決意を知らず、絶望に堕ちる
俺は、もう死んでいるんだ。
そう自覚したものの、洋平は、自分の死を簡単には受け入れられなかった。
五味達に、明らかに死に繋がる凄まじい暴行を受けた記憶がある。意識が薄れてゆくのを覚えている。
凄まじい痛みと、朦朧とする意識の中で、美咲のことだけを考えいた。それなのに、目覚めた瞬間には痛みなど感じず、五感もなく、その反面、周囲のことははっきりと理解できた。
人間は──いや、全ての生き物は、死ねば完全な無になると思っていた。生き物は脳という器官で操縦されている仕組みであり、その脳が死ねば意識はなくなる。つまり、無になる。そう信じていた。
理論的に生きるということを考えることができ、生き物の構造も理解しているつもりだった。だからこそ、意識のある自分が、すでに死んでいるとは到底思えなかった。思いたくもなかった。
自分の死を受け入れられない洋平は、1週間ほど、様々な場所を彷徨った。
目も耳も鼻もない。だから、見ることも聞くことも、匂いを感じることもできない。話すことも、何かに触れることもできない。
ただの意識となって、この1週間、様々な場所に行った。中学の頃から通っていたボクシングジム。美咲と一緒に行き、ボートに乗った近所の公園。インターハイの会場となった宮崎県の体育館。
どこに行っても、何をしても、洋平の存在に気付く者はいなかった。洋平自身も、そこに何があり、周囲の人達がどんな話をして、どんな匂いがして、どんな状況なのかを理解できても、何も感じられなかった。見ることも聞くこともできず、暑さも寒さも感じられない。
ここまでくると、もう受け入れるしかなかった。認めるしかなかった。自分はもう死んでいるのだ。
死んでから2週間ほど放浪し、漂い、かつて生きていた頃に足を運んだ場所を巡り、洋平は自分がいた場所に帰った。生まれ育った北国。
11月も中旬に入り、首都圏の真冬ほどの寒さになっている地元。すでに死んでいる洋平は、当然ながら何も着ていない。着る体がない。それでも寒さは感じない。
気温が低くなっていることは分かる。寒いということも分かる。けれど、それを感じることはない。
もう、何も感じることができない洋平。
しかし、地元に帰ってきた瞬間、洋平は、極寒を味わうこととなった。心が完全に凍り付くような出来事を目の当たりにすることとなった。
場所は、洋平や美咲の通学路。いつも彼女と歩いていた道だった。学校から離れ、同級生に見られることがないような道。
そこで、美咲が、五味に口説き落とされていた。彼の告白に、美咲は首を縦に振った。
「マジで!?」
裏返った、五味の驚きの声。彼は、美咲に振られ続けていた。洋平と付き合っているから、と。だからこそ、美咲が簡単に首を縦に振ったことに、驚いたのだろう。
「嘘じゃないよ。本当に、私のことが好きなんでしょ? それなら、あんたと付き合うよ」
美咲は、五味に笑みを見せていた。洋平が今まで見たことのない表情だった。彼女の表情に違和感を覚えたが、そんなことなど気にも止められないほど、洋平は強い衝撃を受けた。
五味は、人として完全にクズだ。人がいいとよく言われていた洋平ですら、そう断言できる人物だった。死ぬ直前には、そのクズの度合いを嫌というほど味わった。だからこそ洋平は、美咲が五味と付き合うということを受け入れられなかった。
美咲と付き合えるということがよほど嬉しいのか、五味は、口元を大きく笑みの形に歪めていた。
「ようやく、俺がどれだけ本気か分かってくれたのか? それとも、あいつがいなくなって、気兼ねする必要がなくなったのか?」
よほど興奮しているのか、五味は、少し皮肉めいたことを美咲に聞いた。
美咲は、軽く息をついた。少し芝居がかった溜息だと感じた。
「両方かな。正直、あんたと付き合ってもいいとは思っていたんだけど……でも、ね」
「なんだ?」
「本当のことを言うと、洋平とは、ずいぶん前から別れたかったんだ。洋平と別れて、あんたと付き合いたいとも思ってた。でも、洋平のお母さんと私のお母さん、すごく仲がいいから。だから、ね。私が洋平と別れて2人が気まずくなるのも嫌だな、って思って」
「なんだ、そうだったのかよ」
五味は、やっぱりな、とでも言いたげな顔を見せた。
「まあ、よく考えてみれば、俺よりあいつがいいなんて有り得ないしな。よかったじゃねえか、あいつがいなくなって」
「うん。正直言って、ホッとした」
洋平はもう死んでいる。痛みなんて感じるはずがない。苦しいなんて思うはずがない。それなのに、凄まじい苦痛を覚えた。凍り付いた心が、ハンマーで砕かれたようだ。苦悶の声すら出せなくなるほど痛い。砕かれた心は、ガシャンとガラスのような音を立てて散らばった。その音が、今はもうない耳の奥に届いた。
俺は、美咲の足枷だったのか。俺は、美咲の幸せを邪魔していたのか。もう涙すら流せない洋平は、感情のコントロールを失いかけていた。泣いて発散することも、手で顔を覆って現実から目を塞ぐこともできない。
非情とも言える光景を目の当たりにした洋平。心の中で呼び起こされたのは、五味達に殺された日の記憶だった。
あの日──五味達に殺された日。洋平は、彼ら4人に、高校から1キロメートルほど離れた建設現場に呼び出された。五味の父親の会社が施工管理している、マンションの建設現場。その、建物の土台となる掘り起こされた部分。
五味達が洋平を呼び出した理由は、想像通りだった。美咲と別れろ。あいつは俺の女になるんだ。
俺が美咲と別れたからといって、彼女がお前を選ぶはずがないだろう。
あのときはそう思っていた。同時に、4人がかりで脅されたからといって、簡単に別れるはずがないだろうとも思っていた。心の中に浮かんだそのセリフを、洋平は、はっきりと口にした。
五味達は、至極単純に暴力に訴えてきた。3人がかりで洋平に殴りかかってきた。
ボクサーである洋平は、簡単には手出しできない。この国の正当防衛成立の要件は、正気の沙汰とは思えないほど厳しい。
基本的に正当防衛とは『急迫不正の侵害に対して、自己または他人の権利を防衛するため、やむを得ずした行為』であり、かつ『防衛行為が必要最低限のものであること』が要求される。
この『防衛行為が必要最低限のものであること』が、正当防衛成立を著しく困難にさせるのだ。
殺意もしくは殺意に近い感情を抱いて襲いかかってくる者に対し、最低限度などという境界線を引きながら撃退するのは、困難だ。中途半端な抵抗はかえって相手を激高させ、さらに大きな被害を招く。かといって、無抵抗のままでも、無事でいられる保証はどこにもない。
理不尽に害意を持って襲いかかられた場合は、襲ってきた相手を行動不能にしない限り、完全な身の安全など計れないのだ。
洋平にとって、五味達を行動不能にすることなど、簡単だった。グローブを着けていない拳で人を殴ったら、拳の方が負傷してしまう。それならば、掌で殴ればいい。目の周囲を数発殴れば、瞼が大きく腫れ上がり、視界を失うだろう。簡単な作業だ。
作業自体は簡単なのだ。それが、正当防衛だと確実に認められるのであれば。
たとえ数人がかりで襲われたという事実があっても、きっと、正当防衛は認められない。洋平はそう確信していた。五味達を撃退すれば、洋平がボクサーだという事実だけで、過剰防衛と判断されるだろう。
もし、洋平が過剰防衛で罪に問われたらどうなるか。母親──洋子が批難される。付き合っている美咲に迷惑がかかる。もしかしたら、法律を生業としている美咲の母──咲子にさえ迷惑がかかるかも知れない。
そんな、確信に近い不安があるから、洋平は決して五味達を撃退できない。
危険を伴うが、専守防衛に徹して五味達が疲れるのを待つしかない。そう判断した洋平は、3人の最初の攻撃を、ある程度大きくバックステップして避けた。素人らしい大振りのパンチ。彼等が武器も持たずに襲いかかってきたのは意外だったが、好都合でもある。
2、3度彼等の攻撃を避けて、洋平は、完全に彼等の攻撃の間合いとタイミング、拳の軌道を見切った。
ボクサーは、戦う際に相手と自分の距離を測る。同時に、相手のパンチの軌道、自分に届くタイミングを測る。距離とタイミング、軌道が読めれば、避けることは容易だ。攻撃を見切る、と言われる行動。攻撃を見切ってしまえば、相手の射程圏内にいても、それほど苦もなく避けられる。
ほんの数発で相手のパンチを見切った洋平は、掘り起こされた建設現場の土台の中で、土壁を背にした。こうしていれば、背後から襲われる心配はない。いくらパンチを見切ろうとも、後ろに目がない以上、背後からの攻撃は避けられない。
掘り起こされた建設現場の土台の深さは、1.5メートルほどか。土台の土壁に軽く背を預けながら相手の攻撃を避けるには、十分な高さだ。
洋平を壁際に追い込んだような状態の3人は、何発もパンチを繰り出してきた。正面に五味。左右に取り巻きの2人。正面からのパンチは手で払い落とし、左右からの攻撃を両肩で弾きながら、洋平は、彼等が打ち疲れるのを待った。
「……?」
3人の攻撃を避けながら、洋平は、ふいに違和感を覚えた。
3人……?
正面に五味。左右に彼の取り巻きが1人ずつ。
ここに呼び出されたときは、4人いなかったか? 五味自身に、その取り巻きが3人の、合計4人。
残り1人は、どこに行った?
そんな疑問を抱いたときには、もう手遅れだった。
バチバチッ、と洋平の耳元で嫌な音が鳴った。青白い光が、洋平の後方で発生した。同時に、洋平の体中に、引きつるような痛みが走った。全身の筋肉がつったような状態になり、体が硬直した。
瞬時に気付いた。五味の取り巻きの1人が掘り起こされた土台から出て、背後に回り込んだのだと。
体がつって動けなくなった洋平は、立て続けに数発殴られ、その場にうつ伏せに倒れ込んだ。11月の地面の土に触れた頬が、冷たかった。
洋平の横で、誰かが、掘り起こされた土台の中に降りてきた足音がした。体が動かないので確かめることはできないが、洋平に何かをした奴だろう。あの音と青白い光。体が引きつって動けなくなったことから考えて、スタンガンを当てられたのだと想像がついた。
「おい、もう1発やっとけ」
五味の声が耳に届いた。何をされるのか、簡単に想像がついた。当たって欲しくない想像だった。
バチバチッ
再度、先ほどの嫌な音が聞こえた。もう1度スタンガンを当てられたのだ。洋平は苦悶の声すら出せなかった。喉や横隔膜すら引きつっている気がする。呼吸をすることさえ苦労するほど、全身の筋肉が言うことを聞かない。
「よお、ボクサー」
頭上から、五味の声が聞こえた。嘲るような声だった。
「ずいぶん余裕こいてたな」
嘲りと、怒りも混じっているようだった。怒りをぶつけるように、五味は、倒れた洋平を何度も蹴った。蹴られた衝撃で、洋平の口から息が漏れた。苦悶の声も出せないのに、息は出せるらしい。呼吸をすることすら苦しい状況で何度も蹴られたせいか、頭がボーッとしてきた。
数発蹴って息を切らした五味が、洋平に命令してきた。
「おい、美咲と別れろよ。お前とじゃ不釣り合いだ。あいつは、俺の女なんだよ」
馬鹿か。別れるわけないだろう。そう言おうとしたが、言葉が出なかった。声を出そうとしたが、腹の筋肉が引きつって、上手く喋れない。
返答がないことを否定と判断したのか、五味は、洋平のもとでしゃがみ込み、洋平のジーンズのポケットを探った。前ポケットに入れていたスマートフォンを取られた。
「まあ、お前が別れようと別れなかろうと、あいつは俺の女になるんだけどな」
五味は、洋平のスマートフォンを操作していた。
洋平は、スマートフォンにロックをかけていない。美咲に言っていたのだ。
「俺に怪しいところがあったら、いつでも見れるように、スマホにロックはしない。いつでも見ていいから」
裏目もいいところだ。美咲ならともかく、こんな奴に使われるなんて。
「まあ、結局、女なんて、1回ヤッちまえばいいんだよ」
引きつる洋平の背筋に、ゾクリと悪寒が走った。鳥肌が立ったのは、寒いからではない。これから五味が行おうとしている行動に虫酸が走り、同時に、恐怖を覚えたのだ。
「お、LOOT発見」
五味は、LOOTで美咲を呼び出すつもりなのだ。洋平のスマートフォンを使って。洋平を装って。彼女を呼び出し、襲うつもりなのだ。
洋平は、最悪の事態に備えていた。念のため、メールで、美咲にメッセージを送っておいた。
『今日は、誰から連絡があっても絶対に家から出るな。俺からの連絡だったとしてもだ』
万が一のための対策メール。五味が洋平を呼び出した時間に見られるよう、送信予約をした。LOOTを使わなかったのは、リアルタイムのメッセージで送ると美咲に言及される可能性があったからだ。五味に呼び出されたことを美咲に知られずに、片を付けたかった。
しっかりと対策をしたつもりだったが、不安だった。普段はLOOTでやり取りをしている美咲が、洋平からのメールに気付いているだろうか。もし気付いていなかったとしたら……もし、メールを見る前に、五味が送信したLOOTのメッセージを見てしまったら……。
間違いなく美咲は、ここに来てしまう。ここに来て、待ち伏せていた五味に……。
体中が、急激に冷たくなった。五味の思惑により起こるだろう最悪の事態に、心臓が強く脈打った。
駄目だ! それだけは絶対に駄目だ! どんなことがあっても、美咲だけは守るんだ!!
洋平の体は、思うように動かない。体中が、つったような痛みに襲われている。動かそうとしても、体が痙攣して、言うことを聞いてくれない。
それでも、動かなければならない。
たとえ自分がどうなっても、美咲だけは守るんだ!!
ガタガタと痙攣する体を、洋平は無理矢理動かした。
五味は、洋平のスマートフォンを使って美咲を呼び出そうとしている。たとえ彼から奪ったとしても、今の洋平では簡単に奪い返されるだろう。
それならば、壊すしかない。
洋平は、引きつった両腕にあらん限りの力を込めた。腕立て伏せのような体勢で上体を全力で逸らし上げ、五味が手にしている自分のスマートフォンまで頭を持ち上げた。
口を大きく開けて、五味が手にしている自分のスマートフォンに噛み付いた。強引に顎に力を入れ、五味の手からスマートフォンを奪い取る。
そのまま、自分の顔ごと、スマートフォンを地面に叩き付けた!
バキバキバキッ──ボキンッ!
スマートフォンの液晶や中の部品が割れる音が、骨伝導となって洋平の頭に響いた。同時に、歯茎に凄まじい痛みが走った。歯が折れたのだ。割れたスマートフォンの液晶が、洋平の口内をズタズタに切り裂いた。口の中に、生温かく鉄臭い味が広がった。
通常であれば失神しても不思議ではないほどの痛みに襲われながら、洋平の心は、ただひとつの思いに満たされていた。
よかった。これで、美咲を守れた。
洋平の心の中は、それだけだった。ひたすら美咲の身を案じ、彼女を守れたことに安堵した。これから、自分が五味達にどんな目に合わされるか想像できたが、恐怖はなかった。美咲のことだけを考えていた。
もっとも、命まで奪われるとは思っていなかったが。
美咲を呼び出そうとしたことを妨害された五味は、洋平の想像通りに激高した。
「ふざけんなや! てめえ!」
直後、凄まじい暴行が洋平に降り注いだ。顔や背中を、叩き付けるように踏まれた。何度も、何度も、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も。
洋平は、自分が殺されたときの凄惨な暴行を思い出していた。美咲を守るためだけにただただ必死で、自分の身の危険も顧みなかった。物言わぬ死体となった後、冷たい土に埋められた。それでも、美咲を守るために命をかけたことを、後悔はしなかった。
そして今も、洋平は後悔していなかった。
粉々に砕かれた心は、ガラスの破片のように散らばった。辛いし、悲しい。痛みを感じる体はないが、心の痛みは明確にあった。
この痛みは、恨みや憎しみではない。美咲を守るために命を失ったことに対する後悔でも、もちろんない。
俺のせいで美咲の時間を奪ってしまった、という気持ち。俺が告白なんかしなければ、美咲は今頃、彼女自身が本当に好きな奴と付き合えていたんじゃないか、という後悔。
洋平は美咲が好きだった。幼い頃から、誰よりも好きだった。
夫の暴力のせいで離婚となった咲子は、美咲と仲良くなった幼い頃の洋平に、こう言った。
「美咲を守ってあげてね」
だからボクシングを始めた。好きな人を守れる男になりたかった。
洋平にとって、美咲は、何よりも誰よりも大切な人だった。何よりも誰よりも、大好きな人だった。彼女を守り、彼女に幸せになってほしかった。彼女を守って命を失ったことを、後悔するはずがなかった。
美咲の、時折見せるかすかな表情の変化が好きだった。彼女自身は自分を無表情だと思っているようだが、案外、そんなことはないのだ。
美咲は、嬉しいとき、少しだけ口角が上がる。それは、ほんのかすかな変化。同時に、ちょっとだけ目元が緩む。それは、透かし絵で見なければ気付かないほど、小さな変化。
洋平は、自分だけが知っている美咲の表情が、好きだった。他の人には分からない、彼女から染み出す感情を見るのが、好きだった。彼女のためなら、自分の全てを差し出せるほど好きだった。
それだけに、五味なんかとは付き合って欲しくなかった。
「その男はクズだ! 人殺しだ! 自分の欲望のために美咲を平気で襲おうとし、その妨害をした俺を殺した人間だ! そんな奴と付き合っても、絶対に幸せになんかなれない!」
大声で、美咲に訴えた。声を出しているつもりだった。
当然、美咲も五味も洋平の存在になど気付かない。声も届かない。
今さらながら、洋平は、自分の状況を恨めしく思った。何も伝えられない。美咲を守れない。
美咲には、幸せになってほしいのに。自分を選ばなくてもいい。自分のことなど忘れてもいい。嫌いになってもいい。ただ、美咲が幸せであればいい。
それなのに、洋平の気持ちは、美咲には届かない。
洋平の言葉は、声になることすらなく、虚空に消えていった。