大丈夫と自分に言い聞かせながら、対策を練る
授業が終わってから、美咲は自分のスマートフォンを見た。
今日は、休み時間になる度にスマートフォンを見ていた。洋平から連絡が来ていないか。咲子から、洋平に関する情報が入っていないか。
授業を終えた15時過ぎに美咲のLOOTアプリに入っていたのは、咲子からのメッセージだった。
『話したいことがあるから、今日はできるだけ早く帰ってきて』
このメッセージを見たとき、洋平について何か分かったのではないか、と一瞬だけ考えた。すぐに、今朝の話だと気付いた。警察に捜索願を出す以外に対策をする、と咲子は言っていた。その話だろう。
咲子からのLOOTのメッセージを見て、美咲はすぐに帰り支度をし、教室から出た。校舎の玄関先まで駆け足で向かう。手早く靴を履き替え、走って家に向かう。
学校から家までは、約1.5キロメートルほど。歩いて15~20分ほどの距離だ。その距離を、まるでマラソンのように走った。通学用の革靴は走るには不向きで、足の裏が痛くなった。もっとも、そんな痛みなどどうでもよかった。痛いということが、まるで気にならなかった。それよりも、洋平のことが気掛かりでたまらなかった。
制服に革靴という格好のせいか、この程度の距離を走って家に着くまで、ずいぶん時間がかかった気がした。10分ほどだろうか。
自宅のドアの前で鞄から鍵を取り出した。手早く鍵を開け、ドアを開き、靴を放り出すように脱いで家の中に入った。後ろから、コトンコトンという、靴が床に落下した音が聞こえた。
リビングのドアを勢いよく開ける。
「お母さん、ただいま!」
リビングのドアを開けて右側奥にはダイニング。左側には、ソファーとテレビ、窓がある。L字型のソファーの前には、小さなテーブル。
ソファーには、洋平の母親──洋子が座っていた。
「美咲ちゃん、おかえりなさい」
洋子の表情は、今朝よりもさらに憔悴していた。目の下の隈がより濃くなっている。朝、彼女の顔を見てから、まだ半日も経っていないのに。たったの8時間くらい。その8時間で、さらに何年も経ったかのように彼女は老け込んでいた。疲労と心労が尋常ではないのだろう。
美咲は再び、今朝の咲子の言葉を思い出した。警察に捜索願を出すと言った後の、彼女の言葉。
『単なる家出だと判断されたら、警察はすぐには動いてくれないの。事件に巻き込まれた可能性が高いって判断してくれないと。あんたが受け取ったメールの内容にもよるけど、微妙だと思う』
今の洋子の様子から、警察の対応は芳しいものではないことが伺えた。
リビングの隣にある和室から、咲子の声が聞こえている。どこかに電話をしているようだ。
美咲は洋子の前に行き、その場で膝をついて座り込んだ。
「おばさん、大丈夫?」
「うん、大丈夫。ごめんね、うちの洋平のせいで、心配かけて」
洋子が大丈夫でないことなど、その姿を見れば一目瞭然だ。また、それでも彼女が大丈夫と返答するのも、概ね予想がついていた。今のやり取りは、会話を切り出すためのただの繋ぎだ。
「警察に行ったんでしょ? どうだった?」
洋子は、疲弊し切った顔に苦笑を浮かべた。
「なんだかね、ぞんざいな態度だったよ。面倒そうと言うか……完全に、ただの家出だと思われてるみたいだった」
「お母さんは、洋平から私に来たメールを見せたんだよね?」
洋子は頷いた。弱々しい動作だった。
「思わせぶりなメールですね、って吐き捨てるように言われたの。変なメールとか、不可解なメールとかじゃなく、思わせぶりな、って。まるで、洋平が大事を演出しているみたいな扱いで……」
ゾクリッ──と、体が冷える感覚を美咲は覚えた。同時に、頬が熱くなった。
相変わらず、美咲の表情が変わることはない。それは自分でも分かっている。それでも、美咲の胸中では、強い感情が渦巻いていた。ぞんざいな対応をした警察官への憤り。
和室から聞こえてくる咲子の声が止んだ。通話が終わっただのだろう。和室の襖を開け、リビングに出てきた。
「美咲、お帰り」
咲子の表情は、冷静に見えた。あくまで、冷静に見えるだけだ。娘である美咲には、それがよく分かる。
「ただいま。どうだったの?」
警察の対応については洋子から聞いた。その対応結果を経て、これからどうするのかを聞きたかった。
美咲の気持ちに反して、咲子の話は、警察の対応への不満から始まった。
咲子と洋子は、美咲から連絡を受けてすぐに警察署に足を運んだという。洋平の捜索願を出すために。洋平の顔写真数枚と、他の必要書類を持参して。
警察署に着いて窓口で用件を伝え、1人の警察官が対応した。
警察に捜索願を出せるのは、現状の洋平の家庭環境の場合は、親権者である洋子のみである。咲子が同行したのは、ただサポートをするためだけに過ぎない。
捜索願いを出すために必要な情報──当人の写真、氏名、本籍、住所、職業、生年月日、身長体重、身体的特徴、血液型、失踪時の服装、当人の所持品、失踪した日時と場所、当人とよく行く場所、当人の薬物の使用歴の有無、精神病の既往歴、失踪の原因として考えられるもの、その他発見のための参考になる事項──は、すべて洋子が用意した。また、「その他発見のための参考になる事項」として、昨夜のメールを提示した。
その結果としての警察の対応は、先ほど洋子が言った通りだった。つまり、ただの家出人と判断され、ぞんざいな対応をされた。
「まず、あの警察官は完全にハズレ。まるで当てにならない。完全にただの家出人として対応しようとしてる。プレッシャーをかけるために、わざわざ仕事用の格好までして行ったのに、私の弁護士記章も見なかった。完全に無能だわ、あれは」
やはり、咲子は冷静ではなかった。落ち着いているのは表情だけで、手負いの獣のように気が立っている。
弁護士を通じて警察に依頼をすると、ただの一般人が依頼をするよりも迅速かつ真摯に対応してくれることがある──と、以前、咲子が話していたことがある。初期の対応に関する法的責任を、弁護士から問われる可能性があるからだろう。
一般的に、通常の家出の場合は、資金面の不安などから、事前に準備をすることが圧倒的に多い。しかし、洋平は、何の事前準備もなく、唐突に行方をくらませているのだ。そのため、昨夜のメールも合わせると、何らかの事件に巻き込まれたと考えることが十分に可能だ。
そのような状況に加え、弁護士である──その証明とも言える弁護士記章を付けた咲子が同行したのに、警察の対応はぞんざいだった。それは、対応した警察官が、深い思慮ができない上に咲子の弁護士記章に気付けないほどの間抜けか、後の責任問題を考えられないほど馬鹿かのどちらかだろう。あるいは、その両方か。
咲子の言葉通り、完全に「ハズレ」の警察官を割り当てられたのだ。
「それで、どうするの?」
美咲の質問の意図を察していたのか、咲子は即答した。やや気が立っている口調で。
「探偵に洋平君の捜索依頼をした」
警察に、即座に捜索をしてくれる様子はない。このまま警察だけを頼りにしていたら、洋平の身に何かが起こっていたとしても、それを発見することはないだろう。
動いてくれない警察は頼れない。だからこそプロの手を借りようという咲子の判断だ。その判断は、間違いなく正しい。
「うちの事務所と懇意にしてる興信所があるの。そこに、あくまで私のプライベートな依頼として頼んでおいた。興信所にとってみればうちの事務所は依頼人を紹介し合う仕事仲間なわけだし、正式な依頼だし、間違いなく、しっかりやってくれると思う」
咲子の言葉を聞いて洋子は座ったまま、両手で顔を覆った。
「ごめんね、ありがとうね、咲ちゃん。費用は、どんなことがあっても返すから」
涙声だった。今朝から──いや、洋平が帰らない昨夜から張り詰めていた洋子の心の糸が、プツリと切れたようだった。肩は、小刻みに震えている。
「何言ってるの」
咲子は、洋子の肩に手を置いた。
「洋平君は、私にとっても息子みたいなものだし、美咲だって、洋ちゃんにとってみれば娘みたいなものでしょ? 家族が助け合うなんて、当たり前じゃない」
洋子を安心させるように、強い振りをしながら優しい口調で言う咲子。本来、それほど強い女性ではないのに。ただ、強くあろうとしているだけなのだ。夫と別れた後は、美咲を守りながら生き抜くために。今は、自分の親しい人を助けるために。
洋子の肩に置かれた咲子の手も、かすかに震えている。
そのことに、美咲ははっきりと気付いていた。




