-3 『不思議な少女』
雑巾とバケツを片手にロビーの掃除をしていると、ふと女の子が現れた。
小柄で肌は白く、髪も同じくらいに真っ白な、西洋人形のように整った顔立ちをした子だ。
通常、客室に用意されている浴衣はよくある縦に紺色の筋が入った総柄のものだ。多少のデザインの差異はあるもののどこの温泉地でも見かけられる。しかし彼女の羽織っている浴衣は色合いや柄からして見るからに他とは違うようだった。
黒に近い紺色を基調とした生地に白でたくさんの『菖蒲』が描かれている。色調は大人し目で、可愛らしさと一緒にどこか上品さも持ち合わせているようだった。
名を象った菖蒲の柄からして旅館の浴衣なのだろうと思うが、その浴衣は俺が働き始めてから一度も見たことがない。それどころか存在すら知らなかった。
なにか事情があるのだろうか。
幼く小柄ながらも背筋の伸びた彼女の佇まいには、日本の浴衣が古くから着馴染んでいるかのようによく似合っている。
異世界のことは外部には完全機密なため、この旅館に泊まっているということは異世界人ということになる。それにしても外見はいたって普通の人間の子どもっぽい――おそらく小学校高学年くらいだろうか。
「こんにちは」と俺はマニュアルどおりに挨拶をした。
しかし少女は振り向く素振りすら見せずに目の前を通り過ぎていった。
仕事なのだし別に無視されようが構わない。
それに彼女がただ人見知りなだけかもしれない。
だが少女がそのまま素通りして向かう方向が問題だった。
少女はフロントの前を通り、外に繋がる自動ドアへと足を進めていたのだ。
「ちょ、ちょっと待って」と慌てて俺は声をかける。
声に気づいたのか少女はやっと立ち止まり俺へと振り返った。
外見の幼さとは正反対に射抜くような鋭い眼差し。つり上がった目尻。不機嫌さがイヤというほど垣間見える。
面倒にならないようにさっさと要件を済ませよう。と俺はフロントに置かれている用紙の束から一枚を取って駆け寄った。
「出かけるんだったら、この『外出届』にサインをしてもらわないと」
異世界のことを安易に外に漏らさないため、そのあたりの規則はしっかりと作られている。
「勝手な外出は禁止って決まりなんだ。ちゃんと理由を言って、上の人の許可をもらわないと。ここに来たときちゃんと説明があったはずなんだけど聞けてなかったのかな? 特別な理由がない限りは基本、この旅館の中から出ないようにしてね」
俺が声をかけ続けても、少女は耳を傾ける素振りも見せなかった。まるで存在すら認識されていないかのようだ。
どれだけ声をかけてもあまりに黙り込んでいるので、ついつい溜め息まじりに、
「お母さんかお父さんは一緒じゃないの?」
そう尋ねたのが悪手だった。途端に少女が眉をひそめた仏頂面に変わる。
「うるさい」と一言呟いたかと思った瞬間、俺の身体はふわりと宙に浮いていた。
一瞬のことだった。
少女が俺に手を伸ばす。かと思うと、俺は空気の壁みたいな衝撃に押され、気がつけば一メートルほど吹き飛ばされていた。
尻餅をついた痛みでやっと、その少女に殴られたのだとわかった。
いってえ、と大きな呻き声を漏らす。
「なにするんだよ!」と叫んだが、しかし顔を持ち上げたその瞬間には、少女の姿はすでに目の前から消え去っていた。
なにもかもが一瞬過ぎて、俺の脳内はすっかりパンク状態になっていた。
その後すぐに音を聞きつけてやってきたふみかさんに事の顛末を話した。
「ああ、あの子はいいのよ」とふみかさんは言った。
「いいって、どういうことですか。普通は原則出歩いちゃダメなんですよね。異世界人が外を歩いたら情報漏えいのリスクだってあるわけだし」
「そうね。だから異世界の人は簡単な施錠魔法などで旅館外に出れないようにしているわ。向こうの人の協力でね。唯一の外界との玄関口であるここしか外に出る方法はないし、だからこそ監視カメラや常駐スタッフによって警備もされているわ。それこそ蟻の子一匹も通さないってくらいに厳重にね。詳しくは従業員にも言えないけれど、あの二重三重のセキュリティを突破できる者なんて例え向こうの世界の住人でも無理でしょうね。それくらいの厳重さよ」
魔法――異世界人が使う不思議な力。
科学よりも魔法学などが大いに発展している異世界で使われる一般的な力だ。
空気中などに含まれる『マナ』と呼ばれるものを使って使役する。
異世界ではマナが潤沢に溢れているが、俺たちの世界ではマナはほとんど存在しないらしい。そのため、この世界ではごく僅かな力しか発揮できないようだ。
異世界同士が繋がってから、略奪や戦争などが起こっていない理由はまさにこれが原因とも言える。
俺たちが攻め込めば向こうの世界で魔法に叩きのめされ、逆に向こうが攻めてくれば魔法に頼らない俺たちに利がある。偶然にも絶妙な均衡によって現状が保たれているのだ。
「それでもあの子が普通に通ってるってことは……」
「つまり彼女だけは特例ということになっているから、ってことね」
「特例かあ。なんですか、某国のお姫様だとかそういうのですか」
「さあどうかしら。でも、何か探し物をしているんだ、という話は聞いたことがあるけれど」
「探し物、ねえ……異世界に封印された悪魔を倒す聖なる剣とか?」
「ファンタジー小説の読みすぎよ」
笑われた。
「じゃあ、ふみかさんはなんだと思うんですか」
「そうねえ」とふみかさんが眼鏡の位置を正しながら考える。
「徳川埋蔵金、とか?」
「時代劇の見すぎじゃないですか。ていうかネタが古すぎです」
「おばさんで悪かったわね。どうせもうすぐ三十路よ。未婚の生き遅れよ」
「い、いや。そこまでは思ってないですよ」
「じゃあどう思ったのよ」
「……昭和感あるなあ、って」
なんちゃって、とわざとらしくおどけて見せたが、ふみかさんは薄っすらと涙を浮かべながら頬を膨らませ「もういいわよ。ハルくんのおたんちん!」と怒ってどこかに行ってしまった。
冗談とはいえふざけすぎただろうか。反省だ。
だが、去り際の捨て台詞もやはり古いと思ってしまったことは誰のためにも口外しないでおこう。
それにしてもあの女の子が異世界に来てまで探す物とは、いったいどれほど価値のあるものなのだろうか。
気にはなったが詮索はやめておいた。
しがないアルバイトには関係のないことだ。
女の子に吹き飛ばされたという格好悪さも含めて記憶から忘れ去ることにした。