-14『追走』
川の流れに沿いながらトンネルのように長細く続く洞窟を歩いていくと、やがて頭上に光が差し込んでいる場所にたどり着いた。
そこで洞窟の空洞は途切れている。
光を頼りに上向きのなだらかな斜面を登ると、ようやく外に繋がる入り口が見えてきた。
なるほど、これでは洞窟の入り口が見つからないわけだ。外に出て周囲を見渡してみると、先日に探した崖の中腹あたりに隠れて入り口が顔を出していた。
洞窟から出たアーシェが身を屈めて遠くを眺める。
臭いを嗅ぐように鼻を動かすと、力強く一方を指し示した。
「あっちね」
「間違いないんだな」
「私を誰だと思っているの」
「疑っちゃいないさ。行こう」
俺は崖の中腹から飛び降り、アーシェが指差した方向へと走ろうとする と、それをアーシェが前に立ちはだかって引き止めた。
「貴方の足じゃ追いつかないわ。けっこう遠くにいるみたい」
「でも、じゃあどうすれば」
「黙ってなさい」
アーシェが言うと、彼女の身体が急に光を纏いはじめる。
以前にアーシェの部屋の前でシエラに見せてもらったマナの光にそっくりだ。それが魔法なのだとわかる。
ぼそりとアーシェは何かを呟くとその発光がさらに輝きを増す。
やがて見えなくなるほどに彼女を覆いつくし、明るさに目が眩む。
「……なっ」
視界が元に戻った時、アーシェが佇んでいたはずの場所にいた『もの』を見て、俺は思わず呆けた声を漏らしてしまっていた。
銀色の毛並み。深淵のように深く黒い瞳。鋭く尖った牙と爪。
獣だ。それもただの獣ではない。まるで犬、いや狼だろうか。
だがはるかに大きく、熊を超えるほどの巨体を持った獣だった。
銀色の毛は艶めかしく陽光を反射して綺麗に輝いている。それを見てアーシェの長髪を思い出し、そこにいる獣が彼女なのだとようやく理解できた。
「私に乗りなさい」
獣から発せられる声も確かにアーシェのものだ。化け物じみた姿に変貌した彼女を見て、しかし俺は、不思議とそれほどの動揺に気をやられることはなかった。
異世界人は人種も様々だし、魔獣と呼ばれる獣の血を引く種族もいる、という話をシエラに聞いていたからだろうか。
すっかり認識が異世界に馴染んでしまっているようだ。
「この姿になると細かい動作が不可能になるわ。一度こうなると簡単にも戻れない。探し物のところまでは連れて行ってあげるから、あとは貴方が捕まえなさい」
「わかった」
俺は頷き、身を伏せた彼女の上に跨って背中の毛にしがみつく。
「行くわよ」と彼女が言うと瞬く間に走り出した。
茂みを掻き分け、風を切り、森の中をものすごい速度で進んでいく。
車のように速く景色が流れる。
激しい揺れの中、俺はどこか懐かしい感覚だった。
どうしてそう思うのだろう。
犬のような獣臭さ。揺り籠のように揺れる感覚。
――知っている。俺はこれを覚えている。
頭の片隅にずっとこびりついていたあの小さな頃の記憶。
山を歩いていたら川に流されて、滝つぼのある洞窟にたどり着いて。
そこで俺は、何かに会わなかったか?
蛍光が満ちる幻想的な光景の中で、何か、とても大きなものに出会わなかっただろうか?
そう、あの時、何かがそこに『居た』のだ。
漠然とした曖昧な記憶の中で、俺はその何かと出会い、そして――。
「そうだ。それで、そこで会った何かに乗って洞窟から出たんだ」
その時の感覚が蘇ってくる。
洞窟から出て、草木を掻き分け、走るより速く駆け抜ける。
まるで、今とそっくり同じのような――。
「見つけたわ」
アーシェの声に気を取り直し、俺は前方へと目をやった。
数十メートルほど先に、一度見逃した魔道具の後姿をようやく見つけた。
相変わらず周囲のマナを吸い取っているのか、周囲には枯れ木や枯れ草が目立ち始めている。
「まずいわよ。闇雲に周囲のマナを吸収しすぎているわ。無茶をしているのね。自分が駆動するのに最低限必要なマナだけでなく、それ以上、まるで自分に貯蓄させるみたいに必要以上のマナを吸収してる」
「もうマナが足りたのに吸い続けてるのか」
「完全な暴走ね。向こうの世界では自然界のマナが枯渇するなんてことはないから、誰にも想像できなかったようね。自立型の魔道具だから、次のマナ不足を危惧して少しでも蓄えようと思考したみたい」
「つまり、このままじゃ止まらないってことか」
「それどころじゃないわ。マナを抱えるにも何にだって容量があるものよ。でも暴走してる魔道具はそんな限界も考えずにマナを吸い込んでいるみたい。このままだといずれ、吸収したマナを抱えきれずに臨界点を迎えることになるわ」
「迎えたらどうなるんだ」
「最悪、爆弾のように爆発する、かしらね」
風船に空気を入れすぎるようなものだろうか。
「じゃあどうにかして停止させないと」
枝や石を踏みつけながらもアーシェが魔道具の背中を追いかけていく。
やがてアーシェのすぐ鼻先くらいの距離にまで魔道具を間近に捉える。
「未然に捕まえれば強制停止できるかもしれない。頼んだわ」
「任せろ」
巨体が故に器用な動きができないアーシェに代わって、彼女に乗った俺が手を伸ばす。追い抜きざまに手が触れそうな距離まで身を寄せた。
もう少しで指先が届く。
もうちょっと。あと少し。
だが魔道具は敵対を察知したのか、俺の手をさらりとかわした。
急な角度に方向転換する。
「くそ、逃した」
「もう、馬鹿!」
アーシェも咄嗟に方向を変える。しかし勢いのついた彼女はどうしても大回りになり、また魔道具との差が開く。
「次は頼むわよ」
「任せろ」
もう一度魔道具に接近し、手を伸ばす。
しかしやはりかわされ、逃げられてしまった。
もう少し。もう少しで捕まえることができる。大騒ぎになる前に始末できる。
振り落とされないようにアーシェにしがみついている手が痛みを訴えている。
毛を掴んだ指の腹が熱くて焼けそうだ。だが、これで手放すわけにはいかない。
もう少しなのだ。
「もう一回だ」
数度の失敗を繰り返し、それでも俺はアーシェに指示を送る。
その指示に、繰り返し方向を変え続ける魔道具に続いてアーシェもまた足の向きを変えさせる。
だが、そんないたちごっこのような追跡を繰り返した何度目かの時、僅かにアーシェが足を滑らせるようにターンを遅らせた。それでもどうにか転げないよう踏ん張らせ、初めて立ち止まる。
「大丈夫か」と俺は声をかけたが、彼女の返答はなかった。
ただひたすらに息が荒い。
走り続けた疲労かと最初は思ったが、ふと、アーシェが変身したときのことを思い出した。
「お前、まさかマナをかなり消費してるんじゃ」
アーシェがこの姿に変わる時、自分の周囲にマナを纏わせていた。
もしこの変身がマナを使うことによる魔法なのだとしたら、マナが薄いこの世界では自分の体内のマナを消費しなければならないことになる。
この魔法がどれだけマナを使うものかはわからないが、彼女は今、自身の生命力をひたすら使い続けているということだ。
その事実を立証させるかのように、アーシェは憔悴して耳や目尻を垂れさせ、踏ん張っていた足を折って膝をつかせた。
「大丈夫なのか。マナを使いすぎて枯渇すると死んじゃうって」
「うるさいわね」
俺の言葉を遮るようにアーシェが言う。のそりと身体を起き上がらせた。
「別に死ぬのは恐くないわ。私の探し物はもう見つかったもの。それに一度は失くしていたはずの命。それを今更貴方に返すだけよ」
「え、それってどういう――」
俺が尋ね返すよりも先に、アーシェは全身の力を込めて大地を蹴った。俺も振り落とされないように必死で掴まる。
「貴方はあのずんぐりむっくりを捕まえればいいの。簡単でしょ」
「む、無茶を言うなっ」
アーシェが加速する。
渾身の全力。必死の走りだ。
俺はしがみついたまま、遠くなってしまった魔道具の姿をどうにか視認した。
よく見ると魔道具の本体は緑色の光を纏いはじめている。
「もう臨界点が近いわ。時間がないわよ」
もう失敗はできない。
これ以上はアーシェの命にも関わりかねない。
絶対に、捕まえる。捕まえてみせる。
魔道具が間近に迫る。
もうアーシェの背から落ちたって構わない。
「いっけえええええええええええええ!」
必ず捕まえてやるんだ。と身体が投げ出される勢いで手を伸ばした。
指の腹が触れる。魔道具の足だ。
掴み、絶対に離さないように引き寄せる。
魔道具は酷い熱を放っていたが、構わない。胸に抱きこんで締め付ける。
「やった。捕まえたぞ!」と俺が叫ぶのと同時だった。
大地を駆けていたアーシェが不意に傾き、俺を乗せたまま崩れ落ちてしまった。
「アーシェ!」
たまらず声をかけるが反応はない。
ただ、走っていた勢いの慣性を殺せない巨体が地面を擦り、やがて崖のように切り立った段差で、俺たちはスキージャンプのように魔道具ごと中空へ跳ね飛ばされてしまっていた。
そこはさっき落ちた場所とほとんど変わらない川べりの崖の上だった。
すぐ真下には水面が広がっている。
このまま落下すれば大怪我は免れるだろう。
だがアーシェは力を使い果たしたのか獣から人間の姿に戻り、気を失っているようだった。
これでは溺れかねない。
いや、それより彼女の枯渇しかけたマナは大丈夫なのだろうか。
不安を抱く暇も余裕もなく、俺はやけくそに、マナ人形と一緒にアーシェの体も抱き寄せ、数メートル下にある川へと落下した。
水面に叩きつけられる衝撃に目を瞑る。
川底が深いおかげで大事には至らなかったが、腕の中に捕まえた魔道具は未だこの瞬間にも暴発しそうなほどに表面を膨張させ始めている。
――しまった。まだマナ人形の動きがとまってない。
俺の腕の中で、マナを吸い続けていた魔道具がついに臨界点に到達した。
丸い躯体を眩いばかりの緑光に輝かせ、激しい振動を繰り返させる。
やがて鉄の軋むような音が聞こえたかと思った瞬間、光の筋が漏れ、ボディを破裂させた。
まさしく爆発とも言える物凄い衝撃が襲う。
壊れた魔道具から目に見えない何かが勢いよくあふれ出し、まるでジェットバスの噴出をゼロ距離で何度も腹に叩き込まれたかのようだった。
容赦ない鈍痛の繰り返しに気が飛びそうになる。
それでも、一緒に川底に沈んでいるアーシェだけは庇おうと、必死になって魔道具を自分の胸の中だけに押さえ込んだ。
――ああ、もう駄目だな。
水中での爆発の中。
息ができずに朦朧として、水面が遠ざかっていくのが見えた。
這い上がることもできず、意識も同時に遠のいていく。
こんな形で終わりを迎えるのは残念だ。
けれど、きっと最悪の事態は避けられただろう。
今回の件でまた中将は怒るだろうか。
両親やふみかさん、他の従業員たちは大丈夫だろうか。
それだけは心配だ。
また俺のせいで迷惑をかけなければいいが。
ふと、シエラやエルナトたちの顔が頭を過ぎる。
――ああ、なんだかんだいって楽しい日々だったな。どうせなら、もっと……。
勢いの激しい川の濁流に飲まれながら、旅館でアルバイトをした短い時間の出来事を走馬灯のように思い浮かべていた。




