闇の中で、ただただ悲しくて
美咲が五味の家を出たのは、午後9時頃だった。
酔っ払ってしつこく絡んでくる五味を上手く丸め込み、彼のマンションを出た美咲は、自宅に向かって走り出した。
五味のマンションから美咲の家は、決して近くない。徒歩で行き来できない距離ではないが、普通に歩けば、1時間ほどかかる距離だ。
だが、美咲は、バス停で立ち止まることもなく、ひたすら走り続けた。まるで、何かを振り切ろうとするように。
彼女の身体能力は決して低くないが、かといって高くもない。中学の頃から運動部に所属したこともなく、言ってしまえば人並みだ。
そんな美咲が、驚くほどの長距離を、彼女にしてはかなり速いテンポで走り続けた。息が切れ、喉の奥からヒューヒューと高い音が漏れているのが分かる。もうかなり気温は低いのに、額に汗が滲んでいる。呼吸困難で倒れてしまうのではないか──そんなことさえ思わせるほどの走り方だった。
それでも彼女は、何かを振り切ろうとするように──何かから逃げるように、走り続けた。
本人にとっては異常とも言えるペースで走り続けていれば、当然、肉体的な限界は簡単に訪れる。美咲の足取りはすぐに重くなり、ペースは格段に落ちた。足がフラつき、歩いているのと変わらない速度になった。喉から漏れる音が、かすれてきている。
五味の家から3キロメートルほど離れた辺りで、美咲は足を止めた。ひと気の少ない住宅街だった。彼女の自宅までは、まだ1キロメートルほどある。街灯に照らされた、暗い夜道。100メートルほど先には、コンビニエンスストアの明かりが見えていた。
立ち止まった美咲は、その場に膝をついた。激しく息を切らしている。
「うっ……ぅあっ……」
呻き声を漏らした後、美咲はその場で吐いた。五味の家で食べた物を全て吐き出し、吐く物がなくなると、胃液を吐いた。それでも吐き気が止まらないのか、胃液すら出なくなった後は空吐きしていた。
そんな美咲の様子を、洋平は見ていた。いや、見ていた、という表現は正確ではない。洋平には、もう何も見えないのだ。ただ、美咲の様子が分かるのだ。見えなくても、聞こえなくても、彼女がどんな様子で、どんな声を漏らしているのか、分かるのだ。
「……洋平……」
美咲は、泣いていた。嘔吐し、苦悶の声を漏らしながら、泣いていた。洋平、と繰り返しながら泣いていた。
こんな様子の美咲を、洋平は初めて見た。どんなときも、ほとんど表情が動かない美咲。ほんのかすかな、彼女のことをよく知る人間にしか分からなかった、彼女の表情の変化。そんな彼女が、今、はっきりと自分の感情を露わにしていた。
美咲の様子を見て、洋平は、自分の思い違いに気付いた。美咲は確かに、洋平のことを好きでいてくれたのだ、と。洋平以外の人には分からないかすかな表情の変化で、彼女は自分の気持ちを表していたのだ。洋平から告白されたとき。洋平と一緒に出かけたとき。洋平から誕生日プレゼントを貰ったとき。美咲は、ほんの少しだけ目尻を下がらせ、口角を上げて喜びを見せていた。
美咲の表情の変化は、洋平にしか分からない、かすかなものだ。そんな、自分しか分からない彼女の表情の変化を見るのが好きだった。不器用に喜びを見せる彼女が誰より好きで、そんな彼女の変化に気付ける自分は、誰よりも彼女のことを知っているつもりだった。
それなのに洋平は、美咲を信じられなかった。彼女が五味に言った言葉を鵜呑みにし、彼女が自分と嫌々付き合っていたのだと思ってしまった。
俺は馬鹿だ!!
洋平は、ようやく気付いた。どうして美咲が、五味などと付き合っていたのか、に。
美咲は、五味が洋平の死に関わっていると気付いていたのだ。いや、今の彼女の様子から、殺されているとまでは思っていなかっただろう。しかし、洋平の失踪に五味が絡んでいることには気付いていた。だから、五味と付き合ったのだ。洋平の行方を探るために。
思い起こせば、確かに違和感はあった。五味の前で見せる美咲の表情は、どこかわざとらしかった。笑顔も照れた顔も、不安そうな顔さえも。それらは全て芝居だったのだから、当然だ。
美咲は洋平の行方を探るために、嫌いな男と付き合っていたのだ。底知れぬ嫌悪感に耐えながら。
それなのに洋平は、美咲を信じられなかったが故に抱いた、的外れな苦しみを感じていた。
洋平は、もう死んでいる。もう、悲しんでいる美咲を支えることも、慰めることもできない。たとえそれができたとしても、美咲を信じられなかった自分には、彼女に手を差し伸べる資格などない。
洋平は、もう消えてしまいたかった。美咲を信じることができず、さらに今の彼女に何もしてやれないのなら、自分が存在している意味などない。存在している価値もない。
人は、死ねば完全な無になると思っていた。こんなふうに意識だけ残るなんて、思ってもいなかった。
こんな状態がいつまで続くか分からない。もしかしたら、ずっとこのままなのかも知れない。もしくは、突如として意識がなくなるのかも知れない。死んだ経験などないから、想像もつかない。
できれば、生前の想像通り、完全な無になってしまいたい。美咲を信じることができなかった自分など、消えてしまえばいい。
洋平は、どこまでも卑屈になっていた。それでも、美咲のことを考えるのだけは、やめなかった。
美咲は、洋平の失踪の原因が──洋平を殺したのが五味だと知った。これで、彼女が五味と付き合う理由もなくなった。あとは、五味のことを警察に通報すれば、全てが終わるだろう。
全て終わったら、美咲には幸せになってほしい。自分のことなど忘れて欲しいと、洋平は願っていた。今度は、美咲を心から信じてくれる人を探して欲しい。
美咲を信じられなかった自分を、洋平は心の底から嫌悪していた。自分など、早く消えてしまえばいい。この意識だけではなく、美咲の心からも消えてしまえばいい。
洋平は、自己嫌悪の沼に全身で浸かっていた。
だから、考えもしなかった。考えることさえできなかった。
洋平を殺されたことを知った美咲が、どんな行動に出るのか。誰よりも好きな人を殺されてしまった彼女が、どれほどの憎悪を抱くのか。
そこまで、思考が行き渡らなかった。