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 -13『湯けむり珍事』

「はあ、極楽だ」


 俺は露天風呂の湯船に肩まで浸り、見渡す限りに散らばった星空を見上げた。


 身内びいきというわけではないが、この旅館の温泉は本当に気持ちがいい。


 源泉掛け流しだがほどよく熱すぎない温度で、温泉成分の僅かなぬめりが肌に吸い付くようで心地よい。十分も浸かっていれば全身の筋肉が和らいで自然と頬まで緩んでしまうこと間違いなしだ。


 急なシエラの言い出しによって予定外の入浴になってしまったが、落ち着いて入る露天風呂はやはり悪くない。至上の極楽である。


 シエラたちが女性風呂に浸かっている間に男性風呂の掃除をするつもりだったのだが、どうして俺まで風呂に入っているのかと言うと、またしてもシエラの我侭によるせいだった。


「せっかくですから、ハルさんも一緒に入りましょうよ」

「ええっ、一緒に?」


 彼女は一体どれだけ抵抗がないのだろうか。

 やましいことは無いと俺を信じているのか、それともただ単に自覚がないのだろうか。


「いやあ、さすがに一緒はちょっと……」と断ろうとした俺に突きつけられたシエラの妥協案が、俺も何故か男性風呂側で一緒に入るというものだった。


 頑固な彼女の願いを断りきれず、俺は言われるがままに入浴しているのだった。


「どうして私も一緒なのよ!」


 竹の敷居の向こうから、アーシェの絶叫とも言える悲壮な声が飛び越えてきた。


 そういえばアーシェは風呂に入るのを嫌がっていた。

 やはり入りたくないのだろう。その必死さは、彼女の普段の冷淡な声調からは考えられないほどだ。


 だがそんな彼女の懸命な拒絶も、純朴な天使によって頑なに拒まれているようだった。


「まあまあ、アーシェさん。入りましょう」

「ちょっと、引っ張らないで!」

「大丈夫ですよ。こうやって肩まで浸かってください。そうすればすぐ慣れますから」

「イヤ。髪が濡れちゃう。放しなさいよ――っていうか貴女、見た目よりも力強いわね」


 激しく温泉の湯を切る音と、うぐぐぐぐ、とアーシェが必死にもがいている声が漏れ聞こえてくる。


 姿は見えないが、きっと柵の向こうでは壮絶な攻防が繰り広げられているのだろう。しかも一糸纏わぬ姿で、だ。まあタオルくらいはつけているかもしれないが。


 美少女二人の肌を密着させた触れあいを妄想すると、長湯で逆上せるより先に頭が熱くなってしまいそうだった。


 と、俺だけだった男性風呂の露天の扉が開く。

 その瞬間、俺は大事なことを忘れているのに気づいた。


「おっまたせー、ハル!」


 快活な口調で露天に飛び込んできたのは、やはりというか、エルナトだった。


 そうなのだ。エルナトも自称・男なのだ。

 つまり入るのは男性風呂なわけで、こうなることは当然の流れになる。


 どこからどう見ても女の子にしか見えないエルナトと一緒に風呂に入るなど、まるで混浴みたいではないか。しかもエルナトはどういうわけか、男だと言っているにも関わらず、タオルは女性のように胸まで隠して巻いていた。


 タオルの裾からエルナトの細く白い片足が艶かしく伸びる。

 足の先まで本当に綺麗で、足指も可愛らしく丸みを帯びている。


 長い髪を纏めて包んだ頭のタオルを押さえながら、つん、とつま先で湯船を触り、それからそっと足を浸し、タオルを巻いたまま腰を落とした。


 タオルのまま入るのはマナー違反だとかそういう常識よりも、俺はどうしてタオルで胸まで隠しているんだと問い詰めた。


 断じて言うが、決して「見たいから隠すな」と言いたい訳ではない。


「ええー、だって」


 肩が触れそうなくらい隣に腰を下ろしたエルナトが、俺の指摘に顔を赤らめる。


「ボクの身体、貧相だし。ガッカリされたらイヤだなあって思って」

「いやいや、別に俺が男の裸を見たくらいで何も思うわけないだろ」


 いくら美少女の顔つきだとしても、あくまで男なのだ。反応などしない。


 たぶん。


 しかし湯気で上気したエルナトの顔や、噴き出た汗が首筋やうなじを流れるのが目に入るたび、謎の色気や艶かしさが溢れ出ている。


 ――やばい。これ以上一緒に入っていると変なことを考えそうだ。


 慌てて立ち上がり、タオルで下半身を隠しながら俺は湯船を出た。


「あれ、もう出ちゃうの? 早いよ」

「べ、べつにいいだろ。お前はゆっくりしてろ」


 理性のためにその場から逃げようと歩き出した瞬間、


「あ、逃げましたっ!」


 というシエラの声が聞こえたかと思うと、俺の真上に浮かんでいたはずの月の光が一瞬にして何かに遮られた。


 何が起こったのかと理解するよりも先に、俺が上を向いた瞬間、途端に降ってきたその何かに押し潰されてしまった。


 石畳の床に背中から倒れこむ。

 冷たい岩肌のごつごつした固い感触を背に感じたのと同時に、腹に柔らかく温かい何かが当たった。


「いってぇ……」


 呻き声を漏らしながらも、何が起こったかと目を見開いて降ってきた物を見る。


 目に入ったのは月光に照らされて銀色に輝く生糸のような細長い髪。それに負けないくらい白みがかった肌色。それを包む白い布。そして薄暗い中に浮かび上がる真っ黒い眼が二つ。


「あ、アーシェ?!」


 なんと二メートル以上はあるであろう柵を飛び越えてきたらしい。

 タオルを一枚巻いただけの姿で、俺の上に跨る格好で落ちてきたのだった。


「ううぅ……」


 アーシェの方も頭を打ったのか、おでこを赤く腫らして若干涙目になっている。まだ俺には気づいていないようだ。


 お互いにタオル一枚同士で組み合っている様子は、どこからどう見てもまずい状況だ。


 腹の上に乗っかったアーシェの体温が薄い布越しに伝わってくる。

 雪のように白く、つるつると艶やかな肌。体型は子どもらしく貧相だが、押し当てられた胸は少し柔らかかった。


 が、そんなことを味わっている場合ではない。

 これは間違いなく、問答無用に殴られるパターンだ。いや、最悪、死だってありえるかもしれない。


 痛みに顔をしかめていたアーシェの目が見開く。

 タオル一枚の俺と目が合うと、彼女は途端に顔を真っ赤にして身体を起こした。


「……っ?!」


 声にならない噛み殺した叫びが彼女の口から漏れる。


「お、俺は何も悪くないぞ。お前が急に降ってきただけで不可抗力だ……あ」


 必死に言い訳をしようとした俺の目の前で、不意にはらりと、アーシェを纏っていたタオルがはだけた。


 白布がめくれ、ゆっくりとずり落ちていく。


 それからは一瞬だった。


「……変態っ!」


 瞬間、眼前にとてつもない速さで何かが迫ってくるのがわかった。


 すっかり見慣れた右ストレートのパンチ。

 もはや避ける努力も無駄だと察し、眼福なはずの少女の裸体を前にして賢者のように悟る。


 ――ああ、死んだな。と。


 半ば自棄になるような気分で覚悟を決め、その拳が腹にねじ込まれて激痛に襲われる瞬間を待った。


 鳩尾に激痛を見舞われ、意識が飛びかけて倒れ込んだ時、アーシェの身体のわき腹辺りに古そうな大きい傷跡を見かけた。幼い容姿には不似合いなその大傷がどうしてか気になって、痛みに気を失うその時までずっと頭にこびりついていた。


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