疑念の主へ、本心を隠して潜り込む決意
5時限目と6時限目の授業を終えて、美咲は帰路についた。
帰り道で足を進めながら考えていたことは、ただ1つだった。五味に、どうやって洋平の居場所を吐かせるか。
考えているのだが、妙案が浮かばない。五味が簡単に口を割るとは思えない。
咲子は、洋平の居場所を調べさせるために興信所に依頼をしていた。その報告を待つべきか。一瞬だけ浮かんだその考えを、美咲はすぐに否定した。報告なんて待っていられない。もし本当に洋平が五味に拉致され、監禁されているなら、1秒でも早く助け出したい。
悩みながら歩いていると、あっという間に家に着いた。
美咲は鞄の中から家の鍵を取り出した。鍵を開けて家に入る。
「ただいま」
そう言ったものの、家には誰もいないと思っていた。咲子は仕事で、どんなに早くても午後7時までは帰って来ないはずだ。
そう思っていたから、リビングのドアを開けて咲子が帰宅していることを確認したときは、少なからず驚いた。彼女がリビングのソファーに腰を下ろし、膝に肘を乗せて、手で顔を覆っていた。
「お母さん、仕事は?」
美咲に声をかけられて、咲子はハッとしたように顔を上げた。ひどい顔色だった。真っ青を通り越して、真っ白にすら見える。血が通っていないような顔色だった。
「どうしたの、お母さん! ひどい顔して」
駆け足で、美咲は咲子に近付いた。近くで見ると、ますますひどい顔色だと思った。目を閉じて横になっていたら、死んでいるように見えたかも知れない。
咲子は苦笑を浮かべた。心なしか、何かを誤魔化すような笑みに見えた。
「ちょっと調子が悪くてね。帰って来ちゃったの」
「風邪?」
「ううん。少し疲れているだけ」
大丈夫だからというように、咲子は手を差し出して美咲を制した。
「悪いけど、今日は自分で夕飯用意してもらっていい? 私は、自分の部屋で横になるから」
「それはもちろんだけど……お母さんは何か食べられる? お粥でも作ろうか?」
「ごめんね。食欲がないから、いらないの。ゆっくり休めば治ると思うから」
咲子は立ち上がり、1階の自分の寝室に足を運ぼうとした。
美咲はすぐに、咲子の体を支えるように彼女の腰に手を回して、寝室まで同行した。ベッドに彼女を寝かせ、額に手を当ててみる。熱はない。むしろ、冷たいとすら感じた。本当に風邪ではないようだ。彼女の言う通り、疲れが溜まっているのだろう。
よく考えてみれば、咲子は、洋平がいなくなってからの1週間、仕事と洋平の調査で慌ただしくしていた。疲労が溜まるのも無理はない。
「お母さん、無理しないでよ」
「うん。ごめんね」
「お母さんまでいなくなったら、私、どうしたらいいか……」
美咲の表情は変わらない。変わらない表情のまま、つい、弱音が漏れた。洋平に続いて母親の咲子にまで何かあったら、自分は完全に心の支えを失ってしまう。そう、無意識のうちに自覚していた。
咲子は、横になったまま、美咲から目を逸らすように横を向いた。
「何言ってるの。大丈夫だから。私も、洋平君だって、きっと大丈夫だから」
「……うん」
「ごめんね、美咲。少し寝かせて」
「わかった。何かあったら呼んでね」
「うん」
美咲は寝室を出て、ドアを閉めた。
リビングに戻り、先ほどまで咲子が座っていたソファーに腰を下ろすと、美咲は膝を抱えた。
これ以上、咲子に負担はかけられない。洋平を探すのは調査の依頼を受けた興信所の仕事だが、だからといって、咲子の負担がまったくないわけではないだろう。だからこそ、疲れ切り、あのような状態になった。
洋平の母親の洋子もそうだ。昨日、様子を見に行ってみたが、今にも倒れそうだった。おそらく、洋平が心配で毎晩眠れないのだろう。それでも、どんなに不安で眠れない日々が続いても、生きている以上は働かなければならない。寝不足のまま激務をこなしているせいで、確実に削られているのだ。
彼女自身の命が。
帰宅途中にも思っていたが、悠長に興信所の報告を待っている余裕はない。どうにかして、1秒でも早く、洋平の行方を掴まなければならない。1秒でも早く、助け出さないといけない。
そのために、どうやって五味に洋平のことを吐かせればいい?──美咲はすでに、洋平失踪の原因は五味にあると断定していた。そう結論付けたうえで、どうやって彼に洋平の居場所を吐かせるかを考えていた。
五味が簡単に口を割るはずがない。彼に口を割らせるには……。
いつもならほとんど変化のない美咲の表情が、かすかに動いた。目付きが鋭くなる。その目は、どこも見ていなかった。この場にいない五味と、その先にいるであろう洋平を見ていた。
五味に口を割らせるためには、彼の信用を得る必要がある。
では、どうやって信用を得るか。その答えは簡単だった。彼と付き合えばいい。彼と付き合い、彼に惚れていると思わせればいい。
しかし、どうやって五味にそれを信じさせる? 今まで五味の告白を断り続けてきたのに。彼だって、美咲が急に心変わりをしたら、不審に思うだろう。
鋭くなった美咲の目は、虚空を見つめている。
そのまま、1時間以上も過ごしていた。
陽が落ちて暗くなったリビングの中で、美咲は、明かりも点けずに、この場にはいない五味と、その先にいるであろう洋平を見つめている。
窓から街灯の光が差し込むようになった頃に、美咲の頭に、1つの案が浮かんだ。暗いリビングで浮かんだ、暗い妙案。
膝を抱えたまま、美咲は顔を伏せた。
洋平、お母さん、おばさん、ごめんね。心の中で、自分が大切に思う人達に謝った。それは、五味の信用を得て洋平の行方を聞き出すためとはいえ、罪悪感を覚えずにはいられない案だった。
洋平達に心の中で謝罪するのと同時に、美咲は確信を持っていた。このようにして五味と付き合うことにすれば、間違いなく、五味の信用を得られるはずだ。間違いなく、洋平の行方を吐くはずだ。
五味と付き合う──それは、考えただけでも虫酸が走る行動だ。それでも、自分なら自然にできると美咲は確信していた。感情が表に出ない自分なら、嫌悪感を察知されずに彼と付き合うことができる。
美咲は初めて、感情が表に出せないことに感謝した。洋平のように自分の気持ちが顔に出やすいと、こんな芝居はできない。
ただ、五味と付き合うといっても、決して体は許さない。あんな男には、絶対に抱かれたりしない。
美咲は処女だった。洋平と2人っきりになったことがないわけでもないのに。
ベッドのある部屋で2人っきりになっても、洋平は、決して美咲を抱こうとはしなかった。
「避妊だって、100パーセント確実なわけじゃないから」
洋平は、ただ実直に美咲のことを思いやってくれた。
「もし、今、美咲に子供ができたら、どうやったって大変な生活になる。美咲に苦労をさせることになる。そんなのは、絶対に嫌なんだ。だから、俺が1人前になって、ちゃんと自立して、責任が取れるようになるまで、軽弾みなことはしたくないんだ」
洋平は、自分の欲求を、美咲を大切に思う気持ちで抑え込んでいたのだ。
洋平が守ってくれたものを、五味なんかに壊させるわけにはいかない。
美咲はソファーから立ち上がり、リビングの明かりを点けた。急に差し込んできた光に、目を細めた。
洗面所の鏡の前に足を運ぶ。無表情な自分が鏡に映っている。
美咲は、感情が表に出ない。嬉しいときも悲しいときも、辛いときも苦しいときも、ほとんど表情が動かない。とはいえ、当然、表情をまったく動かせないわけではない。表情筋は正常なのだから。
鏡の前で、美咲は、意図的に笑顔を作ってみた。次に、目を伏せて不安そうな表情を浮かべてみた。何通りもの顔を、鏡の前で練習してみた。普段あまり表情を動かさないせいか、そのどれもがぎこちなく、どこか不自然だった。
五味の前で、上手く芝居をするんだ。滅多に感情を見せない自分が五味の前でだけ表情を動かし、その気持ちを口にすれば、彼の信用を得られるだろう。そのための練習だ。
それから1週間。
美咲は、暇を見つけては、鏡の前で表情を作った。