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研ぎ澄ましている、その目的を知る


 最初は、妙だとしか思わなかった。


 洋平が五味に殺されたことを知っても、美咲には、警察に届ける様子が一向になかったのだ。


 洋平には、美咲の行動の理由がまるで掴めていなかった。


 美咲は五味をいいように言いくるめ、キャリーバックを4つも買わせた。長期旅行にも使えそうな、大きなキャリーバックだ。そんな物を、4つも。服も買わせていた。黒を基調としたシックな色合いの服。夜道を歩くときに目立たなそうな色の服。


 さらに美咲のおかしな行動は続く。咲子に相談して、スポーツジムに通い始めた。


 洋平が知る限り、美咲は積極的に体を鍛えたがるような性格ではない。運動神経だってそれほどいい方ではない。中の中、といったところか。そんな彼女が積極的に運動しようとするところなど、洋平の記憶にはない。


 今の美咲の行動は、洋平にとって、まるで知らない赤の他人のようだった。


 そんな美咲の行動に辻褄が合い始めたのは、12月中旬に差し掛かった頃だった。彼女は街のレジャーショップに1人で足を運び、サバイバルナイフを購入したのだ。しっかりとしたフィンガーガードが付いた、それこそ獣の肉を骨ごと刺し貫けそうなナイフ。


 嫌な予感が洋平の胸中に広がった。死んで体がなくなり、心臓なんてないはずなのに、必要以上に大きな鼓動の音が聞こえてきそうだった。ドクンッ、ドクンッという音が、今はもうない耳元で反響している。


 洋平は、自分が抱いた嫌な予感を必死に振り払おうとした。きっと、新しい趣味の開拓をしているだけだ。美咲は、洋平を失った悲しみを忘れるために、普段の自分とは違うことをしようとしているだけだ。


 そんな、無理があると言っていい理由を、洋平は自分に言い聞かせた。

 それが都合のいい言い訳だと気付くまで、そんなに時間は必要なかった。


 美咲は、夜中の公園を訪れた。五味に買わせた、黒を基調とした服とコートを着て。


 何度か、2人で来たことのある公園。大きな公園で、ボート乗り場もある。


 最後に洋平と美咲がここに来たのは、今年の夏だった。洋平がインターハイの試合を終えて地元に帰ってきた後。夏休み中のデート。公園の中を歩き、ボートに乗り、ベンチで美咲が作った弁当を食べた。


 こんなことになってしまった今にして思えば、なんて幸せな思い出だろう。


 けれど美咲は、洋平との思い出を振り返るためにここに来たのではなかった。


 美咲は肩に掛けたショルダーバックから、金槌を取り出した。公園のボート乗り場に足を運ぶ。


 この公園のボート乗り場は、冬になっても水抜きをしない。


 12月に入りマイナスまで気温が下がると、池に溜まったままの水は凍り付き、人が乗っても割れないほどの分厚い氷となる。


 美咲はそっと、池に足を踏み入れた。彼女が乗っても割れない程度に、池の水は凍り付いていた。


 慎重に、ゆっくりと、美咲は池の中央近くまで足を運んだ。池の水の表面は完全に凍り付いていて、美咲が歩いても割れる気配はなかった。


 美咲は手袋を脱ぎ、再びショルダーバックの中から何かを取り出した。丸形の滑り止め用ゴムがびっしりと付いた、軍手だった。それを手に履くと、その場にしゃがみ込み、足下の氷をコンッコンッと叩いた。氷の厚みを確かめているようだ。


 右手にしっかりと金槌を握る。膝を付いてしゃがんだまま、美咲は、金槌を大きく振りかぶり、氷の上に叩き下ろした。


 氷はガラスとは違う。簡単に粉々には砕けず、ガラスを割ったときのような高い音も鳴らない。ガンガンッという鈍く低い音が、夜の公園に響く。


 今の洋平には、音など届かない。それでも分かる。静まり返った夜の公園にいる美咲には、それほど大きくない氷を割る音が、いやに大きく聞こえているだろう。


 何度か金槌で氷を叩くと、ポチャンと音がして、氷の下の水が顔を出した。


 水面が見える氷の穴を中心に、美咲はその周囲の氷を砕いていった。水面が見える穴を広げてゆく。縦1メートル、横50センチといったところか──それくらいまで穴を広げると、美咲は金槌を振り下ろす手を止めた。


 今まであまり運動をしてこなかった美咲にとっては、この作業はかなりの重労働だったはずだ。息が切れている。氷点下の寒空の下で、美咲の吐く息は白くなっていた。


 美咲が開けた氷の穴──縦1メートル、横50センチくらいの穴。その存在を検知して、洋平の嫌な予感はますます現実味を帯びてきた。


 美咲が五味に買わせたキャリーバックが、ちょうど入りそうなくらいの大きさだ。


 美咲は大きく深呼吸をしながら、息を整えていった。コートを脱いで腰に巻き付け、セーターの腕をまくった。


 この寒空の下で、どうしてコートを脱ぎ、セーターの腕をまくったのか。

 その答えは、洋平の思考の中で簡単に導き出された。


 この公園の池は、基本的には冬でも水抜きをしない。それでも、この池に何かを沈めるつもりで氷に穴を開けたのであれば、その深さも念のため確認する必要がある。


 美咲の行動は、洋平の予想通りだった。彼女は覚悟を決めるように再度大きく深呼吸をすると、金槌を持ったままの右手を氷の穴の中に沈めた。


 水の中に腕を入れた瞬間から、美咲の体がガチガチと震え始めた。それでも彼女は、すぐに水の中から手を抜かず、思い切り伸ばしているであろう腕を水の中で動かした。


 しばらく水の中で腕を動かした後、引き上げた。美咲の腕は、真っ赤になっていた。握った金槌の先端を確認する。水の底に届いていなかったか──池の泥が付着していないかを確認しているのだ。もし泥が付いていたら、美咲の腕+金槌の長さが、そのままこの池の深さということになる。


 金槌の先端には、泥は付いていなかった。つまり、この池には、十分な深さがあるということだ。何かを沈めるための、十分な深さが。


 洋平には、もう、美咲の思惑がはっきりと分かっていた。


 分かりたくはない。できれば、思い違いであって欲しい。けれど、これが思い違いであるなどという都合のいい展開が、待ち受けているはずもない。


 ナイフは、五味を殺すための道具。

 キャリーバックは、五味の死体を詰めるための棺桶。

 この池は、五味の死体をキャリーバックごと沈める墓場。

 スポーツジムに通い始めたのは、五味を刺し殺し、死体を解体し、この池の氷を割って死体を沈める体力をつけるため。


 美咲の行動の理由が、完全に一本の線になった。点と点を結ぶように、はっきりと。


 美咲は、冷え切って真っ赤になった右腕から水を拭き取り、セーターの袖を下ろしてコートを着た。体は相変わらずガタガタと震えている。その反面、彼女の目には、鋭い光が宿っていた。断固たる決意がにじみ出る目。いつもと変わらずほとんど動かない表情の中で、その目だけが、彼女の気持ちを痛いほど指し示していた。


 今の洋平には、体がない。見えず、聞こえず、話せない。それでも洋平は、叫ばずにはいられなかった。生前の感覚をそのままに、大声で美咲に訴えようとした。


「やめろ!

 五味に復讐したいなら、警察にでも突き出せばいい!

 それだけで、あいつの人生には大きな傷が付く!

 それだけで足りないなら、ネットであいつの実名でも晒せばいい!

 それで十分だ!」


 美咲には、幸せな人生を歩んで欲しい。だからこそ洋平は、生前、努力を惜しまなかった。ボクシングで彼女を守れる力を身に付けつつ、必死に勉強して将来の設計を立てようとしていた。


 洋平の努力の根源は、美咲だった。彼女との幸せな未来を思い描くと、いくらでも努力できた。


 美咲に幸せを運べる男になりたかった。


 死んでしまった今、その夢は、もう叶うことはない。


 それならば、せめて、美咲には、自分のことなど忘れて幸せに生きて欲しいと思った。復讐などで犯罪に手を染めて欲しくなかった。五味を警察に突き出して、それで全てを終わりにして、これから、信頼できる男を見つけて欲しかった。


 美咲と幸せになる男が自分でないのは、悲しい。それでも、彼女が幸せになれるのなら、それでいい。


 けれど、美咲は、幸せから大きく道を外れようとしている。もう死んでしまった洋平のために、彼女自身の幸せを放棄するような行動に出ようとしている。


 洋平は、何度も何度も叫んだ。すでに存在しない両腕で彼女の肩を掴み、彼女に自分の気持ちを訴えた。こんな間近でこんなに叫んだら、むしろ言葉が聞き取りにくいだろう。それほどの大声を出しているつもりだった。


 その声が音となり美咲の耳に届くのであれば、聞き取りにくかっただろう。聞き取りにくいが、洋平の気持ちは十分に伝わっただろう。


 声が届くのであれば。


 しかし、届かない。美咲の肩を掴もうとしても洋平には手がなく、彼女に伝える言葉は音にならない。


 死者が生きている者にできることなど、何もない。何も伝えられず、何の力にもなれない。その事実を、嫌というほど思い知らされた。


 美咲は、五味を殺した後の処理に必要な検証を終えると、氷の上を歩き、公園を後にした。体はまだ震えている。表情は、相変わらず動きがない。この寒空の下で、痛みすら感じるほど冷たい水の中に腕を沈めたというのに。顔をしかめる様子もない。


 それでも、その動かない表情の奥には、表現できないほど深く大きな憎悪が渦巻いている。

 憎悪は美咲の視野を狭め、復讐のみに全てを捧げさせている。


 その姿は、まるで、美しい死に神のようですらあった。


 今の洋平は、美咲に何もできない。彼女を止めることも、沈んだ彼女の心を支えることも。

 ただただ、美咲を見ていることしかできなかった。

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