嫌な予感が消えないから、大丈夫と自分に言い聞かせる
学校に着いて教室に入ると、美咲は、教室内を見回した。
時刻は、午前8時40分。あと5分で朝礼が始まる。いつもなら、洋平と一緒に登校している時間。一緒に登校して、同じ教室に入り、それぞれの席に座る時間。
洋平は、来ていなかった。
8時45分になり、朝礼のチャイムが鳴った。クラスの担任が教壇に立ち、朝礼を始めた。
その時間になっても、洋平は来なかった。
朝礼が終わると、担任の教師が美咲のもとに来た。その表情には、困惑の色が見て取れる。
「村田はどうしたんだ? 休みか?」
美咲と洋平が恋人同士だということは、周知の事実だった。美咲自身も、隠そうとはしていなかった。むしろ、周囲に知って欲しいとさえ思っていた。
美咲は、その容貌から、異性に人気がある。だから、洋平と付き合い始めるまでは、たびたび告白を受けていた。それが、洋平と付き合っていると知られてから、無駄に言い寄られる回数が激減した。
もっとも、一番諦めて欲しい男は、いつまで経っても諦めてくれないのだが。
意識を担任の方へ戻す。
「昨日から、家に帰っていないみたいなんです。もしかしたら学校に来るかも、って思っていたんですけど」
「そうか。とりあえず、村田のお母さんに電話してみるよ。悪かったな」
「いえ。私も、電話してきていいですか?」
「村田のお母さんにか?」
「いいえ。私のお母さんにです。洋平が学校に来ていなかったら連絡するように言われていたんで。私のお母さんと洋平のお母さん、仲がいいから」
「わかった。何か分かったら教えてくれ」
「はい」
洋平は、ボクシングの試合以外の理由で、学校を休んだことがない。成績も優秀。絵に描いたような文武両道の優等生だ。そんな彼が連絡もなしに学校に来ていないことに、担任の教師も驚いているようだった。
美咲は席を立ち、廊下に出て母親に電話を架けた。今度はすぐに──1回目のコールの途中で咲子は電話に出た。
『学校に着いたの?』
「うん、着いた」
『洋平君は?』
「……来てない」
相変わらず、美咲の表情に変化はない。心の中は、洋平に何かあったのではないかという不安で満たされているのに。黒く重い不快感が、心の中で溢れかえっているのに。
変わらない表情のまま、美咲は顔を伏せた。
「昨日の夜に洋平から来たメール、お母さんに転送しておくね」
『うん、お願い。私はこのまま洋ちゃんを連れて、警察に行ってくる。警察にそのメールを見せて、捜索願を出すつもり。警察がすぐに動いてくれるかは、微妙なところだけど』
気持ちのうえでは、美咲は眉をしかめた。表情は動かないが。
「どういうこと? 警察が動いてくれるかは微妙、って」
『単なる家出家出だと判断したら、警察はすぐには動いてくれないの。事件に巻き込まれた可能性が高いって判断してくれないと。あんたが受け取ったメールの内容にもよるけど、微妙だと思う』
「何で!?」
つい、美咲は声を荒げてしまった。
咲子は、冷静に言葉を返してきた。いや、冷静でいようと努めている、という方が正しいか。
『事件性の低いことに対してすぐに動き出すほど、警察は優しくないの。警察は正義の味方でも市民の味方でもなく、ただの公務員でただの職業のひとつなんだから。だから、私なりに対策を立てるつもり』
「対策?」
『それは、あんたが帰ってから話す。長くなるから』
冷静な口調の直後、美咲の耳に届いた咲子の声は、唐突に優しくなった。
『安心して。私は、あんたや洋ちゃんができるだけ不安にならないように、可能な限りのことをするから。こんな仕事をしているわけだから、こういったことの経験値だって、それなりにあるんだから』
冷静でいながら、優しい口調。そんな母親の声を聞いて、美咲は、咲子の様子を思い浮かべた。たまに見せる、傷を負いながらも大切なものを守ろうとする、獣のような雰囲気。
咲子はきっと、こうして美咲を守り、育ててきたのだ。美咲が産まれる前──暴力を振るう夫と別れるときから。妊娠しているときは夫の暴力から腹の中にいる美咲を守り、美咲が産まれてからは、小さな我が子の手を取って戦ってきたのだ。
決して強い人ではないのに。
「うん。お願いね、お母さん」
『任せておいて』
「おばさんの様子はどう?」
『今、学校の先生から電話がきたみたいで、話してる。かなり疲れているみたい。当然だけどね』
つい先ほどの洋子の顔を、美咲は思い出した。仕事で疲れているときでさえ実年齢より遙かに若く見える顔が、ずいぶんと老け込んでいた。大切な息子に何かあったらと、不安なのだろう。
「おばさんも助けてあげて、お母さん」
『当然でしょ。洋平君からのメール、お願いね』
「わかった」
美咲は通話を切り、すぐに、洋平からきたメールを咲子のメールアドレスに転送した。昨夜の午後8時ちょうどに届いたメール。不可解な内容のメール。
美咲の頭の中に、再び、五味のことが思い浮かんだ。洋平の家に向かう途中にも思い浮かんだ人物。同じ学校で同じ学年で、別のクラスの、しつこく美咲を口説いてきた男。
五味秀一は、一言で言えば、このような人物だった。
「『何とかに鋏』という言葉を体現している人物」
父親は、大手建設会社の代表取締役社長。祖父はその会社の名誉職である会長。圧倒的に裕福な家庭に育ち、我が儘に育てられたのが分かる性格。その噂は、彼と知り合う前から、美咲の耳に入ってきていた。
金にものを言わせて豪遊し、修学旅行では20万もの大金を数日の間に使い切った。度々夜の街に繰り出し、風俗店巡りを趣味としている。
かといって、素人の女性に手を出さないというわけではない。金を使って愛人紛いの女性を囲ったり、目を付けた女子生徒をひたすら口説いている。狙っている女子生徒に付き合っている男子生徒がいたら、トイレに呼び出して数人でリンチをした。狙っている女子生徒と付き合っている男が校内の男でない場合は、仲間数人で拉致し、やはりリンチをした。
それは単なる噂ではない。実際に、美咲も、怪我をした男子生徒を数人目撃している。
そのくせ承認欲求が強く、自分を他者に認めさせるためにも金を使う。
そんな男が、洋平や美咲が通うような進学校に合格できたのは、父親の一言がきっかけだったという。
「いい学校に合格できたら、マンションを買ってやる」
父親に言われて五味は勉強に力を入れ、この高校に合格できた。彼の父親は、約束通り、彼にマンションの一室を買い与えたという。だから彼は、高校生にしてマンションに一人暮らしをしている。当然、生活費は親が出しているが。
我が儘に育てられたが故に傲慢で、欲しい物を手に入れられる経済力もある。そんな環境は、五味に無駄としか言いようのない自信を与えた。
五味からにじみ出る自信は、周囲に人を集めさせた。
美咲は、咲子の言葉を思い出した。父親と離婚した際のことを話していたときの、彼女の言葉。
「若い頃は、ちょっとくらい性格に難があっても、自信に満ちていて生きる力がありそうな男に惹かれるんだよね。本能なのか何なのか、わからないけど。その点、洋平君を好きになったあんたは、私なんかよりもずっと男を見る目があるよ。あんたは、同世代の女の子よりも、ずっと賢いと思う」
五味の周囲に集まる人達の中には、女の子も多い。それはきっと、彼には、咲子が以前言っていた若い女性を引き付ける魅力があるからだろう。
そんな五味に、美咲は、もう1年ほども前から口説かれ続けていた。彼が美咲の外見に惹かれたということは、考えるまでもなかった。
当然のように、美咲は、五味の告白を断り続けた。洋平と付き合っているから五味と付き合う気はないということも、口説かれるたびに彼に言った。それでも、自身に満ち溢れている五味に、諦める様子はなかった。美咲を自分に振り向かせ、自分を認めさせようと、自分自慢を振りかざしてきた。
美咲は以前、五味がしつこく口説いてきていることを、洋平に話したことがある。相談ではない。彼のしつこさに気持ち悪さすら感じていたが、相談するほど悩んではいない。洋平に話したのは、単なる愚痴だ。
「俺からも文句を言っておこうか?」
洋平は、露骨に面白くなさそうな顔をしていた。彼は美咲とは違い、感情が表に出やすい。いくら美咲にその気がないとはいえ、自分の好きな女が──自分の恋人がしつこく口説かれているというのは、気分のいいものではないのだろう。
そんな洋平の顔を見て、美咲は、申し訳ないと思いながらも嬉しくなってしまった。洋平は、本当に、私のことが好きなんだな。
私も、洋平が好き。本当に好き。そんな照れ臭い言葉を噛み殺して、美咲は別のことを口にした。
「いいよ。もし喧嘩にでもなったら、洋平が困るんだし」
洋平は、中学1年からボクシングを始めていた。美咲を守れる男になりたかった──というのが、ボクシングを始めた理由だった。傍目から見てもはっきりと分かるほど努力を重ね、中学3年のときには全国で2位にまでなった。さらに、高校1年にしてインターハイ出場、高校2年の今年はインターハイや国体でベスト8まで勝ち進んだ。
そんな洋平だからこそ、喧嘩は御法度だった。たとえ自分の身を守るためだとしても、ボクサーが喧嘩で拳を使うことを、司法は許してくれない。1発でも手を出せば、正当防衛など成り立たず、傷害の前科がつけられるだろう。この国の司法は、加害者には優しくても、自分の身を守るために戦う者には冷たいのだ。
もしかしたら、洋平は、美咲を口説き落とせないことに苛立った五味に、何かされたのかも知れない。
洋平から届いたメールを見た美咲が考えたのは、そんなことだった。
美咲を口説き落とせないのは、洋平のせいだ。彼がいなくなれば、美咲は簡単に落ちるはずだ。傲慢で自信に満ち溢れている五味がそう考えるのは、ごく自然なことだと思えた。同時に、我が儘に育てられ欲しい物を何でも手に入れてきた五味なら、自分の欲求のために洋平に危害を加えても、何ら不思議ではないとも思えた。
咲子にメールを転送したスマートフォンを、美咲はギュッと強く握った。心の中が、嫌な予感で満ちている。黒く重い重油のような液体が器に満たされているように、胸が重く感じた。
スマートフォンをブレザーのポケットにしまうと、美咲は、自分の心臓付近を強く握った。嫌な予感で満たされた胸を、支えるように。
何度も何度も、胸中で繰り返した。自分に言い聞かせた。
大丈夫。洋平は強いんだから。だから、大丈夫。五味なんかに何かされたとしても、絶対に大丈夫。
今朝、洋子を励ましたときと同じく、自分も励ますように、繰り返していた。