悲しみが、怒りになり、狂気に変わる
美咲が洋平の死を知った、翌日。
土曜日。
朝になって、美咲は、ベッドの上で目を覚ました。カーテンの隙間から、日が差し込んできている。
収納チェストの上の目覚まし時計を見ると、午前9時を少し過ぎたところだった。
ベッドの上で、重い体を起こす。寝起きだというのに、頭は、驚くほど冴えていた。
冴えているからこそ、頭の中に、受け入れ難い事実が浮かんでいた。明確に、残酷なほどはっきりと。
洋平が死んだ──殺された。
その事実を知ったとき、信じられなかった。幼い頃からずっと一緒にいて、これからも離れることなどないと思っていた洋平。一生一緒にいるものだと思っていた。洋平が美咲のことを誰よりも好きなのは彼の態度を見れば明らかだったし、美咲も、そんな彼に劣らず彼のことが好きだった。離れることなどないと思っていた。将来は、洋子──洋平の母親も一緒にこの家に引っ越してきて、さらに洋平と美咲の間に子供なんかもできたりして、大家族になるんだろうな。そんな未来図を描いていた。
そんなふうになるのだと、信じて疑わなかった。
そんな未来が、打ち消された。
未来を失った美咲の視界は、真っ暗になった。絶望の色。
五味が、洋平を殺したときの様子を嬉々として語ったことで、洋平の死が事実なのだと思い知らされた。
なんとか適当に五味を言いくるめて、彼の家を後にした。自分の心の中に渦巻いた怒りとも悲しみとも判断のつかない気持ちを持て余して、とにかく走った。体の中の力を振り絞って何かしないと、気が狂いそうだったのだ。
走って、走って、体が限界に達して、道端で吐いた。心の中の気持ちが、涙と吐瀉物になって出ているようだった。
フラフラとした足取りで家に帰ると、咲子──母親にやたらと心配された。彼女には、友達の家に誘われたと予め言っておいた。洋平がいなくなって落ち込んでいる私を、みんなが慰めようとしてくれているんだ、と。
咲子は、美咲の嘘を信じて疑っていないようだった。だからこそ、帰ってきた美咲の様子を見て、驚いていた。
具合が悪くなったから帰ってきた。咲子にはそう説明し、すぐに自分の部屋に行って、ベッドに潜り込んだ。頭から布団を被り、声を押し殺して泣いた。
洋平は殺された。もう、どこにもいない。2度と会えない。その事実を噛み締めるたびに、涙が出て止まらなかった。あれだけ走って、あれだけ吐いて、体は間違いなく疲れ果てていた。それなのに、寝付けなかった。
美咲の意識がようやく薄れてきたのは、もう外も明るくなってきた頃だった。6時か、6時半頃か。ということは、3時間も眠っていないのだ。体が重くだるいのも、当然と言える。
美咲はベッドから降りて、リビングに行った。
咲子はいなかった。仕事に行ったのだろう。
テーブルの上に、書き置きがあった。電子レンジの中におじやが入っていること、可能であれば病院に行くようにということが書いてあった。
食欲などないが、食べておこう。美咲は電子レンジの中におじやが入っていることを確認すると、1分ほど温めた。電子レンジが動いている間に、スプーンと水を用意した。
電子レンジが止まると中からおじやを取り出し、テーブルに座って食べた。
食欲などない。きっと、これからどれだけ時間が経っても、食欲など湧いてこないだろう。正確に言うなら、空腹感は確かにあるのだ。それなのに、食べたいと思えない。このままベッドに戻って、布団を頭から被って、眠ってしまいたい。ベッドから1歩たりとも外に出ないで、朽ち果ててしまいたい。そんな気持ちに支配されていた。
口に運んだおじやは、温かかった。しっかりと出汁を取り、卵も入れてくれて、薄いながらも味がついている。具合が悪くても食べやすいようにと、咲子が気を遣ってくれたのだろう。けれど、旨いとは思えなかった。不味いとさえ思わない。味など感じない。
美咲の具合が悪いとき、洋平は、何を置いても必ず駆け付けてくれた。自分の用事などそっちのけで、ずっと美咲の看病をしてくれた。
だが、今、美咲は、ひとりでおじやを食べている。
おじやを半分ほど残して、美咲は2階の自分の部屋に行った。
洋平は、美咲が具合の悪さを伝えたら、すぐに飛んできてくれた。彼は死んだ──もういないと分かっているのに、来てくれることを期待して、スマートフォンで電話を架けた。
『お架けになった電話は、電波の届かないところにあるか……』
電話の向こうから聞こえてきたのは、無機質なガイダンスの声だった。
五味が、洋平を殺したときの様子を語っていた。洋平のLOOTを使って美咲を呼び出そうとしたところで、彼がスマートフォンを壊したのだ、と。だから、彼が行方不明になってから何度も電話を架けたが、まったく繋がらなかったのだ。
美咲はスマートフォンを手にして、再び1階に降りた。リビングに行き、残りのおじやを口に運ぶ。もともと温かかったおじやは、すっかり冷めていた。
食欲などない。生きる気力もない。生きていたくもない。このまま朽ち果ててしまいたい。それでも美咲は、おじやを口に運び、水で流し込んだ。
自分はまだ、生きなければならない。やるべきことがあるのだ。それまでは死ねない。食べて、寝て、生きなければならない。
洋平の死を知り、それを現実だと受け止めた美咲。その心の中で生まれ、必ずやり遂げると決意された目的。
五味に、洋平を殺した報いを受けさせる。
おじやを食べ切ると、美咲は額を押さえて考え込んだ。
五味に、このまま何事もなかったかのように日常を送らせたりはしない。洋平を殺したのだ。自分にとって何よりも誰よりも大切な人を奪ったのだ。必ず、相応の報いを受けさせる。
それには、どうしたらいい?
五味からさらに明確な証拠となる言葉や物を引き出して、警察に突き出すか?
理不尽な理由で人を殺し、それが明るみに出た時点で、五味の人生は終わるはずだ。未成年である以上公式に顔や名前が公表されることはないが、今の時代のネット社会なら、簡単にあいつの名前や顔は拡散されるだろう。どこに行っても何をしても、後ろ指をさされる人生を送ることになる。
これが1番、無難な方法だろう。
そこまで考えて、美咲は、五味が昨夜話していた、洋平を殺したときの様子を思い出した。
洋平は、最初から最後まで無抵抗だったという。ただ五味達の攻撃を避け、自分からは決して攻撃しなかったそうだ。
なぜ、洋平がまったく抵抗しなかったのか。彼の心情が、美咲には痛いほどよく分かった。
洋平は、恐れていたのだ。自分が抵抗し、五味達に怪我をさせ、それが正当防衛だと認められなかったときに、自分の家族や美咲達に迷惑がかかることを。
この国の法律は、理不尽に他人に危害を加える者には温情を持って更正の余地を与えるのに、自分の身を守ろうとする者には冷たいのだ。
「!!」
そうだ! この国の法律は、五味のようなクズには優しいんだ! 思わす美咲は、目を見開き、拳を握り締めた。
五味の殺人の証拠を掴み、警察に通報すれば、彼は逮捕され、裁かれるだろう。公式に彼の名前は公表されなくとも、ネットで拡散されるだろう。間違いなく、今よりは生きにくくなるはずだ。
だが、それだけだ。
未成年というだけで、五味は、そう遠くない未来に解放されるだろう。形式だけの更正プログラムで、見せかけの更正をし、当たり前のように一般社会に出てくる。洋平の命を奪ったことを反省も後悔もせずに、何食わぬ顔で生きるのだ。
それだけではない。たとえ過去が原因でまともな仕事に就けなくても、彼の家には莫大な財産がある。生活に困ることも不自由することもない。当たり前のように、今の延長のような生活を送るだろう。
つまり、今より多少不自由になっただけの生活を。
殺人を犯した息子を、五味の父親が見捨てるとは考えにくい。たかだが高校に受かったくらいで、マンションを買い与えるような親なのだから。
それじゃあ駄目だ!
美咲は、五味を通報するという考えをかなぐり捨てた。警察や法律では、五味に相応しい報いは受けさせられない!
あいつは、生きていていい人間じゃない!
声に出さずに叫び、同時に、美咲の気持ちが固まった。
そうだ。あいつは、生きていていい人間じゃないんだ! 死ぬべき人間だ!
殺そう。五味が洋平にそうしたように、私が、五味を殺してやる。五味だけじゃなく、洋平の殺害に関わったあの4人全員を、殺してやるんだ! 報いを受けさせるんだ!
その決意は、美咲の中であっさりと固まった。揺らいでいた水が急速に冷凍され、一瞬にして凍り付いたかのように。2度と溶けない氷の固まりとなった。
五味達を殺す。洋平の殺害に関わったあの4人を、皆殺しにする。
ほんの一瞬で固まったその決意は、すぐに、変わることない決定事項となった。
問題は、どうやって殺すかだ。美咲が洋平くらい強ければ、彼等を問題なく殺せるだろう。真正面から、五味達が洋平にそうしたように徹底的に痛めつけ、嬲り殺しにできるだろう。
もちろん、美咲にそんな力はない。真正面から男と戦って圧倒することなど不可能だ。
洋平みたいにボクシングでも始めて、力をつけるか?
その考えを、美咲はあっさりと捨てた。洋平があれほど強くなるまでに、どれだけの時間と努力が必要だったか。まして、洋平と同じだけの努力と時間を要しても、彼ほど強くなれる保証などどこにもない。
何の格闘技も身に付けていない女が男4人を殺せるとしたら……。
考え、案を出す。毒殺はどうだろうか。毒なら、身の回りにある物で作ることは可能だ。昨日のような集まりを行って、全員の食べ物や飲み物に毒を盛れば……。
そうすれば、五味達を、簡単に殺せるだろう。ほんの数秒、あるいはほんの数分ほど苦しみ、あっさりと死ぬだろう。
実にあっさりと。
……毒なんかで、あっさりと殺すの? 洋平を痛めつけ、嬲り殺しにした奴らを?
自分の頭に浮かんだ考えを、自分の心が否定した。何の絶望感も抱かせず、自分の手で殺すという感覚も得られずにあいつ等を殺すのでは、美咲の気が済まなかった。
あいつ等に、憎しみを全て叩き付けて殺したい。何の救いも安らぎもないような絶望的な殺し方をしてやりたい。それこそ、五味の過去も現在も、未来すら奪うような──彼の全てを否定し、絶望させて殺したい。
できることなら、過去に戻って彼の両親を殺してやりたい。できることなら、未来に行って、彼の子供も殺してやりたい。彼の存在を感じさせるような全てを殺してやりたい。
もちろん、どんな力があったとしても、過去や未来に行くことは不可能だ。そんな非現実的な殺し方ができないなら、せめて、絶望の淵に陥れて殺してやりたい。
けれど、女の自分にはそれすら難しい。美咲は歯を食い縛り、拳を握ってテーブルに叩き付けた。ガチャン、とおじやが入っていた器とスプーンが音を立てた。
……いや。
美咲は目を見開いた。
女だからこそ、できることがある。女だからこそ、五味を喜びの絶頂から地獄に叩き落とし、さらに、彼の未来さえ奪う方法がある。
五味の殺し方を決断すると同時に、美咲は理解した。どうして自分は、昨日、洋平のことを聞き出した後も、五味の信頼を失わないようにしたのか、を。どうして、クリスマスまで待って、などと口走ったのか、を。
自分は、無意識のうちに五味を殺したいと思っていたのだ。自分から洋平を奪ったあのクズを、可能な限り絶望的な方法で殺してやりたいと。だから、あんなことを口にしたのだ。これから行うことの伏線のように。
殺してやる。可能な限りの絶望を抱かせて、何の救いもない殺し方をしてやる。
固めた決意。そのための思考。美咲が五味を殺すための手順を考えていると、ふいに、視界が歪んだ。ポタッ、と小さな音がした。それが、2度3度。美咲の涙が、テーブルの上に落ちた音だった。
美咲は涙を拭いた。自分がどうして泣いているのかも、分からないままに。
自分が、深く静かに狂っていると、気付くこともなく。




