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闇が晴れて、ようやく思い出す


 逮捕された美咲は、まず、刑事から取り調べを受けた。


 すでに全てを諦めた美咲は、嘘偽りなく事実を述べた。五味達3人の殺害の動機から、その手順、そこに至るまでの経緯や手法まで。


 ドラマで見るような恫喝をしてくる刑事は、ひとりもいなかった。むしろ、全員が親切で同情的だと感じた。五味達に洋平が殺されたことを、知っているからだろう。


 ただ、正義とさくらは、美咲の話を聞きながら、時折泣きそうな顔になることがあった。五味や六田を殺すために彼等と寝たことを話したときは、正義は目もとを強く押さえ、さくらは声を詰まらせていた。


 美咲が犯人だと断定した理由も知れた。七瀬を殺した際、死亡を確認するときに、彼の背中から心音を聞いた。そのときに、彼の背中に美咲の耳の跡がついた。その跡で美咲が犯人と断定できたという。耳の指紋のようなものらしい。


 その話を聞いたとき、美咲は、数学準備室での聞き込みの際に、正義に触れられたことを思い出した。あれは綿埃が付いていたのではなく、美咲の耳の跡を採取するのが目的だったのだ。


 この耳の跡による個人特定の精度は、99.6パーセントにもなる。


 逮捕後の美咲の心は、常に穏やかだった。もちろん、洋平を失った苦しみや悲しみが消えたわけではない。ただ、自分にできることは全てやった。洋平の仇である五味を、絶望の底に叩き落として殺せた。


 悔いはなかった。洋平がいない世界で、彼の仇も討った今、もう生きる目的もない。生きる意味も感じられない。だから、死んでもいい。自分にはもう何もないと思えるが故の、穏やかさだった。


 逮捕された2日後には、検察から取り調べを受けた。


 ここでも美咲は、一切の嘘偽りなく、事実を話した。逮捕まで話したこともない検察官の取り調べは、刑事のそれよりも機械的だと感じた。あくまで、美咲の主観だが。


 それから、美咲の勾留生活が始まった。


 留置所は、想像以上に快適と言えた。ある程度の取り調べがあり、午前7時起床で午後9時就寝。食事の時間以外は、比較的自由だった。むしろ、外で生活するよりも健康的かも知れないとさえ思えた。


 美咲に面会が来たのは、勾留生活が始まって三日目のことだった。


 面会は両手を拘束して行われ、必ず係員が立ち合う。逃亡や証拠隠滅を防ぐためだ。


 面会時間は30分。


 よくドラマで見るような、穴の空いた透明なアクリル板を通して行われた。


 面会に来たのは、咲子と洋子だった。


 咲子は、拘束されている美咲を見た途端に、泣いてしまった。涙を流しながら鼻をすすって、面会用の椅子に腰を下ろしていた。


 咲子は、精神的に強い人ではない。暴力を振るう夫から必死に逃げて安全を得てからも、何かに怯えているようだった。だから、強くあろうとした。立派で強い母親になろうとしていた。


 そんな彼女が、人目も憚らず泣いていた。


 一緒に来た洋子は、骨壺を抱えていた。大切そうに、愛おしむように。それが誰の遺骨なのか、聞くまでもなかった。八戸の証言から、遺体が発見されたのだろう。


 美咲は、自分が悪いことをしたとは思っていない。反省や更正を促されたとしても、何を反省すればいいのか、どう更正すればいいのか分からない。殺した男達は、死んで当然の奴等だと思えた。洋平を殺した報いは受けるべきだ。たとえ、殺した美咲の心情がどうであろうと。


 しかし、咲子の身に降りかかる苦難を考えると、少なくとも彼女には、悪いことをしたと感じた。では、他にどうすればよかったのかと聞かれれば、答えることはできないが。


「ごめんね、お母さん」


 面会の席につき、最初に咲子に謝罪した。


 彼女は嗚咽を漏らしながら涙を流し、首を横に振った。泣きながら、必死に言葉を紡いでいた。


「……体調は悪くないの? ご飯は、ちゃんと食べれてる?」

「うん」


 出された食事は口にしている。睡眠も取れている。死んでもいいと思っているのに、体は健康になってゆく。皮肉なものだ。


「おばさん。それ、洋平?」


 分かり切ったことだが、洋子に聞いた。彼女は泣いてこそいなかったが、その顔には疲労の色が濃く出ている。それでも、洋平の行方が分からなかった頃よりは、血色がいいように見えた。


 美咲の問いに頷きながら、洋子は、大切そうに、洋平の骨壺を撫でた。


「もともとそんなに大柄な子じゃなかったけど、小さくなっちゃったでしょう? この子ね、美咲ちゃんのことが大好きだったから。だから、連れて来たの」

「……」


 何かが、美咲の胸に刺さった。チクリと痛んだ。それが何かは、分からなかった。


「ごめんね、お母さん、おばさん。私、かなり迷惑かけてるよね?」


 再度、美咲は謝罪した。きっと、外では、この事件は大きなニュースになっているだろう。赤の他人の好奇心を満たすために、マスコミが押し寄せているだろう。


 咲子は腕で涙をゴシゴシと拭き取ると、真っ赤な目を美咲に向けた。


「謝らないといけないのは、私の方なの。今日は、謝りに来たの。私も、洋ちゃんも」

「?」


 美咲は首を傾げた。


 咲子は、自分を落ち着かせるように大きく息を吐いた。実の娘に対するものとは思えないほど畏まった姿勢で、深々と頭を下げた。


「ごめんね。私、早い段階で分かってた。洋平君が殺されている可能性が高いって」

「!?」


 美咲は目を見開いた。


 咲子の話は続く。


「興信所に洋平君の調査を依頼してからそんなに経たないうちに、報告があったの。五味達が、洋平君を殺したようなことを話していた、って」


 ふいに、美咲は思い出した。洋平がいなくなってから、それほど日が経っていない時のこと。まだ五味と付き合い始める前のこと。


 咲子が、ひどく憔悴している日があった。


「あの時点で、興信所から受け取った報告を持って、警察に行くべきだった。行こうと思った。でも、行かなかった。言えなかった。あんたや洋ちゃんのことを考えると、洋平君があんなことになっているなんて……」


 頭を下げながら話す咲子の声は、震えていた。拭いたはずの涙が、こぼれ落ちていた。彼女は、この3ヶ月の間、ずっと苦しんでいたのだろう。洋平の死を知りながら、誰にも言えなくて。それを警察に言えば、必ず美咲や洋子の耳にも入る。悲しませる。悩み、苦しみながらも、誰にも言えなかった。


 だから、不自然にならない程度で可能な限り、家を空けていたのだ。美咲の顔を見るのが辛かったから。


「謝らないで、お母さん」


 母親との間にあるアクリル板に触れようとして、美咲は、自分の両腕が拘束されていることを思い出した。


 抱き合いながら思い切り泣きたかった。咲子に甘えて、同時に、甘えさせたかった。今は、それができない。


 頭を下げながら嗚咽を漏らす咲子の背中を、洋子が優しく撫でていた。洋子に、咲子を責めるつもりなど微塵もないのだろう。友人の子が殺されたことを、簡単に告げられるはずがない。女手一つで子を育てているという同じ境遇から、洋子は、咲子の気持ちが痛いほど分かっているはずだ。


 咲子の背中を撫でる、洋子の手。その手を離し、彼女は、美咲の方を向いた。膝に置いた洋平の遺骨を少しだけ強く抱き締め、咲子と同じように、美咲に頭を下げた。


「私もね、今日は、美咲ちゃんに謝りに来たの。どうやっても償いようがないけど」

「おばさんが? どうして?」

「だって、本当は──」


 洋平を抱き締める洋子の腕に、力が込められる。それでも、優しい抱き締め方。


「──本当は、私がやらなきゃいけないことだから。私は、洋平の母親だから。だから本当は、美咲ちゃんがしたことを、私がやらなきゃ駄目だったから。あいつ等は、私が殺すべきだったから」


 美咲は目を見開いた。思わず、口から、必要以上に大きな声が出た。


「駄目だよ!」


 洋子の方に、顔を突き出す。アクリルの壁にぶつかりそうになるくらいに。


「おばさんがそんなことをしたら、駄目だよ! そんなことしたら、洋平が──」


 言いかけて、言葉が詰まった。この先に吐き出す言葉は、自分自身に返ってくる。言いかけた瞬間に、そう悟った。


『そんなことをしたら、洋平が悲しむよ!』


 洋平は、優しかった。自分よりも、自分にとって大切な人を優先する人だった。自分が傷付いても、大切な人を守ろうとする人だった。


 洋平がボクシングを始めた理由は、美咲を守れる男になりたかったから。そのために努力し、結果を残した。


 洋平が成績優秀だったのは、将来、美咲と幸せな家庭を築きたかったから。そのために彼は、努力を惜しまなかった。


 洋平が自分の欲求を必死に抑え、美咲を抱こうとしなかったのは、美咲を傷付けたくなかったから。欲求に任せて美咲を抱き、万が一のことがあった場合、美咲を傷付けてしまうと分かっていたから。


 そして、洋平の最後のとき。


 死に際の洋平。


 彼は、スタンガンで自由が効かなくなった体を強引に動かし、五味が手にした自分のスマートフォンを破壊した。五味が、洋平を装って美咲を呼び出せないように。自分が傷付くことなど、一切躊躇わずに。


 洋平は、傷付きながらも美咲を守った。

 洋平は、命を捨てて美咲の未来を守った。

 洋平は、死を賭してまで、美咲の幸せを願った。


 死ねば完全な無になると言っていた洋平。生きているときにだけ存在している自分の意思を、自我を、希望を、願いを、美咲のために使っていた。


「……あ……」


 声が漏れた。涙が、決壊したように溢れ出てきた。


 美咲は、誰よりも洋平のことを知っているつもりだった。


 洋平は、感情がすぐ顔に出る。美咲のことが誰よりも好きで、誰よりも大切で、美咲の幸せを願っていた。常に顔にそう書いて行動しているように、美咲への気持ちが明らかだった。


 美咲は、そんな洋平のことを、誰よりも深く理解している。彼が何を望み、何を願い、何のために生き、何のために死んだか。世界中の誰よりも分かっている。


 ──分かっていたのに!!


 洋平が死んで、悲しかった。苦しかった。耐えられなかった。だから、怒りに身を任せた。自分の感情を持て余し、振り回され、狂い、誰よりも分かっていたはずの洋平の気持ちに、背を向けた。


 洋平の願いとは真逆の道に自ら足を踏み入れ、堕ちていった。

 洋平を殺した五味と付き合い、彼を殺すために、体を差し出した。

 洋平が守ってくれた幸せを掴むはずの手を、血まみれにし、人を殺した。


 洋平がくれたものを、捨ててしまった。守ってくれたものを、自ら放棄した。自分から望んで、地獄に堕ちていった。


 この世の誰であっても、殺された洋平の代弁者になどなれない。彼の気持ちを語ることなど、誰にもできない。


 ただひとりを除いて。

 美咲を除いて。


 そんな自分が。


 洋平の気持ちを語れるはずの自分が、彼を裏切った!!

 洋平が命懸けで守ったものを、滅茶苦茶に壊した!!

 洋平の死を、ただの無駄死ににしてしまった!!


「あ……あああ……」


 涙が、頬をつたう。流れる涙は、止まらなかった。ボロボロとこぼれ、溢れていった。


 体中の水分を全て出してしまうのではないかというくらい、美咲は涙を流した。逮捕のときは堪え切った涙を、止めることができなかった。


 呼吸が苦しい。嗚咽が漏れる。胸の中が、後悔と嫌悪と懺悔で満ちる。


 ごめんなさい。


 自由にならない呼吸の中で、美咲は必死に唇を動かした。呼吸をすることすら放棄して、洋平に呼びかけた。


 ごめんね、洋平。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。


 美咲の言葉は声にならず、かき消えた。


 涙だけが、美咲の気持ちを語っていた。

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