直感的嫌な予感
笹森美咲がそのメールを開いたのは、午前7時45分だった。
幼馴染みであり恋人でもある、村田洋平からのメール。
見た瞬間に、明らかに異常な内容だと分かるメール。
そのメールを見る瞬間まで、今日は、いつもと変わらない1日だった。いつもの日常が始まるはずだった。
いつもの日常。いつもの平日。
しかし、そのメールをスタート地点として、美咲の未来は大きく揺らぐこととなった。
美咲の平日は、朝の目覚まし時計の音から始まる。
それは、今から1時間20分ほど前。
──目覚まし時計の音で目を覚ました。
ベッドのすぐ隣に置いてある収納チェストの上で、スヌーズ機能のついたデジタル表示の目覚まし時計が、うるさい音を立てた。ピピピピッ、ピピピピッという音。スヌーズは、5分置きに設定している。
時刻は、午前6時20分。
ベッドの上で目を覚ました美咲は、布団から手を出して、ベッドと同じくらいの高さの収納チェストの上に手を伸ばした。
目覚まし時計のアラームを止める。
11月初旬。北国の気温はすでに低く、布団から腕を出した途端に室内の空気の冷たさを感じた。
寒さが、美咲の意識を覚醒させた。いつもは、3度目のスヌーズでようやく目が覚めるのに。
暖かい布団の中に未練を残しながら、美咲はベッドの上で上体を起こした。グーッと体を伸ばす。布団から出て冷やされた体が、ブルッと震えた。
寝起きにも関わらず、誰もが振り返るほどの美貌を保っている。シャワーを浴びて表情が引き締まると、さらにその美貌は増す。そんな少女だった。17歳。高校2年。背中まで伸びた長く綺麗な黒髪は、寝癖でクシャクシャになっている。それでもなお、美貌は損なわれていない。部屋にある姿見には、綺麗な顔が映し出されている。
美咲はベッドから降り、立ち上がった。
薄手のカーペットに触れた足の裏が、顔をしかめるほどに冷たい。
それなのに、美咲の表情は動かなかった。
彼女の美貌にただ1つ欠点があるとすれば、あまりに無表情なことだった。気持ちが、驚くほど表情に出ないのだ。喜びも悲しみも、怒りも。
美咲は、そんな自分があまり好きではなかった。
美咲は無表情のまま、寒さを堪えるように自分の体を抱き、部屋から出た。
市内の一戸建て。美咲の部屋は2階。ドアを開けると真っ直ぐ廊下が伸びており、廊下の突き当たりにはトイレがある。トイレからUターンするように右手に回ると、1階に降りる階段。トイレと美咲の部屋の途中には、物置に使っている部屋がある。もっとも、美咲の部屋よりも物置部屋の方が広いのだが。
トイレで小用を済ませ、美咲は階段を降りた。
階段を降りてすぐのところに、1階のトイレ。そこから右手に玄関。玄関を通り過ぎてドアを開けると、リビングがある。
玄関前を通って、美咲は体を震わせた。自分の部屋よりもずっと寒い。もうそろそろ初雪が降り、来月には道路が根雪で隠され、本格的な冬になるのだろう。
今年のクリスマスは、洋平と、どうやって過ごそうかな。3度目となる恋人とのクリスマスを、美咲は思い浮かべた。近所の市営住宅に住んでいる幼馴染み兼恋人。自分とは違い素直に気持ちを表に出せる彼のことが、美咲は誰よりも好きだった。自分の命よりも大切だと断言できる存在だった。
そんな洋平と迎えるクリスマスのことを思い浮かべても、美咲の表情はほとんど動かなかった。心の中は、楽しみで楽しみで跳ね回っているのに。
リビングのドアを開ける。
リビングの奥にあるダイニングから、旨そうな匂いが漂ってきた。
「ああ、美咲、おはよう」
母親の咲子が、彼女と美咲の弁当を作っていた。
「おはよう、お母さん。とりあえずシャワー浴びてくる。お弁当は後で自分で詰めるから、置いておいて」
「別にいいよ。それくらい、大した手間でもないし」
美咲は、咲子と2人暮らしだ。咲子と父親は離別。美咲自身が産まれる前──咲子が美咲を妊娠しているときに離婚したらしい。
高校に進学する直前に、美咲は、咲子に、父親のことを聞いたことがある。顔も知らない父親は、どんな人で、今どこで何をしているのか。
もうすぐ16歳になる美咲を前に、咲子は「あんたももう子供じゃないから」と、包み隠さず事実を話してくれた。離婚時に弁護士が用意してくれた、古ぼけた資料を前に。
一言で言えば両親の離婚原因は、父親の暴力だった。妊娠中にも関わらず暴力を振るう夫に対し、咲子は離婚を決意したという。
離婚後に咲子は、結婚前から働いていた法律事務所に復職した。彼女はもともと弁護士資格も有しており、妊娠を機に退職したが、当時の稼ぎは父親よりも多かったそうだ。離婚時に担当した弁護士は、当時の彼女の同僚だという。
復職した咲子は、美咲が小学校4年になる頃には元の稼ぎを取り戻し、さらにその2年後には、離婚時に対応した同僚と共同経営者として独立した。
事務所の経営は順調なのだろう。社用車として利用している車は、2年ほど前に軽自動車から一般乗用車に替わった。美咲は、車の車種にはまるで疎いが、車が大きくなった分だけ事務所の利益が大きくなったのだろうと想像できた。
中古とはいえ一戸建てを購入できたのも、事務所の経営が順調だからに違いない。
そんな成功者とも言える咲子だが、時々何かに怯えているような様子を見せることがある。
いや、怯える、という言葉はやや語弊がある。自分や我が子を守ろうとする、手負いの獣のような雰囲気。震えながら絞り出す闘争心。
そんな時はきっと、咲子自身と同じような境遇の客の対応をしているのだろう、と美咲は想像していた。夫の暴力に震えながら戦う妻。そんな客と自分を重ねているのだ。
咲子は、本来は、それほど強い女性ではない。片親であることについて隠れて1人で悩んでいる姿を見たこともある。それでも彼女は、美咲を守りながら、死にもの狂いで生きてきたのだ。
美咲は、ダイニングの奥にある浴室に足を運んだ。洗面所兼浴室のドアを開ける。ドアを開けてすぐ右手に洗面所。洗面所の奥に洗濯機。さらにその奥に、浴室のドアがある。
パジャマを脱いで洗濯機の上に置くと、浴室に入った。
床のタイルは、美咲の部屋のカーペットよりも遙かに冷たい。
ひゃっ、という声が出た。それでも、浴室にある鏡に映った美咲の表情は、まるで動いていなかった。
シャワーを浴び終えて髪の毛を乾かし、軽い朝食を食べて歯を磨いた。乾いた長い髪の毛を整え、登校する準備をする。
自分の部屋に戻って制服を着る。時計を見ると、時刻は7時45分だった。いつもより用意を終えるのが10分ほど早かった。きっと、スヌーズ機能に頼ることなく1度目のアラームで起きたからだろう。
洋平と美咲は、同じ高校に通っている。いつも、彼が8時に迎えに来て、一緒に登校するのだ。
洋平が来るまで、あと15分くらいか。美咲は自分のスマートフォンに手を伸ばし、メールアプリを開いた。未読件数が29件になっていた。
メールは、数年前まで、通話をしなくても連絡が取れるツールの主流と言えた。ところが、LOOTというリアルタイムでメッセージのやり取りができるチャットアプリが登場してから、個人レベルの連絡でメールを使用する人は、激減した。
LOOT登場後にメールを使用するケースは、ネット通販で何かを購入する場合や飲食店などを予約する場合などが主となった。受信するのは、利用した店などの連絡メールや広告メール。もしくは、迷惑メールか。
急いで確認する必要があるものはほとんどないので、美咲は、暇なときに、溜まったメールをまとめて確認するようになっていた。
受信していた29件のメールのうち28件は、思った通り、過去に利用した店からの広告メールと、迷惑メールだった。
しかし、1件だけ、違うものがあった。
送信者の欄に、村田洋平、と表示されていた。恋人の名前。受信時刻は、昨日の午後8時ちょうど。
不自然なほど切りのいい時間に届いているのは、洋平が、偶然その時間に送信したからなのか。それとも、予約送信の設定をしたからなのか。
美咲はメールを開いてみた。中身の文面を見た瞬間、変わらない表情まま、目を見開いた。
『今日は、誰から連絡があっても絶対に家から出るな。俺からの連絡だったとしてもだ』
洋平から届いていたのは、あまりに不自然な内容のメールだった。そもそも、こんな短い文をメールで送ってくること自体不自然だ。LOOTを使用するようになってから、洋平からメールで連絡がきたことはないはずだ。少なくとも、美咲の記憶にはない。
普段メールを使用することなどない洋平から、不可解なメールが届いた。不自然なほど切りのいい時間に。
洋平は、無駄な悪ふざけをするような男ではない。美咲に対して、悪ふざけのような連絡をしてきたこともない。
そんな彼が、こんなメールを送ってきた。
美咲の胸の中に、言葉では表現できない何かが注がれ始めた。ゆっくりと、少しだけ開いた蛇口から水を注ぐように。心が、注がれた分だけ重さを増してゆく。
注がれているのは、水のように透明で綺麗なものではない。黒く粘着質な、不快感を覚えるもの。
嫌な予感。
決して、根拠のない予感ではない。
心当たりのある、嫌な予感。
時刻は、7時48分。
咲子に行ってきますと告げ、美咲は早足で家を出た。
洋平を迎えに行ってみよう。もし、この嫌な予感が外れて洋平に何もなかったなら、彼はまだ自宅にいるはずだ。
美咲と洋平の家は、徒歩で3分ほどの距離だ。
今の美咲の家は、以前住んでいたアパートから歩いて5分程度しか離れていない。今の家に移る前から、洋平と美咲はすぐ近所に住んでいる。
咲子がそんな場所に家を買ったのは、彼女自身が洋平の母親──洋子と離れたくなかったからだろう、と美咲は考えていた。その考えは、きっと正しい。咲子と洋子はまるで昔馴染みのように仲がよく、洋平と美咲が付き合うことを、2人揃って喜んでいたから。
洋平の家に向かう美咲の足が、自然と速くなる。走るつもりはないのに、駆け足のようだった。
洋平の自宅は市営住宅の5階。その棟に入ると、階段を1段飛ばしで駆け上がった。
速いテンポで足を進める美咲の頭の中に、同じ高校で同じ学年の五味秀一が思い浮かんでいた。進学校に在籍しながら、父親の威を借りた素行の悪さが目立つ男。洋平と付き合っているからと何度も断ったのに、しつこく美咲を口説いてきた男。
洋平の家に向かって階段を上る美咲の心に、嫌な予感が広がってゆく。洋平は、五味に、何かをされたのではないか。
そう考えると、先ほど見たメールも辻褄が合う気がした。五味に呼び出された洋平が、万が一のために、美咲に注意喚起のメールを送った。
洋平のことを思うあまり、美咲は、自分の思考が短絡的になっていることに気付けなかった。
市営住宅の階段を、5階まで上り切った。
美咲は洋平の家のインターホンを押した。
ほとんど間を置かず、家の中からパタパタと走る音が聞こえてきた。
ガチャン、と鍵が開く。
ドアが開いた。
「洋平!?」
ドアを開けたのは、洋平の母親の洋子だった。小柄な体。ショートボブの髪の毛。年齢は咲子の5つ下のはずだが、かなり若く見える。今は、寝不足を物語るように目の下に隈ができていた。
やはり、洋平の身に何かあったのだ。ただ事ではない、何かが。それは、洋子の様子を見れば一目瞭然だった。普段なら実年齢より10歳は若く見える彼女が、目の下の隈と表情に出た疲労で、かなり老けて見える。
洋平は、洋子と2人暮らしだ。父親とは死別。洋子が洋平を妊娠中に、事故死した。
咲子と洋子が親しいのは、気が合うからだけではない。妊娠中に独り身となり、女手1つで子供を育てているという共通の境遇が、彼女達を親しくさせたのだ。
「ああ、美咲ちゃん、ごめんね」
ドアを開けて美咲を見た洋子は、深く溜息をついた。彼女の様子から、洋平が家に帰っていないのは明らかだった。
「おばさん、洋平は?」
「帰ってきていないの、昨日から」
洋子は、介護職に就いている。夜勤もあるハードな仕事だ。
今の洋子の顔は、夜勤明けのときよりも疲れ切っていた。心労だろう。
「連絡もないの?」
洋子は、隈のできた目を伏せるように頷いた。
美咲は、制服のブレザーの内ポケットからスマートフォンを取り出した。
「私、洋平に電話してみる」
スマートフォンの通話履歴から洋平の名前を探し出し、通話アイコンをタップした。
『お架けになった電話は、電波の届かないところにあるか、電源が入っていません』
無機質なガイダンスの音が、美咲の耳に届いた。
自分の心臓の鼓動が速くなるのを、美咲は感じていた。嫌な予感が膨らんでゆく。
「駄目。通じない……」
「私も、昨日の夜から何度も電話してるんだけど、通じなくて……」
洋子の声は弱々しい。彼女の心労の具合が伝わるほどに。
「おばさん、ちょっと待ってて。私、お母さんに電話してみる」
美咲は通話履歴の中から、今度は咲子の名前を探し、通話アイコンをタップした。
4度目のコールで、咲子が出た。
『美咲、どうしたの? 忘れ物?』
「お母さん、あのね、洋平が、昨日から、帰ってないみたいなの。電話も、通じなくて」
『洋平君が? なんで?』
咲子の声が、少し上ずった。
「あの、うん、分からない」
美咲の表情は、いつもと変わらず無表情だった。ただ、焦りのせいか、言葉が上手に繋げられず、途切れ途切れになっていた。言葉1つを発するのに、いちいち呼吸が必要なほど胸が苦しい。
「それに、ね。実は、昨日の夜に、洋平から、変なメールが来てて。メールなんて、滅多にしないのに。私も、そのメールに、さっき、気付いたんだけど」
焦りで呼吸が浅くなり、いちいち言葉が途切れる。口調から容易に知れる焦りと、まったく変化のない表情が、あまりにアンバランスだった。
『美咲、落ち着いて』
大声ではない、しかし強い声が電話の向こうから帰ってきた。
咲子の声に刺激されて、美咲の肩がブルッと震えた。
『私も、今からそっちに行く。あんたは、そのまま学校に行きなさい。もしかしたら、洋平君が来るかも知れないから』
咲子の声は力強かった。とはいえ、彼女に驚きや戸惑いがないわけではないだろう。彼女は、冷静に行動できるよう自分をコントロールできているだけだ。
『もし、洋平君が学校に来ていたら、すぐに連絡して。もし来ていなかったら、あんたが洋平君から送られたメールを、私に転送して』
「うん、わかった」
美咲は頷いた。
「お母さんはどうするの?」
『今からそっちに行って、洋ちゃんと警察に行く。仕事は、相方に事情を話して遅刻していく』
美咲は、今度は無言で頷いた。この場にいない咲子に、美咲が頷いたところなど見えるはずもないのだが、声が出なかった。喉がカラカラに渇いていた。
『私が今から行くこと、洋ちゃんに伝えて。そしたら、すぐに学校に行きなさい。いい、洋平君が来ていたらそのことを、来ていなかったら、あんたが洋平君から送られたメールを、私に送って』
声の具合から美咲の焦りの大きさを感じたのだろうか、咲子は、念を押すように、それでいて諭すように言ってきた。
「わかった」
再度頷いて、美咲は電話を切った。洋子の方に向き直る。
「おばさん、今からお母さんが来るから。一緒に警察に行ってみる、って。私は、このまま学校に行って、洋平が来るかどうか確かめる。確認したら連絡するようにって、お母さんに言われた」
警察という単語を聞いて、洋子の肩が震えた。自分の息子が、何らかの事件に巻き込まれた可能性がある──その現実を、警察という言葉で実感してしまったのだろう。
洋子は、愛情深い優しい母親だ。そんな人に育てられたからこそ、洋平も優しくて強い男に育ったのだ。
すでに義母のようにすら思っている洋子を、美咲は慕っている。
美咲は、意識して口に笑みを浮かべた。基本的には無表情だが、それは、感情が表に出にくいだけだ。顔の筋肉を動かせないわけではない。意識すれば、表情を変えることはできる。
「大丈夫だよ、おばさん」
美咲は、洋子の肩に手を置いた。
「もし何かあったんだとしても、洋平は強いんだから。おばさんも知ってるでしょ?」
洋子を励ますように、同時に自分にも言い聞かせるように、美咲は言った。
「だから、絶対に大丈夫」
「そうだね」
小さく、弱々しく、洋子は頷いた。
洋子と一緒に頷きながら、美咲は胸中で繰り返す。
大丈夫。洋平なら、絶対に大丈夫。