ただひたすらに、狂気を研ぎ澄ます
美咲は息を切らしながら、ランニングマシンの上を走っていた。
先日、髪の毛をショートにしたので、運動中でも邪魔にならない。汗に濡れた髪は額に張り付き、先端から滴が漏れて、美咲の頬を伝っていた。
11月末日。美咲は、市内のスポーツジムで汗を流していた。
時刻は午後7時。
ランニングマシンは、このビルの2階のフロアの窓際にあり、正面にある国道がよく見える。すっかり暗くなった外。国道を、ライトを点けた車が何台も通り過ぎてゆく。
美咲はつい先日、このスポーツジムに入会した。ジムに向けて告げた目的は、体力作り。咲子に告げた目的は、気分転換。そんな嘘を立ち並べて、美咲は、必死に体を鍛えていた。
目的は、当然、五味を殺すため。
「気が滅入っているから、どうにかして発散したいの。それに、洋平が帰ってきたときに、笑顔で迎えられる状態でいたいし」
そんな嘘を並べて咲子にジム入会の相談をしたとき、彼女は快く賛成してくれた。ただ、その表情はどこか疲れ切っていて、同時に、悲しそうでもあった。洋平の行方の手掛かりが未だ掴めないことで、心労が溜まっているのだろう。
美咲は、つい、咲子に本当のことを話しそうになった。彼女の顔を見ながら、口を開きかけた。
だが、洋平のことを言えなかった。言わなかったのではない。言えなかったのだ。洋平がすでに死んでいることを知ったら、咲子はどれだけ悲しむだろう。さらに、咲子からその話を知らされた洋子は、どれだけ絶望するだろう。
それを思うと、言えなかった。
とはいえ、もちろん、もともと言うつもりもなかった。彼女達に事実を告げれば、間違いなく警察に通報し、五味を逮捕させるだろう。そうなれば、彼には、甘い罰しか与えられない。それが許せない。
五味は、絶対に自分の手で殺す。美咲の決意は固かった。だからこうして、五味を殺すために必要な体力をつけるため、スポーツジムに通い始めた。
最低でも、彼の寝込みを襲い、ナイフで滅多刺しにし、その死体を解体し、どこかに捨てられる程度の体力は身に付けなければならない。
五味から洋平の死を知らされてから、美咲は、彼の信用を盤石のものにしつつも、彼を殺す算段を立てていた。休日である一昨日の日曜日は、彼と一緒に市街地に出かけた。
「できればね、季節ごとにあんたと旅行に出かけたいな。2人っきりでどこかの旅館に泊まって、一緒に過ごしたいの。春と夏と秋と冬で格好も持ち物も変えて、季節ごとに思い出を作りたいな」
そんなことを五味に言ったら、彼は嬉々として、キャリーバックを4つも買った。長期旅行にも使えそうな、大きなキャリーバックだ。それらは、今は五味のマンションに保管してある。
そのキャリーバックが、自分の棺桶になるとも知らずに。
季節ごとと言ったのは、季節が4つあるから。つまり、これから美咲が殺す人数分。
シックで綺麗な服を着て、あんたと一緒に歩きたいな。美咲がそう言うと、五味は誇らしげに、美咲に着せる黒を基調とした綺麗な服を買った。
美咲は、五味に対して、ただの一言も「買って」とは言わなかった。ただ、自分の偽りの願望を、甘えるように彼に告げただけだ。それだけで彼は、何でも買ってくれた。
五味にとって、金は親がいくらでもくれるもの。自分が苦労して得た金ではないから、惜しくも何ともないのだろう。美咲の前でいい格好をするためなら、それこそ湯水のように使っても構わないのだ。
五味がくれる物には、価値などない。彼は美咲に何かを与えるために、何の努力も苦労もしていない。
洋平は、毎朝陽が昇る前に起きて新聞配達をし、自分に必要な物を買いつつも決して無駄遣いはせず、美咲へのプレゼントを買う金を貯めていたのだ。
洋平がくれる物なら、たとえそれがメッキに包まれた指輪でも、何にも代え難い宝物となった。
五味がくれる物など、それがどれだけ高価な物でも、道端の石ころに劣る。
なぜ、あれほど優しくて努力家な洋平が、こんなクズに殺されなければならなかったのか。なぜ、洋平を殺しておきながら、このクズは、鼻の下を伸ばして笑っていられるのか。
五味と一緒に過ごす時間。その時間の長さに比例して、美咲が彼に抱く憎悪は膨らんでいった。彼を殺すことに何の躊躇いもなく、また、何を犠牲にしても構わないと思えるようになった。
だから美咲は、こうして努力していた。五味を殺せるなら、どんな努力だって惜しまない。どんな苦痛と引き替えにしても構わない。
頭の中で、考えを巡らせる。五味を殺す体力と腕力が必要だ。だからといって、筋肉質になり過ぎてもいけない。彼の好みから外れない程度の体型を維持しながら、確実に彼を殺せる体力をつけるのだ。
五味を殺す決意を固めてから、美咲は様々な本やネットを検索し、人を刺し殺すために必要な情報を集めた。
刃物であれば簡単に人を殺せると思っていたが、どうやら違うようだ。人間の体には骨があり、それが刃物の侵入を防ぐことがあるという。残酷に、絶望的なほどに滅多刺しにするなら、それなりの体力と腕力が必要だと知った。
使う刃物も慎重に選ぶ必要がある。ドラマや映画では包丁で人を刺し殺すシーンを度々見かけるが、実は、包丁は人を刺し殺す武器としては勝手が悪い。フィンガーガート──刀でいう鍔に当たる部分──がないため、刺した際に包丁の根元で自分の手を傷付ける恐れがあるのだ。
自分が怪我をすることなど怖くないが、怪我のせいで殺し損ねては元も子もない。
五味を殺すために、体のどの部位を鍛える必要があるかも調べた。寝ている五味に思い切り刃物を振り下ろすためには、上腕三頭筋が必要だと知った。美咲は、腕が太くなり過ぎないように注意しながら、そこを鍛えるトレーニングを重点的に行った。
五味を殺す。洋平殺害に関わった他の3人も殺す。自分から洋平を奪った恨みも憎しみも怒りも、全て叩き付ける。大好きな洋平を奪った報いを受けさせる。
まるでそれが人生の目的地であり終着地であるかのように、美咲の心は、その思いだけに埋め尽くされていた。




