絶望に堕ち、闇に染まる
美咲は、五味の家に来ていた。彼が、彼の父親に買い与えられたというマンションの一室。
1人で住むには贅沢とさえ言える、6階の2LDKの部屋。
美咲と五味が付き合い始めてから、1週間ほどが経っていた。
彼と付き合うことになった日に、美咲は、帰宅後、ひたすら今後のことを考えた。これから、どうやって、五味に洋平の居場所を吐かせるか。
布石として、自分は洋平のことなど好きではなかったということを聞かせた。だから、五味と付き合ってもいいかなと思っていた、と。
洋平の居場所を吐かせるためとはいえ、口にするだけで心が痛み、涙が出そうになるような嘘。
五味がその言葉を信じたのであれば、彼が洋平を隠す必要はなくなる。
美咲は、五味が洋平をどこかに監禁していると睨んでいた。それは、洋平が行方不明になった後に、五味自身が口にした言葉から簡単に推測できた。
『ひどい奴だよな。お前に何も言わずにどっかに消えるなんてよ。薄情だと思わないか。あいつにとっては、お前はどうでもいい女なんじゃないか?』
『お前に何も言わずに勝手に消えた奴のことなんか忘れて、俺にしておけよ』
どうして五味は、洋平が何も言わずに消えたと知っていたのか。
答えは簡単だ。何か言うこともなく突然消える状況を、彼自身が作ったからだ。
同時に、洋平が美咲の前に姿を現すことはないと確信しているのは、五味が洋平を監禁し、見張っているからだ。
美咲はそう推測し、確信していた。
私が、必ず洋平を助ける。そう決意したものの、美咲は、どうやって五味に洋平の居場所を吐かせるか、悩んでいた。
監禁は、立派な犯罪だ。いくら好き勝手に生きている五味でも、自分が犯した犯罪を簡単に吐くとは思えない。犯罪者となれば警察が介入し、彼の父親の威光も通じないことは、彼自身も分かっているだろう。
そもそも、だ。美咲は、頭に疑問符を浮かべた。全国でも上位に入るボクサーである洋平を、五味などというただの遊び人が、どうやって監禁できたのか。どんな方法を使えばそんなことができるのか。
その疑問に対する仮説は、簡単に思い浮かんだ。同時に、美咲の今後の行動の方向性が決まった。
そして今、美咲は、五味のマンションにいる。彼と2人きりではなく、彼が連れてきた友人3人も一緒に。
五味の友人の1人は、六田祐二。美咲と同じ高校の同級生で、野球部。真面目に野球をするタイプではないが、生来の運動神経に加え野球部が弱小だということも手伝って、2年生ながらエースを務めている。少し話しただけでも五味に近い傲慢な男だと分かった。
もう1人は、七瀬三春。彼も同級生だ。会話の中で、五味や六田に積極的に媚びを売っている。強い者に付き従い調子に乗る、コバンザメのようなタイプだった。
最後の1人は、八戸四郎。彼は1年だという。野球部に所属していたが、五味や六田と付き合い始めてから退部し、彼等の使い走りとなっている。気が弱いようで、五味や六田、彼等に付き従っている七瀬に逆らえないらしい。
彼等と一緒にこのマンションに集まったのは、美咲が、五味にこう頼んだからだ。
「人には言えないような秘密でも共有できるような、あんたの友達を紹介してほしい」
「あんたはモテるでしょ? だから、確信が欲しいの。私を好きでいてくれる、っていう確証が。私のことを好きなら、友達くらい紹介できるでしょ?」
五味1人で洋平を拉致監禁など、できるはずがない。絶対に協力者がいたはずだ。だったら、その中で1番口が軽そうな奴に、洋平の居場所を吐かせる。
美咲はそう目論んだ。
美咲の思惑通り、五味は、この3人を美咲と一緒にこのマンションに招いた。
秘密を共有できるような友達を紹介してと五味に頼んだら、この3人が出てきた。それだけでは、彼等が洋平を拉致するのに協力したとは断言できない。だが、彼等の会話や人となりを見て、この3人は全員、洋平の拉致監禁に協力していると思えた。
五味と同じくらい傲慢な六田は、ボクシングで優秀な成績を修めて校内で有名になっている洋平を疎ましく思って、協力した。
五味や六田に付き従っている七瀬は、彼等に媚びるために協力した。
彼等の使い走りの八戸は、その命令に逆らうことができずに協力した。
美咲の推測を裏付けるような行動を、彼等は取っていた。六田は、高校スポーツ界の華である野球部で2年生ながらエースになった自慢話を延々と披露しているし、七瀬は五味や六田をひたすら持ち上げている。八戸は、3人に命じられて、ここに来てから、もう2回も近所のコンビニエンスストアに飲み物や菓子を買いに行っていた。
五味や六田の自慢話に楽しそうな作り笑いを浮かべながら、美咲は、冷たく観察していた。この4人の中で、誰が1番、口が軽いだろうか。誰が、簡単に洋平のことを口にしそうか。
五味は主犯で、もし自分の行為が明るみに出れば、1番罪が重い。傲慢で下劣な性格の持ち主であっても、警戒はするだろう。もっとも、彼は今、自分の傷害罪での補導歴すら武勇伝のように自慢気に話している。案外簡単に口を割るかも知れない。
六田も、傲慢で自分を優秀だと勘違いしている。だが、野球部のエースという自分のステータスを脅かされるような行為をしたことに関しては、簡単には口を割らないだろう。
七瀬はお調子者で口が軽そうだが、付き従う対象である五味や六田が不利になるようなことを、漏らすとは考えにくい。もっとも、彼等よりも強い立場の者が現れたら、簡単に依存先を変えるタイプだろうが。
八戸は、1番簡単そうに見えて1番難しいかも知れない。気の弱い彼が、五味達を裏切ったときの報復を考えないはずがないのだから。
五味以外の3人とLOOTの連絡先を交換しながら、美咲は、五味に口を割らせるのが1番早いかも、と考えていた。もちろん、そんな感情は一切表に出していない。もともと感情が表に出にくい美咲は、こんな心理状態でも作り笑いを浮かべられる。
一刻も早く、洋平に会いたい。一瞬でも早く、洋平を助けたい。美咲は焦りを感じていた。もし自分が強かったなら、この場で4人を殴り倒して、洋平の居場所を吐かせるのに。それこそ、自分が洋平くらい強かったら。
缶ジュースを持つ手に力が入りそうになるのを、美咲は必死に抑えていた。
突然、隣に座っていた五味が、美咲の肩を抱いてきた。
部屋の中は暖かい。しかし、寒気がした。鳥肌が立つ。思わず、持っていた缶ジュースを五味にかけそうになった。理性を総動員して、衝動を抑えた。
「なあ、これで、俺がお前に本気だって分かっただろ?」
五味は酒臭かった。
「こうやって友達も紹介したし、少しは安心できたか?」
「──!」
美咲の頭の中に、光が射した。ひと筋の光。
頭の中が冷え切っていて、思考がクリアになった。五味に肩を抱かれて、寒気がしたせいだろうか。思い付いた発想がひとつの点となり、ゴールまでの道筋に次々と点が現れた。点と点を線で結び、ゴールまでの道筋を明確にしてゆく。
五味から、洋平の居場所を、吐かせることができるかも知れない。
「そうだね。でも……」
あえて自分の肩を抱く五味の手を払わず、美咲は俯いて見せた。両手で缶ジュースを持つ。伏せた目。不安そうに歪めた口元。その表情の全てを、計算して作っていた。
「どうした? まだ、何か不安か?」
五味が、理想的な質問を投げてきた。もし洋平くらい感情が表に出やすい人なら、きっと、ここでほくそ笑んでしまっただろう。洋平と一緒にいるときは疎ましく思っていた自分の特徴に、美咲は改めて感謝した。
「今ね、楽しいよ。あんたが私に本気だって分かったし、あんたの友達も楽しいし。でも、ね……だから、不安なの」
「?」
どういうことだ、とでも言いたげに、五味は美咲の顔を覗き込んだ。顔が近い。気持ち悪い。吐き気がする。そんな気持ちは、当然のように表には出さない。
キュッと口を一文字に結んだ後、美咲は、すがるように五味を見た。もちろん、そんな表情も全て芝居だ。
「今が楽しいからこそ、不安なの。もし、洋平が突然帰ってきたら、って思うと……また以前みたいな生活に戻らないといけなくなるから……」
辛そうな様子を見せるため、美咲は目を細めた。
こんなことを言えば、五味が暴走して、取り返しのつかないことをするかも知れない。つまり、洋平を殺害し、絶対に戻って来られないようにするかも知れない。もちろん、そんな可能性は薄いと思っていた。いくら五味がクズのような人間でも、安易な理由で殺人にまで手を染めたりはしないだろう。
それでも、万が一のことがあるかも知れない。そう考え、美咲は、保険をかけた。洋平が戻って来ても大丈夫だと、五味に思わせるために。
「もし、洋平が戻って来たとしても、洋平の方から私を振ってくれれば、問題はないんだけどね。私さえ気にしなければ、私のお母さんと洋平のお母さんの仲が拗れることもないだろうし」
五味に洋平の居場所を吐かせるため、口から出したデマカセ。反面、美咲の本心も混じっていた。
洋平が無事に帰って来てくれるなら、それでいい。彼の居場所を探るためとはいえ、自分は、五味なんかと付き合った。そのせいで嫌われ、別れを切り出されるかも知れない。それでも、何事もなく洋平が無事に帰って来てくれればいい。彼が、幸せそうに笑っている。それが、美咲にとって、何にも代え難い宝なのだから。
五味は、抱いた美咲の肩を抱き寄せた。彼と体が密着する。胸の中で溢れている粘り気のある気持ち悪さを堪えながら、美咲は五味を見た。
五味は、笑っていた。
「安心しろよ、美咲。あいつは、絶対に戻ってこないから」
「おい、五味!」
向かいに座っていた六田が、こちらに身を乗り出してきた。彼も酒を飲んでいる。その顔は少し前まで赤くなっていたが、今はむしろ青くなっている。
「やめろ! やばいって!」
やはり、六田も、洋平の居場所を知っているのだ。彼の反応から、美咲は確信した。
七瀬は、五味と六田を交互に見ていた。2人が争ったら、どちらに付けばいいのだろう?──そんなことでも考えているのだろうか。
八戸は、どこか怯えているようだった。争う雰囲気を見せている2人に怯えているのか、それとも、何か別のことに怯えているのか。
「うるせえよ。いいだろ、話してやっても。こいつは俺の女なんだ。自分の女には、真実を言ってやるもんだろ」
そのセリフの後、五味は誇らしげに笑って見せた。自分のセリフに酔っているのかも知れない。
気持ち悪い自己陶酔はいいから、早く言いなさい。美咲は、五味を急かしたくなった。でも、駄目だ。必死に自制する。何も知らない振りをして、まったく気付かない振りをして、五味の言葉を待った。
洋平はどこにいる? どこに行けば洋平に会える? どこから洋平を助け出せばいい?
六田は、五味に掴みかからんばかりの様子だった。
そんな彼を尻目に、五味は口を開いた。
「あいつが戻って来ることなんて、ないんだよ」
「?」
意味が分からない、という表情を美咲は浮かべた。それは、美咲にとってはいつもの無表情だった。
五味の顔が近付いてくる。美咲の顔から、5センチ程度の距離。
酒臭い息を吐きながら、彼は言った。
「あいつは、死んだんだ」
「おい、五味!」
六田の怒鳴り声が、なぜか遠くに聞こえた。
美咲は、五味の言葉の意味が、理解できなかった。
「あいつが、あんまりお前に執着するから、半殺しにしてやろうと思ってな。徹底的にやってやったんだ」
酒臭い、五味の息。その臭いに乗って吐き出される、彼の言葉。
「ボコボコにしたら、死んだんだ」
「……」
頭の中が真っ白になるという感覚を、美咲は、生まれて初めて知った。自分の周囲全体が、真っ白になって見えた。ただの白い空間。そこに、自分ひとりだけ残されたような感覚。真っ白な光景はどこまでも続いていて、終わりが見えない。
果てしない、白い、白い空間。
それでも、五味の声は聞こえてくる。下衆という言葉が誰よりも似合う男の声。
「だから、安心しろよ。あいつが帰ってくることなんてないんだ。お前は、安心していればいいんだよ」
洋平が死んだ。
殺された。
美咲は、真っ白い空間の中で何度も五味の言葉を反芻し、その意味を考えていた。
洋平が死んだ。殺された。
つまり、もう、洋平はどこにもいない。2度と帰って来ない。
2度と会えない。
美咲がいる真っ白な空間の色が、変わってゆく。少しずつ、色が着いてゆく。それは、色と呼べるものではなかった。黒いしずくが1滴1滴落とされるように、染みができてゆく。白い空間は、やがて、視界が完全に塞がれるほど真っ黒に染まった。
絶望の色に包まれた。
六田と五味が何かを言い合っているが、美咲の耳には届いていなかった。
嘘だと思いたかった。洋平が死んだなんて嘘だ。
けれど、六田の様子が、嘘ではないことを物語っていた。
「なあ、美咲」
酒臭い息とそれを放つ不快な存在が近付いたことで、美咲の視界が現実に戻った。黒い空間が、五味の接近によって払われた。
気が付くと、五味は、先ほどよりもさらに美咲に近付いていた。美咲を包んでいた黒い空間を、突き抜けてきたかのように。
「だから、な。お前は安心して、俺と一緒にいればいいんだよ」
五味の目は下劣な光を放っていて、彼が今何を考えているのか、言わずとも分かった。
「なあ、美咲。今夜は泊まっていけよ」
体が震えそうになった。背筋を始点として、全身に鳥肌が立った。この不快感を、どう表現したらいいのか──例える言葉が見つからなかった。あまりの気持ち悪さに悲鳴を上げ、五味を殴りそうになった。
それでも美咲は堪えた。頭の片隅に残っていた理性で、必死に演技を続けた。なぜそんな演技を続けたのか、自分でも分からない。けれど、五味の信頼を失ってはいけないと思えた。こいつは、私に気を許している。私に対して、何の警戒心も抱いていない。だからこそ、洋平を殺したことを、簡単に口にしたのだ。
「待って。今日は駄目」
今日は、11月19日。
五味は完全に美咲に気を許しているが、それをさらに盤石なものにする。意図的に貼り付けた笑みの奥で、美咲は、冷たく五味を見ていた。
「なんでだよ?」
五味は、不服そうだった。下劣な欲望を満たすことしか頭にない、下衆の顔。
「私ね、経験ないの。せっかくの初めてなんだから、思い出に残るようにしたいの。だから、クリスマスまで待って」
「1ヶ月以上もかよ」
五味は露骨に不機嫌な顔になった。
美咲は、鏡の前で散々練習した、甘えるような上目遣いを五味に向けた。
「お願い。大切な思い出にしたいの。いつしたかも覚えていないような思い出より、ずっと忘れられない思い出にしたいの」
美咲の顔を見て、五味の表情が崩れた。口の端が上がる。
「まあ、お前は俺にとって特別だからな。いいよ。その代わり、クリスマスは寝かせないけどな」
「うん」
照れたような表情を作り、美咲は笑った。心と表情の連動が脆弱だからこそ可能な、作り笑い。
笑顔の奥底にある心の中は、先ほど美咲自身が見た光景のように、黒く塗り潰されていた。
夜の闇よりも遙かに深く暗い、黒に。