幸せを破棄し、地獄に堕とす。地獄に堕ちる。
※この話には凄惨なシーンが含まれます。苦手な方はご注意下さい。
自分は死んでしまった。だから、美咲を幸せにすることなどできない。
それならば、せめて、美咲には、自分のいない世界で幸せを見つけて欲しい。
平穏な学生生活を経て、社会に出て、優しい男と出会って、結婚して、子供を産んで、いつしか孫に囲まれて。
平凡だが、平穏で幸せな人生を送って欲しい。
美咲が幸せになれるなら、その側にいるのが自分でなくてもいい。美咲が幸せであればいい。
そんな洋平の気持ちに嘘偽りなど微塵もなく、心の底から、美咲の幸せだけを願っていた。死んでしまった自分のことなど忘れて、誰かいい人を見つけて欲しい、と。
嘘偽りのない本心だ。心の底から、そう思っていた。
けれど洋平は、五味が美咲の体に触れる場面を認識して、気が狂いそうになっていた。
洋平は、生前、美咲を抱けなかった。そういう展開に持って行くチャンスなど、いくらでもあったのに。
恐かったのだ。美咲が妊娠してしまうことが。避妊具を使っても、絶対に妊娠しないとは断言できない。もし、高校生という今の自分の立場で美咲を妊娠させてしまったら、どうなるか。
妊娠した子供を産むとなれば、美咲は高校を退学することになるだろう。父親である洋平も、同様に。高校を退学して、子供を育てるために必死に働くことになるだろう。
今の自分に、いったいどれだけの仕事ができるのか。どれだけ稼げるのか。裕福な生活など、決して望めないだろう。
苦労するのが自分だけなら、まだいい。しかし、美咲には苦労をさせたくなかった。たとえ自分の命と引き替えにしてでも、彼女には幸せになって欲しかった。
妊娠した子供を堕ろすとなれば、どうだろうか。堕胎を簡単なものだとは考えられなかった。母体には、確実に負担がかかる。精神的な面でも負担がかかる。運が悪ければ、一生子供を望めない体になるかも知れない。
美咲には、そんな負担も危険も背負わせたくなかった。
だから、洋平は我慢した。
美咲と2人っきりになったとき、ついつい、彼女の体に手が伸びそうになった。そんなことが、数え切れないくらいあった。
一緒に勉強をしているときなど、彼女の髪の毛の匂いが鼻孔をくすぐり、洋平の心臓を高鳴らせた。
2人で出かけて手を繋いだときなどは、その手の──肌の感触を全身で味わいたいと、彼女を抱き寄せそうになった。
一緒に食事をしながら話しているときなどは、彼女の唇に視線が釘付けになった。自分の唇を近付け、そのまま重ねて、体も重ねてしまいたいと。
美咲を壊れ物のように大切に扱いたい理性と、欲求のままに滅茶苦茶にしたい情欲の板挟みになっていた。
若い男の情欲は、時として、拷問のような苦しみを伴う。それは、場合によっては、飢えや渇きよりも苦痛となる。睡眠を削るよりも抗い難い苦行となる。自分の体のことなのに、自分自身でコントロールできなくなるのだ。自分の体の中に、暴れ馬でもいるかのように。
それでも常に、理性が勝った。男としての自分の欲求を抑えるため、口の中で頬の肉を噛んだこともあった。痛みが欲求を散らし、理性を維持させた。口の中は血まみれになったが。
自分の理性を総動員し、それでも堪え切れないときは痛みを伴い、守り続けた美咲。
そんな美咲が、五味の前で──自分以外の男の前で、裸になっている。体に触れさせている。唇を重ねている。
洋平は、もう死んでいる。美咲を抱くことなど、永遠にできない。彼女が他にいい男を見つけ、結婚し、子供を産むなら、いつかは必ず誰かに抱かれることになる。洋平以外の男に。
それは、洋平自身も、理屈では分かっていた。
分かっていたのに、心が強い力で握り潰されるような痛みを感じていた。熟れた果実のように、心が握り潰される。果汁のような大量の涙が、心から溢れる。
美咲を抱いているのが五味だから、こんな気持ちになるのか?
美咲を幸せにできるような男が彼女を抱いているなら、こんな気持ちにならないのか?
自問に対する答えを、洋平は分かっていた。
否、だ。
たとえ美咲を抱く男が誰であっても──それが、自分なんかよりも遙かに彼女を幸せにできる男だったとしても、心の痛みは感じたはずだ。堪えようのない、どうしようもない痛み。
自分が美咲とできなかったことを、できる男がいる。
自分が触れられなかった美咲の肌に、触れる男がいる。
自分が抱けなかった美咲を、抱く男がいる。
それがどんな男だったとしても、苦しいのだ。心が痛いのだ。洋平は、確かに、美咲に幸せになってほしいと願っているはずなのに。
洋平は、こうなって初めて、自分の、美咲に対する気持ちの一部を知った。
誰にも取られたくない。渡したくない。誰にも触れさせたくない。自分だけの人であってほしい。
それは、誰にでもある独占欲だった。美咲への思いが強過ぎて──彼女を大切に思う気持ちが強過ぎて、今まで気付けなかった。
気付いた瞬間に、洋平は地獄を味わった。最も軽蔑する男が、自分にとって何よりも誰よりも大切な美咲の体を、好きにしているのだ。
五味に、美咲の体を気遣う様子などない。自分の欲求を、ひたすら彼女の体で発散しているだけだ。
気が狂いそうだった。いっそ狂ってしまえば、どんなに楽だろう。
目が見えなく耳も聞こえないのに、何が起こっているのかははっきりと理解できる。その光景を見ないように目を塞ぐことも、その声を聞かないように耳を塞ぐことも、今の洋平にはできない。狂って自我を失い、今の現実から逃げることもできない。拷問のような今の状況を理解し、感じ、心の傷を深くすることしかできない。
泣けるものなら泣きたかった。叫べるものなら叫びたかった。もし、今の洋平に体があったなら、間違いなく、五味を殺していただろう。自分の好きな女の体を弄んでいる彼を、自分の拳が砕けるまで殴り続けただろう。
血の涙を流してもおかしくない、洋平にとっては地獄と言っていい、長い長い時間。
五味は、美咲の体に夢中になっていた。彼女の体の中で2回も果てた。
2回とも、避妊は一切していなかった。
セックスを終え、火照った体が冷えると、五味はすぐに眠くなったようだ。洋平が感じていた地獄のような痛みとは正反対の、多幸感と満足感。そんなものに包まれながら、彼はゆっくりと眠気に身を任せていった。
あまりの痛みと苦しみを味合わされた洋平は、しばし放心状態となった。もし洋平が生きていて体があったなら、絶望のあまり脳に異常をきたしたかも知れない。それほどの苦痛だった。
そんな洋平の意識を覚醒させたのは、美咲だった。彼女は五味が眠ったことを確認すると、そっと、彼を起こさないようにベッドから抜け出した。
体を密着させていた美咲がいなくなったせいか、五味が寝返りを打ち、ベッドの上で仰向けになった。
五味の体からはだけてしまった羽毛布団を、美咲は、そっと彼の体に掛けた。それはまるで、恋人が風邪などひかないように気遣っているようにも見えた。
けれど、違う。美咲は、そんな理由で五味に羽毛布団を掛けたのではない。
放心状態だった洋平の意識は、はっきりと覚醒した。あるいは、先ほどの地獄のような光景を見ていたときよりも、明確に。
美咲は足音を立てないように、そっと、ベッドの脇の自分の鞄のところに行った。五味の様子を伺いながら、鞄の中を探る。もちろん音を立てないように。二重底にした鞄の底から、潜めていた物を取り出した。サバイバルナイフ。
刃を小指側にして、美咲はしっかりと右手でナイフを握った。そのまま、満足気に眠っている五味のもとへ行く。
物音は立てない。ゆっくりとした動作。
時間が、やけに長く感じた。けれど、瞬きのように一瞬にも感じた。
「駄目だ!」
声にならない声を、洋平は張り上げた。
「駄目だ! 殺すな! 人殺しなんてしたら、お前の人生は──お前の幸せは……」
心を握り潰される痛みを感じてもなお、洋平は、美咲の幸せを願っていた。
この先、美咲の夫となり、彼を抱く男がいたとしても。自分が夢見ていた美咲との幸せな将来が、自分以外の男のものになったとしても。
それでも、美咲には、幸せになって欲しい……!
人を殺すという行為は、そんな幸せを自ら捨てることだ。自分の人生を完全に壊す行為だ。
洋平は、幾度となく美咲に呼びかけた。声が届かないと分かっていても。彼女を止めることなどできないと分かっていても。
美咲には、幸せになって欲しいから。
美咲が、五味の前で大きくナイフを振り上げた。
洋平は叫び続けた。
「俺のことなんてどうでもいい! 俺を殺されたことなんて恨まなくていい! 悲しまなくてもいい! せめてお前だけには、幸せになって欲しいんだ!」
洋平の声は、美咲には届かない。
時間がゆっくり流れる。美咲の動きが、洋平にはスローモーションのように感じた。まるで、生前の試合でほんの数回だけ経験した、ゾーンのように。
ゆっくりと振り下ろされる美咲の腕。
ナイフが、羽毛布団に届く。勢いのついたナイフの先端は、柔らかい羽毛布団を簡単に突き破り、五味の体を突き刺した!
ドンッ、という鈍い音が鳴った。人の腹に拳を叩き付けたような音。
衝撃で、五味が目を覚ました。
「……? 美咲……?」
五味は、状況が理解できていないようだった。無理もない。ほんの一瞬前まで、幸せの絶頂の中で眠っていたのだから。
美咲が、五味の腹からナイフを引き抜いた。
羽毛布団に、瞬く間に血の染みが広がった。
「あれ……なん……だ……?」
急激な出血のせいで、五味は、横になりながら目眩と貧血に襲われているようだ。まだ、意識はあるが。
美咲は、凍るような冷たい目で、五味を見下ろしていた。彼に媚びる芝居をしていたときとは違う、彼への本心が明確に表れた目。彼女にしては珍しく、感情がはっきりと表に出ていた。
美咲は、口元に薄い笑みを浮かべていた。それは決して、作り笑いではなかった。氷のような、という表現がぴったりと当てはまる、冷たい笑み。見る者の全身に鳥肌を立たせ、恐怖を感じさせる笑み。彼女の整った綺麗な顔が、その笑みの凄みを際立たせていた。美しいからこそ、恐ろしい。
「あんたのとセックス、最低だった。洋平の方が、ずっとよかった」
大声ではない、それでも間違いなく耳に届く、よく通る声。
五味は目を見開いた。血が失われ、貧血から顔色は青くなっている。それでも彼は、美咲の言葉の意味を、はっきりと理解しているようだった。
「下手くそ」
唾でも吐き捨てるような口調で、美咲が言った。
五味は、目元を引きつらせて、泣きそうな顔になっていた。
洋平は、美咲を抱いたことなどない。
美咲が、洋平と比べて五味がどうだったかなど、分かるはずもない。
五味を絶望させるための嘘。絶望しながら死なせるための嘘。
洋平には、美咲の意図が容易に分かった。
言いたいことを言うと、美咲は再びナイフを振り下ろした。衝撃で、五味の体がベッドの上で揺れた。今度はすぐにナイフを引き抜き、またすぐに振り下ろした。
五味の口から血が流れてきた。胃から逆流してきた血だろう。貫かれた羽毛布団から、赤く染まった羽毛が散る。
何度も何度も、美咲はナイフを振り下ろした。その度に、ドンッという、叩き付ける鈍い音が響く。
五味の口から血が吐き出され、目からは光が失われ、明らかに意識がなくなっても、美咲は手を止めなかった。刺し続けた。怒りと恨みと憎しみを込めて、刺し続けた。
美咲の腕が疲労で震え始め、刺す力もなくなった頃には、ベッドや羽毛布団は血でベトベトになっていた。
五味は、もうとっくに死んでいた。




