対策を練っているところに、疑念の主が現れる
洋平の行方が分からなくなって、1週間が経った。未だに何の手掛かりもなく、警察からの連絡はもちろんない。
咲子は、依頼した興信所から定期的に連絡を受けているそうだが、進展があったという話はしていなかった。
洋平がいなくなってから時間が経てば経つほど、美咲は、彼のことを考えることが多くなっていった。
平日の午前。
今は授業中だが、教師の話など、まったく耳に入ってこなかった。昼休み前の、四時限目の授業。朝の1時限目から、頭の中は、洋平のことでいっぱいだった。授業中だけではない。朝目が覚めてから夜寝るまで、彼のことばかり考えていた。
いつも側にいた洋平。一緒にいるときは、彼のことを思い浮かべる必要などなかった。隣を見れば、彼がいたのだから。
感情がすぐ顔に出て、表情豊かな洋平。嬉しいときは、顔いっぱいに笑みを浮かべていた。特に顔立ちが整っているというわけではなかったが、その満面の笑みは、美咲にとって太陽のように眩しかった。
美咲が彼の誕生日にプレゼントをあげたときなどは、頬を若干赤くしながら、美咲が大好きな顔いっぱいの笑みを浮かべていた。箱に入ったプレゼントの中身を見る前から、とてもとても嬉しそうだった。彼にとっては、プレゼントの中身など何でもよかったのだろう。美咲が誕生日にプレゼントをくれたということが、彼にとっては何より嬉しかったのだ。
そんな洋平に比べて、自分はどうだったか。彼と接していたときの自分を思い出して、美咲は少し胸が痛くなった。
美咲は、感情を表に出すのが苦手だ。常にほとんど無表情だ。綺麗な顔立ちをしているだけに、周囲には冷たい印象を与えているのかも知れない。
そんな美咲にも、当たり前だが感情がある。洋平が美咲の誕生日にプレゼントをくれたときは、胸の奥に温かさが染み渡るほど嬉しかった。
洋平の家は、決して裕福ではない。だから彼は、同世代の高校生とは違い、親に小遣いなど貰っていない。中学生の頃から新聞配達のアルバイトをして、自分のものは全て自分で買っていた。通っているボクシングジムの月謝も、当然のように自分のアルバイト代から払っていた。
それでいながら勉強もボクシングも手を抜かず、その両方で優秀な成績を修めていた。
美咲にあげたプレゼントも、当然、彼自身で稼いだお金で買ったものだ。勉強とボクシングで人並み以上の努力をしながら、薄暗い早朝から新聞配達をして稼いだお金。ジムの月謝や学校で必要な物も全てアルバイト代で払っていたから、懐に余裕などなかっただろう。そんな状況でコツコツとお金を貯めて、美咲にプレゼントを買ってくれたのだ。
大事なのは、何をくれたかではなかった。大事なのは、洋平が一生懸命働いて、それほど余裕がない状況でコツコツとお金を貯めてプレゼントを買ってくれたという事実だった。彼と同じように、美咲も、プレゼントの中身を見る前から、これ以上ないというくらい嬉しかったのだ。
洋平と美咲が違っていたのは、そのときの表情だった。彼とは違い、美咲は、笑顔を見せることができなかった。自分の感情を抑えきれないほど嬉しいのに、美咲は、その気持ちを表に出すことができなかった。
洋平のように、顔いっぱいの、太陽のような笑みを見せることができない。感情を、上手に表に出せない。きっと、彼は、美咲の心からの笑顔を見たかっただろうに。美咲自身が、洋平の笑顔を見ていたかったように。
洋平に会いたかった。会って、心からの礼を言いたかった。笑顔を見せたかった。どれだけ自分が彼のことを好きか、伝えたかった。
けれど、未だに、洋平の行方は分からない。
洋平は、今、どこで何をしているのだろうか。無事なのだろうか。考えるたびに不安になる。だから、自分に言い聞かせた。大丈夫なはずだ。洋平は強いんだ。だからきっと、大丈夫。
洋平が行方不明になった原因を考えた。五味の仕業ではないかという考えが、洋平がいなくなった1週間前よりも強くなっていた。彼の行方が分からないという不安が、美咲を視野狭窄に陥れていた。原因を自分の中で特定しないと──彼の行方を知る糸口を掴めないと、不安で頭がおかしくなりそうだった。
五味が原因なら、洋平はきっと無事だ。あんなに強い洋平が、五味なんかにやられるはずがない。もしかしたらどこかに拉致されているかも知れないし、監禁されているかも知れないが、五味なんかに簡単にやられるはずがない。
洋平が行方不明になった原因を五味だと特定することで、美咲は、自身の精神の安定を保っていた。意図してではなく、無意識のうちに。
四時限目の授業終了のチャイムが鳴った。教師が教科書を持って教壇を降り、教室から出て行った。
昼休み。
クラスメイトは各々自分の弁当を出したり、購買に昼食を買いに行った。
美咲は、自分の弁当を机の上に置いた。いつもは──1週間前までは、洋平と一緒に食べていた。けれど、今は1人で食べている。
洋平が行方不明だということは、もう、学校中の人間が知っている。朝礼や全校集会で、情報収集の目的で公表されたのだ。
今の美咲の立場は、恋人が行方不明になっている女子生徒、だ。そんな美咲を、周囲は腫れ物のように扱っていた。だから、今の美咲に話しかける人はいなかった。皆、何を言っていいのか分からないのだろう。
そんな周囲の態度を、美咲は不快には思っていなかった。とはいえ、当然、嬉しいわけでもない。端的に言ってしまえば、どうでもよかった。今はただ、洋平のことだけを考えていたかった。洋平のことしか、頭に浮かばなかった。無事でいてほしい。帰って来てほしい。そうしたら美咲は、何も言わずに彼に抱きつきたかった。2度と離れないように、強く抱き締めたかった。
咲子が作ってくれた弁当を、箸で口の中に運ぶ。味はしなかった。味を感じられなかった。美咲の目から、涙が零れそうになった。幼い頃からずっと一緒で、離れることなど考えられなかった洋平。こんなに長い間彼の顔を見ないのも、声を聞かないのも、初めてだった。一緒にいるのが当たり前で、いつまでも側にいると信じて疑わなかった。
それなのに……。
「美咲」
名前を呼ばれて、美咲は顔を上げた。この学校で美咲を下の名前で呼ぶのは、2人しかいなかった。
1人は、当然洋平だ。彼が美咲を下の名前で呼ぶのは当たり前だと思っていたし、不快でもなかった。むしろ、彼に名字で呼ばれることなど、想像もできなかった。想像したくもなかった。
残る1人は──
「何?」
目の前の、自分を下の名前で呼んだ人物に、美咲は冷たく聞いた。自分でもはっきりと分かるほど冷たい口調だった。表情は、相変わらず動いていないが。
「冷たいな。そんなに邪険にするなよ」
美咲の目の前で、違うクラスで同じ学年の五味秀一が、軽薄そうな笑みを浮かべていた。1年の頃から、美咲を口説き続けている男。素行が悪く、親の金を使って好き勝手に生きている男。洋平とは真逆の男だ。それはつまり、美咲がもっとも嫌っているということを意味している。
「村田はまだ見つからないんだろ?」
五味は、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべていた。その様子は、洋平の行方が未だに分からないことを確信しているようにも見えた。
「あんたには関係ない」
「そう言うなよ。一応、同級生だからな。心配してやってるんだよ」
五味が洋平の心配などしていないことは、馬鹿でも分かるだろう。美咲を口説き落としたい彼にとって、美咲の恋人である洋平は、邪魔以外の何者でもない。だからこそ、美咲は五味を疑っていた。洋平失踪の原因は、五味にあるのではないか、と。
その疑いの気持ちは、日に日に強くなる。五味以外に、洋平が失踪する原因が思い当たらなかった。
「ひどい奴だよな。お前に何も言わずに消えるなんてよ。薄情だと思わないか。あいつにとって、お前は、どうでもいい女なんじゃないのか?」
「……?」
五味の言葉に、美咲の心の中で何かが引っ掛かった。それが何かは分からない。何かが分かりそうで分からない。思い浮かびそうで、思い浮かばない。
分からないが──ただ、なぜか、五味に対する疑念が強くなった。洋平の失踪に五味が絡んでいるはずだ、という疑念。
「なあ、美咲」
五味が、美咲に顔を近付けてきた。顔に張り付いた嫌な笑みはそのまま。この男に名前で呼ばれ、接近されると、虫酸が走る。
「もう、あんな奴のことなんか、忘れろよ」
また、美咲の心に何かが引っ掛かった。いや、引っ掛かっているなどという簡単に外れそうなものではない。その疑念は美咲の心にしっかりと腰を据え、確信とも言える存在となっていた。
理由は、はっきりとは分からないが。
「お前に何も言わずに勝手に消えた奴のことなんて忘れて、俺にしておけよ」
理由は分からない。だが、確信を持った。間違いなく、洋平失踪の原因は五味だ。この男が、洋平が消えたことに関わり、真相を知っているんだ。
根拠はなかった。断定するのは短絡的とさえ言える。それでも美咲は確信した。五味は、洋平がいなくなった原因を知っている。洋平の行方を知っている。
美咲は、箸を弁当箱に添えて置き、右拳を握った。拳を振れば届く位置に、五味の顔がある。不快な気持ちしか抱けない男の顔。今すぐ殴りたかった。自分が洋平くらい強かったら、今すぐ殴り倒して、洋平の居場所を吐かせただろう。
もちろん、そんな気持ちを行動に移したりしない。たとえ殴って問い詰めても、五味は白状しないだろう。
洋平の居場所を吐かせたい。彼の居場所を突き止めて、連れ戻したい。彼に会いたい。抱き締めたい。
洋平への強い思いが、美咲を短絡的な思考に陥れ、同時に冷静にさせた。相反するように見える心理の同居。洋平失踪の原因は五味だ。だから、五味に、上手く白状させる必要がある。
そうするには、どうしたらいいか。
美咲は深く考え込んだが、すぐに案など浮かばなかった。
「……少し考えさせて」
美咲の言葉に、五味は先ほどまでの笑みを消し、目を丸くした。
「本当か」
今までどうやってもなびかなかった美咲の言った言葉に、単純に驚いているのだろう。丸くした目の下で、五味の口が、かすかな笑みを型取っていた。それは、先ほどまでの嫌な笑みとは違う、嬉しそうな笑み。
「本当だから。だから、今は少し1人にしておいて」
「まあ、そういうことならな。また明日にでも来るよ」
「急かし過ぎ。せめて来週まで待って」
「はいはい。まあいいよ。じゃあ、また来るからな」
嬉しそうに言って、五味は教室から出て行った。
教室内が、少しザワついているように感じた。五味が美咲に何度も言い寄っていたことも、それを美咲が断り続けていたことも、周囲は知っている。
周囲は何を思っているのだろうか。美咲が五味を追い払うために、その場凌ぎの言葉を吐いたと思っているのだろうか。それとも、洋平がいなくなったことで美咲が自暴自棄にでもなったと思っているのだろうか。もしくは、洋平がいなくなった寂しさから、五味に縋ろうとしているように見えているのか。
美咲にとって、周囲の目などどうでもよかった。今の美咲の胸中は、ただ1つの考えに埋め尽くされていた。それ以外は考えられなかった。
どうやって五味に、洋平の居場所を吐かせるか。
ただそれだけを考えていた。