1-1 『秘密の家業?』
実家の旅館が経営難で潰れたのが五年前の話だ。
過疎が始まった片田舎にある、民宿と見間違うほどにちっぽけな旅館。近隣に観光名所もなく、あるといえば数十年前に偶然湧き出た温泉くらい。
そんな辺鄙な場所を訪れる客などそうそう現れるはずもなく、旅館は寂れ、年に数度の多忙期を除けばほぼほぼ閑古鳥が鳴いているような有様だった。
だから俺の両親は、経営を続けられずに旅館を手放してしまったのだろう。
まだ十歳だった俺は、子どもなりにそんな大人の事情を想像したものだ。
併設されていた自宅ごと旅館と土地を売り払い、俺たち一家は引っ越すことになった。破産寸前にまで追い詰められていた末の苦渋の転居なのだから、さぞや安いボロアパートに引っ越すのだろうと思っていた。
だが実際はどういうわけか普通のアパートで、日常の生活水準も以前と遜色なく、むしろ豪華になっているくらいだった。
何もない田舎の土地がそれほど高く売れたとは思えないし、両親の次の働き口も決まっていない状況なのに、しばらくの間はなに不自由なく暮らすことができていた。
今にしてみれば不思議だが当時はそんなものなのだろうと勝手に納得していた。
幼少の記憶というものは、曖昧な感覚に埋め尽くされることがよくあるものだ。
小さな子どもには難しいことなどわかるはずもなく、頭で理解はできないけれど、記憶として何かが起こったことだけは覚えている。だけどもその記憶は時間の経過によって曖昧になり、記憶の輪郭だけが残って中身が霧散してしまうのだ。
それらの記憶がもしかすると夢だったのではないか。当時はそれを経験せず、いつかに夢を見て、その中で経験したことを『昔の記憶』として誤認してしまっているだけなのではないか。
四才くらいの頃、当時好きだった女の子と町内会の盆踊りに行ったり、保育園の裏にあるお寺の床下にはお化けが住んでいるという噂に怖がっていたり。
そんな記憶に混じって、ひとつ、夢か現実かわからない記憶があった。
――大きな犬と触れ合う夢。
その記憶の中で俺は、自分よりもはるかに大きい犬の背に乗っていた。犬の毛は針のように細く鋭くて、けれど羽毛のように柔らかく、白雪のような綺麗な銀色だった。
だがそんな大きな動物など見たことが無いし、この世界に存在するとも聞いたことがない。いつしか俺はその記憶を、夢で見たものだと思うようになっていた。
そうでもなければ近所の犬と戯れた経験を大袈裟に覚えていたのだろう。
記憶というものは曖昧ですぐに消えてしまう。しかし厄介なもので、何の前触れもなく唐突に蘇ったりすることがある。
夢だと割り切ってすっかり忘却の彼方に消し飛んでいたあの犬の夢を、今になってふと思い出したのは、きっとなんてことない偶然なのだろう。
昨夜、妹の千穂がテレビの動物番組で牧場の平原を走り回る大型犬を見ながら「うちでも飼いたい、飼いたい」と繰り返し喚いていたから、犬のことが耳にこびりついていたのだ。
寝るまでせびり続けていた千穂だったが、翌朝にはけろっと忘れて何も言わず、陽気に鼻歌まじりでランドセルを背負っていた。
「お兄ちゃん、今日もアルバイトなの?」
朝食の後片付けをしていると千穂がたずねてきた。
「ああ。学校が終わったらそのまま向かうから、ちゃんと鍵を持っておけよ。母さんも父さんも今日は遅い日だからな」
「最近はずっとだよね。お兄ちゃんがいないと寂しいな」
「嘘つけ。夜でもリビングで好きなテレビ見れるって喜んでたくせに」
「でもだって……独りぼっちだとたまに、その」
千穂は口をすぼませると、
「怖いんだもん」と両手をもじもじと組ませて呟いた。
まだ小学四年生になったばかりなので仕方がないのかもしれない。少し寝癖のついた黒髪を撫でてやると、途端に目を細めて猫のように喉を鳴らした。
「いいなー。わたしもお兄ちゃんたちの仕事場に行ってみたいなー」
「ダメだって母さんに言われただろ。遊びに来るようなところじゃないんだよ」
「遊びじゃないもん。お迎えだもん」
「お迎えでもダメだ」
「えー、ケチ。なんでダメなの?」と千穂は眉をひそめて頬を膨らませた。
子どもらしく、感情の起伏が忙しなく変わっていくのは見ていて少し面白い。
ぶうたれた顔で髪を結ってほしいとせがまれたので、仕方なく千穂がお気に入りの二つ結びにしてやる。
櫛ではねた寝癖を整えた途端、千穂はさっきの不機嫌を忘れたように、足を弾ませながら「いってきまーす」と家を跳び出していった。