-6 『旅館の醍醐味』
事務所でふみかさんと話してから、一度、千穂を家に帰すために帰宅した。
旅館に戻ってきたのは五時ごろだった。
もうすぐ六月になる今の時期はこの時間でもすっかり真昼の明るさで、カラスが鳴き始めるにはまだ早そうだ。
大浴場から浴衣姿で悦に浸った表情を浮かべながら歩いてくる客たちとすれ違う。堪能してくれて笑顔を浮かべてくれるのならば、従業員としてはもちろん気持ちがいい。
「こんにちはー」とすれ違った家族連れの小人族の子どもに声をかけられ、こんにちは、と俺も笑って返した。
館内が明るい雰囲気で包まれているかのようだ。
気前よく歩いていると、ふと、そんな気分とは到底不似合いな、周りに黒い靄を出していそうな不機嫌顔をぶら下げた少女を見つけた。
この前の暴力少女だ。
前と同じ、客室へ向かう廊下の途中にある休憩室で皮椅子に腰掛けていた。
いつもの外出から戻ってきたばかりだろうか。
どうやら今日も目的のものは見つからずにご機嫌斜めのようだ。
「お前、またそんな顔して」
声をかけると、彼女もやっと俺に気づいたのか顔を持ち上げた。
「今日もダメだったのか」
「何か用なの」
「毎日毎日、お前もよく飽きないな」
「用がないなら帰って」
「……そんなにお前にとって大事なものなのか?」
無視されるような噛み合わない会話でもどうにか食い下がっていると、暴力少女は根気負けしたのかふてくされた顔でそっぽを向いた。
「別に。そんなでもないわよ」
語気に苛立ちが見える。
このままだと全力パンチが飛んでくるのもそう遠くないだろう。だがろくに会話もしてくれずに殴られていた以前よりかは態度が柔らかくなっている気がする。
「アーシェよ」
「え?」
「私の名前。お前って呼ばないで」
急なことで間の抜けた声を上げて首をひねってしまったが、なるほど名前か。
以前に宿泊者名簿で見かけたことはあったが、直接名前を聞くのは初耳だった。
「じゃあよろしくな、アーシェ」
思いのほか嬉しくなって気さくに言った俺に対して、しかしアーシェは途端に眉間のしわを寄せて口を尖らせた。
「アーシェさん、よ」
「は?」
「さんをつけなさいって言ってるの。アーシェさん。ほら」
「いや、アーシェでもいいじゃんか。呼びやすいし」
「貴方より私のほうがずっと長く生きてるのよ。呼び方くらいは敬いの気持ちを入れなさい」
「何だよ急に。お前の方がどう見たって年下みたいじゃねえか。子どもみたいな外見してるくせに。どうせ実年齢は十歳くらいなんだろ」
「そんなわけないでしょ。軽く二十年は生きているわ。私たちの世界ではもう大人よ」
「ま、マジで年上か……」
思ったよりも高い数字が返ってきて驚きを隠せなかった。
アーシェの小柄な体格はどう見ても小学校高学年、あるいは中学生といった風貌だ。顔のあどけなさや声の幼さも相まって、どう見ても年上とは受け取りづらい。
「じゃあなんだ。小人族かなにかだって言うのか。でもここに来てる小人族は大人でももっと小さいけどな」
「私はあんなちんちくりんな種族なんかじゃないわ」
「小人族でもないっていうなら中人族なんてものでもあるのかね」
「だから大人だって言ってるじゃない」
「じゃあ何の種族なのか言ってみろよ」
売り言葉に買い言葉。アーシェが勢いよく突っかかってくるものなので、俺もつい躍起になって言葉の怒気を強めて返してしまっていた。
少し楽しがってる自分もいる。
「もういいわっ」
ふん、とアーシェが鼻を鳴らしたかと思うと、次の瞬間には何かが目の前を覆ったように視界が暗転した。
同時に鼻骨に痛みが走る。
瞬間的に自分が殴られたのだと気づくのに、三度目ともなればそう時間はかからなかった。
殴られた衝撃で脳が揺れるような感覚を味わいながら床に倒れていく中、ぼやけた視界の隅にアーシェの顔が映る。むすっとむくれた表情に、どこか瞳を潤ませていたように見えたのは気のせいか。
さすがに言いすぎだっただろうかと、俺もさすがに反省した。
○
あやめ荘の夕食はすべての客が部屋食で用意される。
これは客が全て異世界人だということもあり、食事の仕方などこちらの世界の文化を知らない人達が多いという理由からだ。そのため担当の仲居が配膳しつつ、何かあった時の応対役として付き添っている。
夕食は基本的に食前酒から始まり、和え物などの前菜、酢の物、焼き魚といった風に順番に提供されていく。
ひとたび食事が始まれば、お品書きに書かれている十品前後の料理を客の食べるペースにあわせて出していかなければならない。食べるのが早い客もいれば遅い客もいて、臨機応変さが求められる忙しい現場だ。
一日で最も仲居さんたちが慌しく駆け回るこの時間は、さながら彼女たちの戦場と言ってもいいだろう。その手伝いをするのが俺の普段の役割だった、はずなのだが、どういうわけか今日は一人での接客を任された。
その相手がよりにもよってあの暴力少女――アーシェなのだ。
「ハルくん、最近彼女と仲がいいみたいじゃない」とふみかさんが言ったせいだった。
アーシェは正式な客ではないから、アルバイトの俺でもいいという判断なのだろうか。
気もそぞろに、夕食を乗せた台車を押してアーシェの部屋を訪れる。
「お食事の用意にきました」と部屋に入った俺を見て、広縁の椅子に腰掛けていたアーシェはあからさまに嫌そうな顔をしてみせた。
怒らせてしまったばかりなのだから仕方がない。
しかしこれも――アルバイトの領分をだいぶ踏み外しているような気もするが――仕事なので、アーシェから漂ってくる「あっちいけ」オーラを気に留めずに配膳の準備を始める。
アーシェも他の客と同じく普通の部屋食だ。
夕食のお品書きに添って並べられた刺身や前菜、和え物などが載ったお膳を運んでいく。
しばらくしてようやく座椅子にやってきたアーシェが脇息に肘を預けながらのっそりと座り込む。値踏みするように料理の一品ずつを眺めると、黙々と箸を手に取り食べ始めた。
「へえ、器用に箸を使うんだな」
箸は異世界には存在しないらしい。
そのためフォークなどの簡単な食器も一緒に置いているのだが、アーシェは随分と器用に使いこなしていた。つい感心してしまう。
アーシェが口を開けて食べ物を頬張るたび、聞き逃しそうなほど小さな声で「あむっ」という声が漏れる。
まるで人形のように表情をなかなか変えさせないが、時折、刺身を食べた時などには僅かに目尻が下がっているようにも和らいでいるようにも見えなくはない。
やはりどの世界でも味覚は共通なのだろう。
美味しいものは美味しい。世界が違えとそれは変わらない。
向こうの世界にも美味しいものがあるのだろうか。
なんてことを想像していると腹の虫が鳴ってしまい、アーシェに怪訝な表情で睨まれてしまった。
○
夕食のお品書きを全て消化し終えたアーシェは、俺が片付けている間、ずっと広縁の腰掛にもたれかかって窓の外を眺めていた。
ずっと彼女を見ていてわかったが、どうやら仏頂面のように見えるのはもともと生まれつきのようだ。切れ長の目や眉がきりりと凛々しく細いせいもあってそう感じるのだろう。
ただ、まるで顔立ちに性格の方が擦り寄ってきたかのように怒りっぽいのは事実で、舌に合わない料理があるとすぐに不満を漏らしていた。
窓枠に肘をついて夜光を浴びるアーシェの姿は、前に休憩所で見た物憂げな様子を思い起こさせた。
彼女が何を考えているのか。
何を思ってこの旅館にいるのか。
俺なんかの知りえるところではないとはわかっているが、どうしてか気になってしまう。
「他にやることないのか? ぼうっとして。なんだったら風呂にでも入ってこればいいのに」
「お風呂はイヤよ」
「どうして?」
「……濡れるのは好きじゃない」
温泉旅館に長く宿泊しているのに温泉が嫌いだなんて、変な話だ。
やはり探し物というものにしか興味がないのだろうか。とはいえ、暇そうな彼女を見ているのも、まるで旅館が退屈なところみたいで面白くない。
「風呂がイヤだったらほかの事をすればいいよ。ここには風呂以外にもラウンジだってマッサージだってある。直接番号を打ち込む古いやつだけどカラオケだってあるし……あ、カラオケって言うのはだな……」
片付けながら言う俺の言葉に、アーシェはまるで興味がなさそうにそっぽを向いていた。
食器やお膳を廊下の配膳台に運び終え、俺は早々にアーシェの部屋から出ようとする。
「じゃあ、もうすぐ他の人が布団を敷きにくるから」と廊下から顔を出して声をかけたところ、急にアーシェが立ち上がった。
こちらに顔を向け、表情は変わらぬまま口を開く。
「この旅館は楽しめると言ったわね」
ああ、と俺が頷く。
すると彼女は腕を組んで何故か偉そうに立ち尽しながら言った。
「それなら私は楽しませてみなさい」と。




