悪魔の口
辺りが明るくなり、ラカは周囲の状況を把握する。ラヴォーナ国とサルト国の国境を隔てる険しい山脈、その裾野に広がる巨大な樹海が眼下に広がる。その濃い緑の中にあっても目立つ漆黒の三日月が嫌でも目に入る。
「まずい、こんなところまで来ちまったか」
追撃を逃れ飛び続けることに精一杯で、途中から進行方向を気にする余裕がなくなっていたらしい。いつの間にかその場所が迫ってきている事に気づいたラカは焦りを覚えた。
そこにあるのは、大昔、大地が活発に活動していた頃に出来たと言われている巨大な三日月形のクレバス。その周辺では磁場がおかしくなっており、計器類はいっせいに狂う。クレバス付近の気流は複雑に乱れ、操縦不能になる。その深い亀裂に飲み込まれたが最後、生還したものはいない。命の惜しい飛空船乗りは決して近づかない“悪魔の口”と呼ばれる有名な難所だった。
サギーナ国の執拗な攻撃により破損した小型飛空船は高度をどんどん下げていく。前方にはラカをあざ笑うかのような“悪魔の口”が待ち構えている。
「くそっ! 何が国一番の空艇操士だ! 頼むから上がってくれ!」
ラカの叫びも虚しく、小型飛空船は“悪魔の口”に捕らえられてしまう。
クレバス周辺の乱気流はラカの想像以上に凄まじかった。ラカの操縦技術をもってしても、縦横無尽に吹く風には抗えず、小型飛空船のちっぽけな推進力では風に翻弄され、思うように操縦ができない。なんとか持ち直そうとしたラカだったが、必死の健闘もむなしく、シロンを乗せたまま、“悪魔の口”に吸い込まれるようにして落ちていった。
ラカはそれでも諦めなかった。必死に“悪魔の口”に食らいつく。気流にもまれながら、クレバスの壁に激突しないように精一杯こらえた。
(激突大破も墜落もさせない! こうなったら、有るかわからないけど、底に不時着して見せる)
「姫さん……悪りぃけど、地獄の底まで付き合ってな。行くぞ!」
ラカは覚悟を決めて、クレバスの闇の中へと自ら突っ込んで行った。
地上の光がどんどん遠くなっていく。闇の中を下降し続ける飛空船……永遠にも一瞬にも思える時間が過ぎた。感覚が麻痺し始めた頃、真っ暗なはずのクレバスの底に何故か青白い明かりが見えた。ラカは一か八かその明かりを目指して飛空船を操作した。
ツプンと何かの幕を突き抜けたような不思議な感覚の後、明かりは徐々に近くなり、それが恐ろしいほどに美くしい青く澄んだ地底湖だということが分かった。湖面を滑るように降下しザプンッと着水する。ラカはなんとか無事に不時着することができ、ホッとする。
よくここまで飛んでくれたものだと思えるほどにズタボロになった飛空船は、微妙なバランスでかろうじて地底湖に浮かんでいる。ラカはすぐさま操縦席の扉を蹴破って、後部座席のシロンが入った丸い容器と小さな鳥篭を抱えると、飛空船の上にはい出した。
(よかった、ちっちゃい姫さん無事だった……)
ラカはあたりを見渡す。光も届かぬクレバスの底のはずだが不思議と明るかった。飛空船の成れの果てを後にし、シロンの入った容器を抱えながらそう遠くない対岸を目指して泳ぐ。対岸につく頃には、飛空船はゆっくりと船首を上げてあっという間に湖底へと沈んでいった。
岸になんとか這い上がったラカは、地底湖の冷たさに体力を奪われ、さすがに気力を使い果たして倒れこむ。
(姫さんごめん、俺、ちょっとだけ休ませて……)
ラカは丸い容器を抱え、そのまま気を失うように眠った。