっただけだ。心配ない」
シロンはジセイに駆け寄ると。弦が当たった腕を診る。
「でも、傷が、少し出血しています。すぐに誰か呼んで手当を……」
「それならば、お前が手当してくれ」
ジセイは当たり前の事のように言う。
「……え?」
「お前は薬師見習いなのだろ? わざわざ人を呼ばずとも、お前がしてくれればよい」
ジセイはシロンに向かって無造作に腕を差し出した。シロンは小さな鞄に入った薬瓶に手を伸ばしかけて動きを止める。
「……私はまだまだ未熟な見習いの薬師です。調薬も修行中の身、郷長の手当など恐れ多い事です」
「気にするな。傷薬を塗って、布を巻くだけだろ? 今はお前しかいないのだから、お前に手当してもらうしかあるまい」
「ですが……」
「何をためらう? では今だけ、名も知らぬただの狩り人とでも思っておけばいい」
「……畏まりました。それでは失礼いたします」
シロンは薬瓶を取り出し蓋を開け、ジセイの腕を持つ。
(ここで手当しないと郷長に変に思われる。だけど、私がもしこの人に薬を塗ってまた何かあれば……)
薬の塗布をする段になって、晩餐会で倒れたグロムの姿が頭をよぎった。
「ぐっ……申し訳ありません。やはり、できません。どうかお許しを……」
シロンはジセイの腕を離し、顔を覆う。シロンの手から取り落とされた薬瓶は地面に転がり薬液は土に吸い込まれていく。少し離れて見守っていたラカは、シロンの様子がおかしい事に気づいて駆け寄る。
「どうした?」
「ラカ、私……手当……できなくて、郷長が手に怪我を……」
シロンは真っ青な顔をして、今にも倒れそうな様子。ラカはシロンの言葉と転がる薬瓶を見て、何があったのかを瞬時に把握する。
「郷長、妹をお許しください。高貴なお方への治療など初めての事で緊張したのでしょう。申し訳ありませんが妹がこのような有り様では手当どころではなく、本日は御前を失礼させていただきます。すぐに他の者をお呼びしますので」
ラカは具合の悪そうなシロンを抱き上げ、ジセイに謝罪する。
「……分かった。もう良い、行け。傷の手当は気にせずとも良い」
ジセイは、顔色の悪いシロンを目に留め、言葉少なに帰宅を許可した。ラカはもう一度礼をすると、急いで屋敷まで駆け戻る。シロンは体温が急激に下がっており、小刻みに震えている。ラカに抱えられたままじっと何かに耐えている様子。かなり具合が悪いことが察せられた。
「姫さん、もうちょい辛抱な」
屋敷の裏に着くとラカはシロンを木の側に下ろす。シロンはそのまま前のめりに倒れ込むようにして嘔吐する。
「ぐぅっ……私が……私がグロム様を……」
「姫さん、我慢するな。全部出してしまった方が楽になるから」
ラカは静かに声をかけながら、優しく背中を撫で続けた。しばらくして吐き気が治まったシロンをゆっくり抱き起こすと木にもたせかけ、手ぬぐいで口元を拭い、屋敷から白湯を持ってくる。
「姫さん、ほい、口ん中気持ち悪ぃだろ。これで濯ぎな」
「ラカ、私……」
「今はまだ、考えなくていいよ」
ラカは、シロンの頭を優しく撫でる。まだ顔色の優れないシロンを抱き上げ、屋敷に運ぶと布団に寝かせ、白い花を煎じた薬湯を持ってきてシロンに飲ませた。
「姫さん、一緒にいるから休んでて」
「ありがとう……ラカ」
シロンは青白い顔のまま小さく微笑んで、目を閉じると、そのまま意識を失うようにすっと眠りに誘われた。
(今この時だけは眠って忘れろ、姫さん)
◇◇◇
ラカがシロンを連れ去った後、ジセイは地面に転がった薬瓶を拾い上げた。手に持った小さな薬瓶を暫く眺め、蓋をすると、そっと懐に忍ばせた。
(シロンの様子はただ事では無かったが……まさかな)
ジセイの胸の中には、シロンに対する愛しさが募っていたが、疑問や不信感が小さなシミのようにポツリと落ちて広がった。ジセイは郷長の屋敷に戻るとすぐに、シロンの落とした薬瓶をシュカに渡した。
「薬の成分を調べてくれ」
シュカは何も聞かずに瓶を受け取ると、薬瓶に僅に残った薬剤を特製の銀皿に垂らす。
「何が出た?」
「特に体を害する成分は入っていないですね。臭い、色ともに問題はなく。良くできた、ただの傷薬ですね」
「……そうか」
ジセイは腑に落ちない顔で薬瓶を見ている。シュカは銀皿を片付けながら主人の様子を伺う。
「何か気になることでも?」
「薬師見習いに傷の手当を頼んで、断られた」
「断られた? 例の薬師見習いにですか」
「あぁ。しかも、その薬瓶を取り出した後、真っ青になって怯え出した」
シュカはジセイの話を聞きながらジセイの腕をとり、シロンが出来なかったという傷の手当をあっという間に終わらせた。
「毒薬で暗殺でも企んでいるのかと思われた訳ですね」
「まぁ、そんな所だ。結局、“高貴な者への治療が初めてで緊張した”だけだったのだろう」
「そうですか」
(とてもそんな感じには見えなかったがな……)
ジセイは本心とは裏腹にラカが口にした言葉を引用してシュカに返答した。