どうやっても叶わないことが、叶って欲しくて
美咲が、涙を必死に堪えていた。
咲子が、美咲に気付かれないように、そっと涙を流していた。
1月1日の夜。初詣の帰り道。
除夜の鐘も鳴り終わった深夜の神社で、彼女達は、駐車場の車に向かっていた。
洋平は、この神社に、毎年、美咲と2人で来ていた。2人で元旦の深夜に初詣をし、今年も一緒に過ごせるように祈り、帰路についていた。
並んで歩きながら時折腕を絡めてくる美咲に対し、情欲を抑えるのは大変だったが、洋平にとってそれは、間違いなく幸せな時間だった。
失ってしまった幸せ。2度と戻ることのない時間。
咲子が泣いていることを察知して、洋平は昔を思い出していた。美咲と出会ったばかりの頃を。
洋平達が住んでいた市営住宅の近くのアパートに、美咲達が引っ越してきた。洋平が3歳の頃だ。
後になって知ったが、あの頃の咲子は職場復帰して間もない頃で、経済的にも体力的にも余裕がなく、できるだけ職場の近くで生活したかったそうだ。
近所にある保育園に美咲を入園させることもでき、入居したアパートは、職場と保育園を行き来するには格好の場所だったという。
彼女達が暮らし始めたアパートはその時点で築30年という古いもので、冬は家の中でも厚着をしていた。ストーブは当然のように点けていたが、それでも寒かった。2、3日家を空けたら、トイレの水が凍ったこともあったという。
咲子は弁護士資格を持っていたが、世間のイメージとは違い、それだけで裕福な生活ができるわけではない。小さな子供を抱えてフルタイムで働くことも難しい状況では、どんな資格や能力があったとしても、裕福な生活など望めないだろう。
美咲が保育園に入ってきたとき、すでに洋平はその保育園に通っていた。保育士が新しいお友達として美咲を紹介したときに、初めて彼女と出会った。
まだ3歳。物心はついているが、はっきりとした自我や人格が形成される以前の年齢。
そんな歳にも関わらず、洋平は、美咲をひと目見た瞬間に心を奪われた。
美咲は、その年頃には、すでに驚くほどの整った可愛らしい顔立ちをしていた。
だが、まだ3年ほどしか生きておらず、美醜も理解できない洋平が、美咲の綺麗さなど分かるはずもなかった。
それでも、洋平は、美咲に心を奪われた。あっという間に好きになっていた。
なぜ彼女を好きになったのかは、今でも分からない。もしかしたら、その頃の洋平はなぜか人の容姿に関して美醜の判断ができ、綺麗な顔立ちをした美咲に一目惚れしたのかも知れない。もしかしたら、幼いが故に動物的な本能が働いて、遺伝子レベルで惹かれるものがあったのかも知れない。
理由など分からない。
理由などどうでもよかった。
ただ美咲が好きで、美咲が入園したその日から、洋平は積極的に彼女に話しかけた。幸いにも家が近所だったので、休みの日には遊ぶ約束もした。
子供が一緒に遊べば、その親同士が顔を合わせる機会も多くなる。子供を1人抱えた母子家庭という似た境遇から、咲子と洋子もすぐに親しくなった。
美咲は、その頃から、表情の変化に乏しかった。ほとんど笑わず、ほとんど怒らず、ほとんど悲しまない。泣くこともない。
幼心に、洋平は不安になったことがある。自分と一緒にいても、美咲は楽しくないのではないか、と。
だから、一生懸命楽しませようとした。知恵も知識もない洋平は、誰かを楽しませる方法など分からない。そのため、自分が楽しそうに笑い、悲しそうに涙を流し、頬を膨らませて怒って見せた。感情がすぐに出る、豊かな表情で美咲に接した。
やがて、気付いた。美咲は、楽しんでいないのではない。怒っていないのではない。悲しんでいないのではない。感情を表に出すのが苦手なだけなのだ、と。苦手だが、確かに表情に変化はあった。ほんのわずかに上がる口角。少しだけ緩む目元。不満そうにキュッと締まる口元。
美咲の表情の変化が分かると、ますます彼女のことが好きなった。感情に応じて明確に表情を変化させる自分とは違い、ほんのわずかに、けれど楽しそうに口角を上げる彼女の笑顔が、大好きだった。
あれは、5歳くらいのときだっただろうか。来年には小学生になる、という時期。
美咲の家で彼女と遊んでいたときに、洋平は、一緒にいた咲子に言われた。
「何かあったら、美咲を守ってあげてね」
それがどんな意味合いで言われたのかは、今の洋平には分からない。もしも美咲がいじめられたら、洋平だけでも仲良くしてあげて、という意味なのか。もしも美咲が悩んでいたら、助けてあげて、という意味なのか。もしくは、夫の暴力から逃げるように離婚した経験から、単純に理不尽な暴力から守ってあげてという意味なのか。
今となってはどういった意図で言われたのか分からない、咲子の言葉。
彼女の言葉を、洋平は、幼い子供らしい、単純で純粋な意味で解釈し、頷いた。
誰と戦っても負けないほど強くなって、美咲を守るんだ。
その翌日に、洋子が見ていた朝のニュースで、スポーツの報道がされていた。前の日に行われたプロボクシングの世界タイトルマッチのニュース。圧倒的な強さを誇るボクサーが、わずか1ラウンドで相手をKOするシーンが、繰り返し流されていた。
これだ、と思った。
こんなふうに強くなって、どんなときでも美咲を守れるようになるんだ。
それから洋平は、新聞配達で稼いだ金でジムに通えるようになるまで、ボクシングの真似事を続けた。毎日毎日、努力を怠らずに自分を鍛え上げた。
確かに洋平は強くなった。中学高校と、全国レベルでも優秀な成績を修めている。腕力は間違いなくついただろうし、ボクサーとしても強い部類だろう。
でも。
涙を堪えている美咲。
涙を流している咲子。
後悔ばかりが、洋平の心に降り積もる。空から舞い落ちる雪のように、積もってゆく。
あのとき。五味達に殺されたとき。
五味は、美咲を呼び出すために、洋平のスマートフォンを奪った。
洋平は美咲を守るため、痺れて自由に動かない体に渾身の力を込めて動かし、自分のスマートフォンを取り返し、破壊した。
それで美咲を守れたと思った。凄まじい暴行の中でも、満足して死ねた。
だがそれは、ただの自己満足だった。
自分が死ぬことで美咲が悲しむことも、苦しむことも、狂わせてしまうことも、まるで考えていなかった。
たとえ傷害の前科がついたとしても、死んではいけなかったのだ。生きて帰らなければならなかったのだ。
もし、自分が傷害で捕まり、美咲や咲子に迷惑がかかるなら、別れればいいだけだ。実の親子である洋子と縁を切ることはできないが、息子としての責任を果たし、支え続ければよかったのだ。
自己犠牲の精神は、美しく見える。残される人間の悲しさや苦しさをまったく視界に入れない、自己陶酔に近い美しさだ。赤の他人の評価ばかりを求め、もっとも自分に近しい人の気持ちを無視した、美しさ。
洋平は分かっていなかった。自分の自己犠牲のせいで、美咲がどれだけ傷付くのかを。どれだけ不幸になるのかを。
犯罪者になっても、生きるべきだった。そうすれば、どんなに少なくとも、美咲を守り切ることができた。
もしそれで、美咲が別れを望んだとしても構わなかった。悲しいが、彼女は洋平以外の男と平穏な幸せを掴むことができる。
もし美咲が別れを望まなかったとしたら、死ぬ気で支え続ければいい。過去の犯罪歴など払拭できるくらい、必死に生きればいい。決して後ろめたい理由でついた犯罪歴ではないのだから。
洋平の思考の中で「もしも」が何度も何度も繰り返される。実現されることのない仮定。どんなに願っても変えられない過去。
洋平が何度も夢想する仮定は、決して現実になることはない。すでに洋平は死に、物言わぬ死体は土の下だ。
美咲はすでに2人の人間を殺し、死体をそれぞれ別の場所に遺棄した。
法や社会の正義など、どうでもいい。五味や六田は、洋平や美咲にとっては死ぬべき人間だった。だから、彼等が死んだことも、どうでもいい。
時計の針を過去に戻せないのなら。
自分の力で美咲を守り切ることができないのなら。
それならば、せめて、未来だけは、美咲の幸せに向かって進んで欲しい。
洋平はひたすら祈った。
もう何も出来ない自分には、祈ることしかできなかった。倫理や正義などどうでもいいから、美咲に幸せな人生を送らせて欲しい。美咲を犯罪者になんてしないで欲しい。
死体が見つからなければ、美咲の殺人は立証されることはない。誰にも何も知られずに済めば、彼女は、ただの高校生で、これから先はただの大学生になり、さらに未来にはただの社会人になるだろう。洋平が死んだ傷が癒えれば、ただの妻となり、ただの母親になれるはずだ。
だから、どうか。
お願いだから。
五味や六田の死体は、永久に見つからないで欲しい。あいつらの人生やあいつ等の家族なんてどうでもいいから、美咲を不幸にしないでほしい。
考え方によっては理不尽とさえ捕らえられる願いを、洋平は繰り返した。もう自分には、それしかできないから。願うことしかできないから。
ひたすら願い、祈り続けた。
◇◇◇◇◇◇
しかし、洋平の願いは無残に散る。
冬休みが終わる10日前の、1月7日。
その日は、北国の真冬とは思えないほど暖かい日だった。最低気温ですら、マイナスにならなかった。
昼間は、日差しが強かった。時間が一気に2、3ヶ月ほど進んだのではないかと思えるほど暖かかった。
暖かい気温の中で照る太陽の光は、雪や氷も溶かしていた。人が乗れるほど分厚く固かった池の氷すら溶かした。
かつて五味だった肉の塊は、腐敗し、ガスを発し、密閉されたキャリーバックに浮力を与え、池の水面に浮き上がらせた。
浮き上がったキャリーバックは、公園の管理業務員に引き上げられ、開けられた。
キャリーバックの中から出てきた、腐敗したバラバラの死体。
すぐに警察が動き出した。
希望も願いも叶わず、洋平の心は、かつて自分が殴っていたサンドバックのように、打ちのめされた。




