惰性であっても、もう戻れない
全て、美咲の思惑通りに事は運んだ。
美咲とのセックスに満足した六田は、事後にあっさり眠りにつき、そして、美咲に刺し殺された。
その光景を、洋平は、五味殺害のときと同じように、すぐ近くで察知していた。
夕焼けがカーテンの隙間から差し込む、午後4時。
血まみれになった、まだ新しい羽毛布団とシーツ。
サバイバルナイフの先端から滴り落ちる、六田の血。
何度もナイフを突き下ろしたせいで乱れている、美咲の呼吸。
目を見開き、すでに死んでいる六田。
美咲は、六田を殺すときは、何も言わずに滅多刺しにしていた。五味のときのように、辛辣な言葉を吐き捨てることもなく。その差が、五味と六田に対する憎しみの大きさの違いだったのだろう。
標的の4人の中での立場は、五味と六田はほぼ同等だったが、美咲の憎しみの強さは、2人の間に大きな差があったのだ。
それでも殺した。躊躇いなく、残酷に、凄惨に。
血まみれのナイフを、同じく血まみれの羽毛布団で拭うと、美咲は、五味のときと同じように、寝室の冷房を点けて窓を開けた。
寒さに身震いしながら、寝室を出た。浴室に足を運んで、シャワーを浴びる。
美咲の心の中では、五味と六田に対する憎しみの強さに、大きな差がある。彼等に対する態度や殺し方を見れば、それは容易に分かる。
美咲は、六田よりも、五味の方を圧倒的に憎み、恨んでいた。それならば、殺すのは五味だけでよかったはずだ。あとの3人は警察にでも突き出せばいい。殺人の重さを殺した人数で計るのは抵抗があるが、司法の視点で考えれば、殺した人数が少ない方が罪は軽くなる。
けれど、美咲はやめないだろう。止まらないだろう。五味を殺したときほど歓喜や達成感を得ている様子もないのに。もう、引き返すことなどできないから。
今の美咲の姿や行動からその心理が理解できて、洋平は、心を焼かれるような後悔に包まれていた。張り付けにされて、火炙りにでもされているようだった。苦痛が全身にまとわりつき、身も心も焦がしてゆく。
今では、洋平にも分かっていた。美咲が、どれだけ自分のことを好きでいてくれたか。どれだけ深く、自分のことを愛してくれていたのか。
深すぎる愛情は、その対象を失うことによって、重過ぎる悲しみとなった。
重すぎる悲しみは、要因となった人間に対して、大き過ぎる憎しみを抱かせた。
大き過ぎる憎しみは、その対象を無残に殺すだけでは、消せなかった。憎しみを叩き付ける対象が1人だけでは、払い切れないのだ。
だから、美咲は止まれない。五味を殺しても払い切れない憎しみを払うために、彼の協力者にも手を掛ける。たとえ、五味に対しての殺意ほど、強い執着がなかったとしても。
仮に、美咲がこのまま上手く事を運び、他の2人も殺せたとしよう。それでも、美咲の憎しみは消えないだろう。心を焼き続ける炎は、憎むべき人間を殺したからといって、簡単に鎮火できるものではないはずだ。人の心は、それほど単純ではない。
シャワーで体を洗い流した美咲は、髪の毛を乾かし、六田の死体置き去りにして、一旦家に帰った。
年末近いこの時期でも、咲子は仕事をしているようで、家には帰って来ていなかった。
自分の部屋に入ると、美咲は、ベッドの下に隠していたノコギリとブルーシート、金槌を取り出した。五味の死体の解体に使った道具。それらを新聞紙で包み、鞄に入れ、五味の家に戻った。
時刻は、午後6時になっていた。
五味のときと同じようにベッド脇にブルーシートを敷き、六田の死体を下ろし、解体作業に入る。
六田の死体の硬直は、始まったばかりだった。死後半日ほど経ってから解体を始めた五味と比べて、まだ柔らかい。解体するには適度な固さと言えた。
五味の死体を解体したことで、美咲は、死体解体のコツを覚えたようだった。五味のときよりも遙かに手際よく、スムーズに解体してゆく。頭、両腕、両足を、胴体から切り離してゆく。
美咲はもともと表情の変化に乏しいが、死体を解体するときも、眉ひとつ動かすことはなかった。淡々とした、流れ作業でもしているかのような表情。
命を失い、もはや憎しみを叩き付けることさえできなくなった六田は、美咲にとって人ですらないのだ。スーパーに売っている食肉と変わらない。むしろ、食べることすらできない分、食肉よりも下等な物なのだ。
五味と同じように四肢を切り離し、両足の膝から下を切り離し、ビニール袋に詰めた。やはり五味殺害のときと同じように、詰めた袋の中にたっぷりと消臭剤を吹きかけた。
解体に要した時間は、わずか3時間半だった。たった1度の経験で、美咲の死体解体の要領は、驚くほどよくなっていた。
それは決して、磨いてはいけない技術だった。美咲には、身に付けて欲しくない技術だった。
後悔の炎に、洋平の心が焼かれる。あまりの熱さと苦痛に、吐き気すら覚える。嘔吐する体も吐き出す物もないのに。
美咲は時計を見た。午後9時半。自分のスマートフォンを手にし、電話を架けた。相手は、咲子だった。友達の家にいたらすっかり遅くなった。あと1時間くらいで帰る。そんな会話をして電話を切った。
最近の咲子は、やや美咲を放任しているようにも見える。洋平がいなくなって気落ちしている美咲に、好きに気張らしをさせたい。そんなことでも考えているのだろうか。彼女の意図は、洋平には分からない。
死体を、残る3つのうちの1つのキャリーバックに詰めると、美咲は五味の家を出た。六田の死体を始末してから、今日は家に帰るのだろう。明日は、殺人の痕跡を消すために五味の家を大掃除するはずだ。五味を殺したときと同じように。
家を出た美咲が向かったのは、五味を沈めた公園の池ではなかった。
ある企業のオフィスビルの建設現場。
五味の親の会社が請け負っている現場だ。
五味は、生前、美咲に、自慢気に自分の親の会社が請け負っている仕事の話をしていた。自分はただその家に生まれただけで、何ひとつ仕事には関わっていないのに。自分の親の会社がどれだけ凄いかを語り、美咲に認められたかったのだろう。
その現場が、友人の死体を埋める場所にされるとも知らずに。
建設現場には、洋平が殺されたマンションの建設地と同じように、周囲に幕が張られている。つまり、幕の入り口を通って建設現場に入ってしまえば、死体を埋めるところを、誰にも目撃されない。
美咲は、キャリーバックを引いて幕の中に入った。もう遅い時間なので、現場作業員は1人もいなかった。
幕の付近に設置された、簡易トイレ。ビルの入り口になるであろう場所に置かれた、赤い金属製の灰皿。ビルの土台となる部分は、洋平が殺された現場と同じように、掘り起こされている。深さは、これも洋平が殺された現場と同じく、1.5メートルほどか。ただし、その土台となる穴の中には、すでに砂利が敷き詰められている。
美咲は乱暴にキャリーバックを土台の中に落とすと、周囲にあったスコップを持って、自分も土台の中に降りた。
砂利を敷き詰めた土台を掘り起こし、なんとかキャリーバックが入る大きさまで穴を広げると、六田の死体が入ったキャリーバックを埋めた。
キャリーバックを埋めたことで盛り上がってしまった土台は、積まれた砂利を周囲に散らして目立たなくした。
六田を埋め終わると、土台から出る。スコップを適当に放り投げ、美咲は、建設現場を後にした。
五味を池に沈めたときのような捨て台詞も、六田に対してはなかった。
五味に対して抱いていた感情が、六田に対しては、ない。
現場を後にして家に向かう美咲を追いながら、洋平は、ひたすら後悔していた。自分の選択と行動を悔やんでいた。
俺が殺されたりしなければ、こんなことにはならなかったのに……。
洋平は、五味達に呼び出されたとき、一切抵抗しなかった。ただ彼等が殴りかかってくるのを避け、疲れるのを待った。彼等が疲れ果てたら、もう美咲に近付くなと告げて終わるつもりだった。
その結果がこれだ。
どんなに鍛えられた人間でも、後ろから接近され、スタンガンを押し当てられたら、ひとたまりもない。決して油断したわけではないが、洋平は、五味達の凶暴性と自分の能力を見誤り、命を落とした。
自分が殺されることで、美咲を狂わせてしまった。後戻りのできない道に進ませてしまった。
取り返しの付かない結果。後悔しても後悔し切れない結末。
もしも、と考えてしまう。
もし、あのとき、五味達を容赦なく叩きのめしていたら。
きっと、洋平は、傷害で逮捕されていただろう。自分の身を守るためとはいえ、ボクサーが一般人に手を出したら、司法は守ってくれない。情状酌量の余地はあっても、正当防衛は認められず、過剰防衛として扱われていただろう。
犯罪者となり、その場合も、間違いなく後悔したはずだ。
それでも、今の状況よりは遙かにいい。自分が命を失い、そのせいで美咲が狂ってしまうよりは。
あのときに戻りたい。五味達に殺される直前の、あのときに。
もう1度やり直したい。もう1度やり直して、せめて、美咲だけは不幸にならないようにしたい。
けれど、そんなことは不可能だ。今の自分は、幽霊とでも言うのだろうか。こんな非現実的な存在になっているのに、過ぎた時間は巻き戻せないという現実は、変わることがない。現実感のない存在となった自分に、変えようのない現実が重くのし掛かっていた。
過ぎた時間は、決して戻せない。過去は、どうやっても変えようがない。
洋平は泣き出したかった。
もう何もできない自分が、ただひらすら恨めしかった。




