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怒りではない、突き動かすもの


 美咲は幸運だった。


 彼女が七瀬殺害のために動き出したタイミングと、五味殺害事件の捜査本部にて会議が行われたタイミングから、洋平はそう思わずにはいられなかった。


 美咲は、刑事達の目を誤魔化すため、始業式の次の日──1月18日から、適当な外出を繰り返した。七瀬の前で行う演技の練習を打ち切る、1月27日まで。


 五味殺害事件を追っている正義とさくらは、捜査会議が開かれる1月26日まで、美咲に張り込み、その動向を追っていた。


 もし、捜査会議が行われるのがあと2日遅かったら、美咲を張り込んでいた正義とさくらは、美咲が七瀬を殺害しようとする現場を目撃したことだろう。その時点で美咲は、現行犯逮捕されていたはずだ。


 だが、捜査会議は、美咲が七瀬殺害のために動き出す前に行われた。正義とさくらは、捜査の方針に従い洋平の動向を追うこととなり、独自に行っていた美咲への張り込みは行わなくなった。


 もしかしたら、この世には、本当に神様がいるのかも知れない。神様が、あまりに辛い境遇にいる美咲のために、奇跡を起こしてくれたのかも知れない。そんな錯覚すら抱いてしまうほど、物事が神がかったタイミングで進んでいた。


 洋平は、美咲が七瀬をどこで殺害するつもりなのか、2人の会話を聞いて知っていた。六田の死体を埋めた建設現場。


 建設中の建物は、立体的に組み立てられた鉄骨に囲まれている。鉄骨には幕が張ってあり、外から中は見えない。天井には幕が張られておらず、昼間は、現場に太陽の光が入るようになっている。


 現場の周囲は、高さ2メートルほどの幕で囲まれている。上空から見ると、周囲の幕と現場の建物の位置関係が、ちょうど「回」という文字のような状態になっていた。


 現場にも建設中の建物にも当たり前のように幕が張られていない入り口があるが、あまり広くない。昼間の作業中に、作業現場に他人が入らないようにするためだろうか。どういう意図で入り口が狭いのかは、建設に関して素人の洋平には分からない。


 道路沿いにある、幕が張られていない現場の入り口部分には、作業員が使用するであろう灰皿が放置してあった。鉄製の四角く赤い灰皿で、立ったまま煙草が吸えるように、4本の足が付いている。


 美咲が、七瀬を誘い出した現場に向かうため、家を出た。

 洋平は美咲を先回りし、建設現場にいち早く移動した。


 刑事達は、美咲以外の人物を容疑者候補として捜査を行っている。そのため、彼等が美咲の犯行現場に現れる可能性は、限りなく低い。


 限りなく低いが、まったく可能性がないわけでもない。


 だからこそ洋平は、美咲の行動を追わずにはいられなかった。


 もちろん、仮に刑事が美咲の犯行現場に現れたとしても、洋平に何かができるわけではない。


 それでも洋平は、美咲の周囲を警戒することをやめられなかった。彼女が何人殺害しようとも、人の道から大きく外れても、彼女の幸せを願わずにはいられなかった。たとえ美咲がどんな生き方をしても、洋平は、彼女が好きで、何よりも大切だった。


 美咲が殺害現場として選んだ場所に最初に来たのは、七瀬だった。彼は、不自然なほど周囲を警戒しながら、建設中のビルを囲む、幕の張られた鉄骨の中に入って行った。


 七瀬は、明らかに平常心を保てていない。北国の真冬の夜で気温はマイナス10度近くまで下がっているというのに、額には汗が浮き出ていた。五味の指示で洋平殺害に手を貸しておきながら、罪悪感を覚える気配すらなかった。ただひたすら、自分の身だけが可愛いのだろう。


 七瀬のしばらく後に、美咲が到着した。彼とは対照的に、彼女は落ち着いた表情を見せていた。もっとも、彼女の表情は、どんなときでもほとんど変化がない。よく観察してみると、やはり緊張しているのか、何度か唇を舐めていた。


 洋平も、美咲を追って建設現場に入った。


 建物は、美咲が六田を殺したときよりも施工が進んでいた。砂利が敷き詰められていた土台部分は部屋のような区分けがされており、1メートルほどの高さのコンクリートの壁ができている。その壁がない部分には、細い鉄製の支柱が立てられていた。


 洋平は建設には詳しくないが、あの支柱を基礎にして本格的に壁が作られるのだろうと想像できた。


 六田殺害時に土台の部分に敷き詰められていた砂利は、その上に灰色の砂のような物が重ねられ、すでに見えなくなっている。あれは、固められる前のコンクリートだろうか。


 もともとは深さが1.5メートルほどだった土台。それが、施工が進み様々な物が敷き詰められたせいか、深さが30センチ程度になっていた。


 夜は、当然のように、幕の張っていない天井から太陽の光が入ってこない。光源は、天井から入る星の光と月明かりのみだ。そのため、かなり暗い。


 美咲が建設中の建物に入ったとき、七瀬は、入り口のすぐ近くにいた。


 七瀬の姿を確認すると、美咲は、彼に近付いた。


「早かったね」

「急いで来たんだ。それより、メモは? 俺は、どんなことを覚えればいいんだ?」


 七瀬は、明らかに焦っていた。自分が犯罪者になるかどうかの瀬戸際なのだから、当然と言えば当然かも知れない。


「焦らないで。言ったでしょ? 落ち着いて、って。どんなにちゃんとした計画を立てたとしても、焦ってボロを出したら台無しなんだから」


 それはまるで、美咲が、自分自身に言い聞かせているようなセリフだった。


「とりあえず、あっち行こう」

 美咲は、建物の土台の中央部付近を指差した。

「こんなところで話してたら、外に会話が聞こえるかも知れないし」

「ああ、わかった」


 七瀬は、何の疑いも持たずに美咲の言葉に頷いた。自分が助かるために、ひたすら美咲に縋っている。これから、そんな彼女に殺されるとは、夢にも思っていないのだろう。


 もうこの時点で、美咲の七瀬殺害は、7、8割方成功していると言えた。


 美咲と七瀬は、コンクリートの壁で区分けされた土台の中に降りた。土台の中の灰色の砂は、2人の足跡をしっかりと残していた。


 土台の中央部付近まで来ると、美咲は、自分の足下の砂をつま先で軽く掘った。七瀬の死体を埋めることが可能か、確かめているのだろう。


 美咲は、埋められると判断したようだ。七瀬殺害を実行に移すため、鞄の中を探る。彼に見せる偽のアリバイを示したメモと、殺害に使うスタンガンとロープ、軍手の存在を手探りで確認した。


 七瀬には、美咲が今何をしているのか、ほとんど分かっていないようだ。この暗がりで、さらに黒いコートに身を包んだ美咲の動きは、目測では察知にしくい。


 この現場は密室ではないものの、天井と入り口以外は完全な密閉空間だ。外からは一切見えない。美咲の殺人が目撃される可能性は、限りなく低い。それでも洋平は、1度、外に出た。周囲に誰かいないか、確認するために。


 建物から出ると、緩い風が吹いていた。肌を撫でる程度の風だが、マイナス10度という寒さの中では、こんな風ですら凶器と思えるほど冷たく感じるだろう。


 もちろん、寒さを感じる体があればの話だが。


「冷えるな、今日は」

「そりゃあ、冬ですから」


 建設現場に面した歩道での、1組の男女の会話。


 ただの一般人なら、洋平はさほど気に留めなかったはずだ。美咲と七瀬の会話がここまで届くとは思えないし、ただの一般人が、建設現場の中をわざわざ覗きに来るとも思えない。


 それが、ただの一般人であれば。


 ザワリとした嫌な感覚が、洋平の心に湧き上がってきた。体があったなら、寒気が、胸元から全身に突き抜けていただろう。


 こんな偶然があるのかよ、と胸中で吐き捨てた。


 建設現場の前の歩道を歩いているのは、正義とさくらだった。どうやら彼等は、こんな時間まで仕事をしていたようだ。洋平の行方を探るための聞き込み。


「俺の死体は、こんなところにはない! 違う建設現場だ! そっちに行けよ!」


 彼等に向かって喚いてみたが、その声が届くはずもない。


「疲れた。煙草吸いたい」


 愚痴のように、正義が言った。そういえば彼は、聞き込みを行った学校でも煙草を吸いたがっていた。ヘビースモーカーなのだろうか。


「携帯灰皿とか、持ってないんですか?」

「残念だけど、持ってない。刑事が路上で煙草を吸って、それを他の警官に注意されたら、笑えないし」

「この建設現場とかに、灰皿とか置いてないんですかね? なんか、現場作業員の人って、みんな煙草吸ってるイメージがあるんですけど」

「そりゃ偏見だろ」

「でも、あるみたいですよ。ほら」


 さくらは、建設地を囲む幕の、出入り口の部分を指差した。その先には、赤い鉄製の灰皿がある。


「ありがとう、原。ありがとうついでに、一服させてくれ」

「ええ、どうぞ。どうせ、駄目って言っても聞いてくれないでしょうし」

「そんなことはない。そんなことはないが、ありがとう」


 正義は灰皿のところまで駆け寄り、コートの内ポケットから煙草を取り出した。煙草の箱には、Peaceと表記されている。箱から1本取り出し、火を付ける。


 冷や汗が大量に流れ出そうなほどの焦りが、洋平の心を駆け抜けた。美咲と七瀬の会話は、こんなところまでは聞こえないだろう。ただしそれは、通常の会話ならば、という意味でだ。もし、殺されそうになった七瀬が叫び声でも出せば、さすがにここまで声が届く。


 もし、そうなったら。


 美咲と七瀬は、今、どうなっているのか。それも気になるが、同時に、洋平は、正義とさくらからも目を離せなかった。彼等が、現場内の様子に気付くことはないか。何か異変を感じたりしないか。


 正義は火を付けた煙草に口をつけ、大きく吸い込み、大きく吐いた。空気すら凍りそうな寒さの中で、白い煙が広がった。


「前原さん」

 旨そうに煙吸う吸う正義に、さくらが聞いた。


「以前一緒に仕事をしたときから疑問だったんで、ちょっと聞いてもいいですか?」

「何だ?」

「前原さんって、どっからどう見ても体育会系ですよね?」

「ああ。これでも、中学高校大学と、柔道部だったしな」

「なんか、煙草を吸うイメージじゃないんですけど」


 言われて、正義は、少し苦笑した。


「法律に違反したことは1度もないぞ。煙草を吸い始めたのも20歳だったしな」

「なんで煙草なんて吸い始めたんですか? お金はかかるし、いいことなんてないと思いますけど」

「んー……まあ、憧れかな」


 2人の会話を聞きながら、洋平は次第に苛立ってきた。無駄な会話をしていないで、この場から立ち去って欲しい。


「憧れ?」


 洋平の気持ちに気付くはずもなく、さくらは正義に聞き返した。


「ああ。俺の親父も刑事でな。昔から格好いいと思っていたんだ。だから刑事になりたかったんだ。柔道部に入ったのも、それがきっかけだしな」

「じゃあ、もしかして、煙草もお父さんの真似をして?」

「そう。ちなみに、銘柄も同じ」


 正義が、少し楽しそうに、どこか懐かしそうに、それでいて悲しそうに、話す。合間に煙草を吸い、煙を吐きながら。


「親父が優秀だったかどうかは、俺は知らない。でも、いい刑事だったと思う。俺は親父が仕事をしているところなんて見たことがないし、他の警察関係者から親父のことを聞くこともほとんどないけど」

「優秀かどうかも分からないのに、いい刑事だったとは?」


 懐かしそうに、大切な思い出を語るように、正義の話は続く。


 正義の父親は刑事であり、殺人犯を逮捕したこともあるそうだ。つまり、その犯人達にとってみれば、憎むべき存在だ。


 それなのに、犯人達の中には、刑期を終えて出所した後に、正義の父親に挨拶に来た人物が複数いたという。彼等と正義の父親との交流は、正義の父親が亡くなるまで続いていたそうだ。


「親父があの人達にどんなことをして、どんな付き合い方をしていたのか、俺は知らない。けど、元犯罪者が、自分を逮捕した刑事の葬式まで来るって、よっぽどだろ?」

「なるほど。そういうことですか」

「……? 何がだ?」


 苦笑に近い柔らかな笑みを浮かべたさくらに、正義は聞き返した。彼女は答えない。


 洋平には、さくらが何に納得したのか、分かった気がした。きっと、彼女は、正義が事件関係者に感情移入しやすい理由に気付いたのだろう。


 正義の父親は、捕まえた犯人とすら付き合いのある人物だった。優秀がどうかは別にして、きっと、正義と同じように他人に感情移入しやすく、その分だけ周囲に人が集まる人だったのだろう。


 もしも……もしも、万が一、美咲が殺人犯として逮捕されたとしても……。正義の話を聞いて、洋平は、一瞬だけそんなことを考えた。


 すぐに、その考えを振り払った。


 万が一、美咲が殺人犯として捕まってしまっても、正義は、できる限りのフォローを彼女にしてくれるだろう。しかし、だからといって、殺人犯という烙印が消えるわけではない。


 たとえどれだけフォローしてくれる人がいるとしても、殺人犯になどなるべきではない。美咲には、絶対に捕まって欲しくない。


 ──バチバチッ


 正義とさくらがいる付近に、唐突に、奇妙な音が届いた。小さな、何かが弾けるような音。


「?」


 煙草を口にしたまま、正義はキョロキョロと周囲を見回した。


「なんか、今、変な音がしなかったか?」

「ええ。焚き火の火花みたいな音がしましたね」


 違う。焚き火なんかじゃない。第一、この季節に焚き火などをする人はいないだろう。


 洋平には分かっていた。あれは、スタンガンの音だ。美咲が、七瀬に、スタンガンを使ったのだ。


 まずい。正義やさくらは、あの音がしたところに行ったりしないだろうか。そんなこをされたら……。


 先ほどの七瀬よりも大量の冷や汗が、額に流れ出る。そんな感覚に洋平は包まれた。もちろん、汗など出ないのだが。


 ──バチバチッ


「あ、また聞こえてきましたね」

「ああ」

「どこから聞こえてきたか、分かります?」

「いや。分からん。何の音かも分からん」


 しばし、2人は無言になった。


 やがて、建設現場の家鳴りのようなものだろう、という結論に落ち着いた。


 洋平の焦りが、重りでも付けたかのようにストンと落下し、どこかに消えた。


 いつの間にか正義は、2本目の煙草に火を付けていた。吸って吐いてを、旨そうに繰り返す。


 2本目の煙草も短くなり、あと1回吸ったら終わりだろうという程度の長さになった。名残惜しそうに正義は煙草に口を付け、大きく吸い込んだ。


「ブッ……ゲホッ! ゲホッ!」


 さくらが、呆れたような目で正義を見ていた。


「何やってるんですか」

「いや、見ての通り、むせた」


 どうやら、この2人が美咲達の存在や行動に気付くことは、なさそうだ。


 そう思いつつも、洋平は、彼等が立ち去るまで、その様子を観察していた。

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