優しさテロリズム
「ねぇ佐山、ニトログリセリンってどこで手に入るかな」
中学から腐れ縁、杉崎にそう尋ねられたのは去年の8月のこと。夏休みも残りわずかとなった日の視聴覚室での会話。空梅雨の仕返しのようにこれでもかと降りしきるバケツ雨の日だった。
「最悪、硝酸カリウムでも、仕方ないんだけど」
意中の人に積年の思いをやっとのことで伝えるがごとく、杉崎は伏し目がちに文節ごとに呼吸を整えるように俺に尋ねる。
「あ?いきなり何言ってんだお前は」
「だって佐山の家って自動車の整備工場でしょう?そういう薬品も何かの間違いで仕入れてないかなと思って」
杉崎のことは中学のころから人とどこかズレた感性を持った女子だと思いながらも大目に見てきた。しかしながら先ほどの問いは、このまま彼女と友人関係を続けてもよいものかの当落選上に俺を追いやった。
どこから突っ込みを入れたものか。こいつは人の実家を悪の秘密結社の下請けか何かと勘違いしているのではなかろうか。そもそも何かの間違いでオイルやエレメントに交じって発注する薬品じゃない。
「車直すためになんでニトログリセリンがいるんだ、何の勘違いだ。ちなみに硝酸カリウムは日本じゃ採れない」
「へぇ、佐山詳しいんだね」
突っ込みどころがわからず多分見当違いの返しをしている。杉崎はおれがまともに取り合ってくれているとこれまた勘違いしたのか、短くなったろうそくに再び明かりが灯るかのように色白でひ弱な表情をぽっと輝かせた。
空気が蒸れている。文化祭準備もいよいよ大詰め。バケツ雨が地面に打ち付ける音に交じって、校舎の至る場所からトンカチがリズム良く打ち鳴らされる音が聞こえる。時折男子生徒のふざけた声、委員長らしい女子の指示が飛び交う中のことだった。
「ちょっとね、爆弾作りたいんだよね」
この声のトーンはバレンタインにチョコブラウニーを作りたいんだよねって時に扱うトーンなのではないだろうか。
「ほんと何言ってんだお前」
「いや、ちょっとね」
「ちょっとで爆弾作らないだろ普通。あれだろ、あのボーンってやつだろ?」
「そうそう、ぼーんってやつ!」
口を”お”の字にしたその表情には物騒な発言とそぐわない愛嬌がある。ただ普段眠そうに半分しか開かない眼をもう幾分か見開いて語る表情からは、冗談で言っているのではない節がくみ取れた。
「とにかくニトロなんてねぇし、硝酸カリウムもその他火薬に使える薬品も今はネットでも規制されてるから手に入らねぇの。裏で手に入れようとしたりしたら捕まるぞお前」
「おぉ、やっぱり詳しいんだね佐山。もしかして作ろうとしたことあるの?心強いなぁ」
「あるかっ、勝手に共犯者みたいにおれを仕立てるな」
去年の8月末。学校全体が文化祭の準備で盛り上がる中、俺と杉崎は確か補修に引っ張り出されて準備に使わない視聴覚室で自習を強いられていた。
俺は数学の赤点。杉崎は出席日数不足。補修理由の違う俺たちが同じ教室にぶち込まれてそれも自習で済ませるなんて、なんと適当な学校だろうと思ったが、この時期教員も文化祭の準備で自分のクラスに手いっぱい。当然といえば当然だった。
このひ弱で華奢なテロリストはおれがそれ以上この話題に乗ってこないことを悟ると、またいつもの眠そうな半開きの目で机のテキストに視線を落とした。
『ねぇ、佐山。ニトログリセリンってどこで手に入るかな』
一週間後の文化祭。まさか杉崎のこの問いを思い出さずにはいられない事件を耳にするとは、当時のおれは夢にも思っていない。
文化祭の前日、入場門のデコレーションを保管していた生徒会倉庫で火災が発生した。
前日も準備に明け暮れていた生徒たちは突然の非常ベルで校庭に避難。火は消防隊を呼ぶ前に学校中の消火器を手にした教員たちの手によって鎮火されたものの、生徒会が準備していた文化祭用の資料が燃え、当然保管していたデコレーションも黒焦げになったそうだ。
『文化祭前日、高校の倉庫で不審火』
『学生を狙った部外者の犯行か』
『過激派組織を崇拝する模倣犯の犯行心理とは』
火災の翌日にはこんな見出しの新聞や地方ニュースが一日中町を駆け巡った。特に目立った事件が起こることもない地方都市、当事者たちにとってはちょっとしたボヤ騒ぎに過ぎなかったが、報道の拡声器を通すと部外者の耳には大事件に聞こえそうなほど、その論調は誇大だった。
文化祭はこのボヤ騒ぎによって一時中止の危機に直面したが、時期を一か月延期し、催しの規模を大幅に縮小自粛する形で執り行われた。俺のクラスではたこ焼き屋台と演劇を企画していたが規模縮小のあおりで演劇は中止。たこ焼き屋台のみの運営となった。
結局、生徒会で保管していた器具の中に発火につながるようなものは見つからなかった。当時生徒会倉庫の周辺で作業していた教員生徒は持ち物検査まで行われ、一部には警察の事情聴取まであったと聞いたが結局原因は解明されることなく今日に至る。火災の真相は闇の中となった。そう、俺たち二人を除いては。
『あれ、お前だよな』
ボヤ騒ぎがあった翌日、おれは杉崎にメッセージアプリで尋ねた。
答えは、既読のマークがついただけ。
直接問い詰めることもできたが、人気のない場所に呼び出すにしたって、どこで誰が聞いているかわからず憚られた。
何より仮に杉崎が犯人だったとして、いやほぼ間違いなく杉崎が犯人だという確信があったわけだが、彼女がしょっ引かれたところで自分にはばつの悪さが残るだけだ。だから深く聞くことはなかったし、その疑問を除いて俺たちの会話は普段通り続いた。
『先生たちはボヤって言ってるけどさ、何か聞こえたんだよなあの時、ボンって。あれは絶対化学部の連中だね。あそこで何か出し物の練習か実験してて失敗したに決まってるぜ』
当時生徒会倉庫の近くで作業していた連れの一人がそう呟いていたのを、おれは聞き逃さなかった。
ただのボヤ騒ぎだけなら俺の食指もそこまで動かなかったかもしれないが、連れの言う”ボン”と、その一週間ほど前に補修で聞いた間抜けな”ぼーん”がつながった瞬間、俺は立ちくらみを起こしそうになった。
『なぁ、杉崎。あれ、絶対お前だよな』
授業中。窓際で眠そうな顔で黒板を見つめる杉崎に再度メッセージを送ってみる。
答えはすぐ、既読。
斜め後ろの席から背中を見つめるしかない位置の俺からはその表情は読み取れないが、確信はあった。
あいつがテロリストだ。
そして、丸一年。
また夏がやってきて、去年と同じように校舎は文化祭準備の音であふれている。
高校最後の文化祭前日。
『火器取扱注意』
『露店責任者は必ず火元のチェックリストの提出を!』
文化祭そのものは去年と同じ予定で開催される見込みであるものの、去年の騒ぎを受けて廊下の至る所には生徒会が注意喚起する張り紙があふれていた。
朱色の墨汁で『注意』とある文字は力強い楷書体で見事な達筆だが、この気合の入りようが逆に可笑しい。
生徒会室が火元だった上に原因究明もできず、メンツ丸つぶれとなった生徒会としてはもう同じ失敗はできないといった悲壮感すら漂ってくるものだった。
さて、今年は何とか数学の赤点を免れ、晴れて自由奔放に夏休みをおう歌した俺としては、文化祭そのものには何の興味もない。そんな俺が目下関心のあることとしてはーー
「おい、ニトログリセリンの分量には気をつけろよ?」
予想だにしない声をかけられた小さな背中はびくんと跳ねたかと思うと、ぶるぶると震えながら大きく肩で息をしている。
「今回はさすがに生徒会倉庫じゃないんだな。爆破するならどこでもいいのか?」
3階の第二理科室。ここも文化祭の準備では使われない。準備のために使われる教室とは程よい距離がある場所かつ、もし火の手なり煙なりが上がれば中庭からすぐに確認できる見通しのよいポジション。
「つけられてーー」
ゆっくりと振り返りながら何か言葉を振り絞ろうとしている色白でひ弱なテロリスト。
手に持っているのは何かの薬品だろうか、白いタブレットがたくさん入った二つ折り財布大のビニール袋。
「つけられてないか、確認したのに、どうして」
普段薄いピンク色のくちびるは遠目に少し青白くなっているように見える。
瞳には今にも飛び出してきそうな涙があふれてスタンバイ。
ひと声かけられてこんなボロボロに怯える乙女がこれから爆弾を仕掛けようというのだから、世界の終末も極まったか。
「確認したのは今日だけだろ、夏休み前に校舎中下見して回ってるのが分かれば見つけるのなんて簡単だ」
緊張の糸が切れたのか観念したのか、杉崎はガクッと肩を落としてその場にへたり込んでしまった。ポロポロと光る粒が落ちるのが見えた。
「今年も、やろうとしたのか?」
今度は既読マークはつかない。代わりにこくりと一回、小さいうなずきが返ってきた。
「なんでだよ、なんでこんなこと」
これだけだ。去年の今日という日から、これ以外に聞くことはない。
「困るの、文化祭、中止にならないと、困るの」
嗚咽まじりに、涙が止まらず、白い肌を紅潮させながら杉崎は息を吐く勢いにのせて言い、むせる。
「困るってお前、だからって爆弾はないだろうよ。また燃えちまうぞ?」
「燃やすつもり、なかった。あんなに燃えちゃうなんて思わなかったのぉ」
やれやれ事情はあるらしいが嗚咽交じりで収集がつかない。場所を隣の準備室に移してまず杉崎を少し落ち着かせた後、聞いた内容をまとめるとこうだ。
まず去年の補修での一幕のあと、ニトログリセリンも硝酸カリウムも、俺が言った通り手に入らなかったらしい。結果杉崎が目を付けたのは水素を閉じ込めたタブレット型の入浴剤だった。
水と混ぜるとと水素ガスが発生するタブレットは少量ならもちろん問題ないが、常軌を逸するほどの量となれば話は別だ。火種があればもちろんガスに引火する。ゴミ袋にこの水素溶液をため、時間が来れば弱い電気が発生する簡単な装置で時限爆弾を作ったという。化学は得意だからと付け加えがあったが、正直笑えない。
本当はちょっとした爆発騒ぎを起こして文化祭の開催が危ないと中止に追い込もうとしたが、火力が思ったより強かったのか、可燃物が多かったのか、はたまた報道が過熱しすぎたのか、自分の予想を超える騒ぎになってしまったのだという。
だから今回は可燃物が少なそうな場所を探していたこと、そして去年の騒ぎで幾分疑いの目があった化学部に近い場所のほうが隠ぺいを図りやすいと考えたことを話し切った。無実でありながらここ一年疑念を向けられてきた化学部員たちがさらに不憫でならない。
俺の感覚からすれば”爆発”を起こす時点でそれくらいの事態は予想がつきそうなものだが、杉崎の感覚ではそうだったのだろう。しかし、これは今回の本質ではない。
「だから杉崎、なんで文化祭したくないんだよ。去年やりすぎたなら、もう懲りたろう」
文化祭なんてやりたくない。自分の都合で強く駄々をこねる度胸なんて、こいつにはないし、変わってはいても気弱な幼馴染にここまでさせる事情が俺にはわからなかった。
「わたしって、友達少ないじゃない?」
「おう、そうだな」
「うちのクラスに早川さん、いるじゃない?」
「おう、いるな」
早川というのは俺たちのクラスの女子生徒で杉崎と同じくひ弱そうでおとなしい、杉崎とある種双子なんじゃないかと思うくらい、珍しく波長の合う子だった。
「うちのクラス、また今年も演劇やるじゃない?」
「おう、やるな」
「早川さん、ヒロインやるじゃない?」
「お、そうだったか?」
「佐山はサボってるから知らないかもだけど、去年もヒロインの予定だったの、早川さん」
まぁ、確かに早川の顔立ちは整っていて清楚な印象だし、ヒロインくらいできそうだなと思うが、俺には話の筋道が見えない。杉崎は続ける。
「佐山は知らないだろうけど、一年生のときもヒロインだったの。早川さん。みんなに早川さんがいいって言われて、断れなくて、しょうがなく引き受けたって」
「去年は置いといても三年連続とはすごいな」
要領を得ない俺の表情に、杉崎は不満げだったが、何食わぬ顔で続けるよう促す。
「一年の文化祭のとき、早川さん練習のときからずっと隠れて一人泣いてた。やりたくないって。本番が終わったあともひどい大根役者だったって男子にからかわれ続けて、あいつのせいで賞が獲れなかったって陰で言われて、しばらくずっと元気がなかったの。わたし、後から知ってずっと早川さんの話を聞いてた」
『どうしよう、来年も選ばれたりなんかしたら』
『もう舞台になんて立てない。立った瞬間なにも話せない』
『また同じ文化祭が来るんだったら、死んでしまいたい』
そして嫌な予感は的中したわけだ。早川は二年連続でヒロインに推薦され、杉崎の前では親友が責任に押しつぶされて毎日泣いている光景が繰り返された。
「わたしみたいに友達いないやつにも優しくしてくれる早川さんが、これ以上一人で傷つくのなんて、見ていられなかった。早川さんのために何かできないかって思ったら、もうこれしかないって。文化祭を無くしてしまおうって」
この世の中には、友を守るためにテロリストになる輩もいるらしい。
「去年、中止じゃなくて延期ってなったときはどうしようかと思ったけど、規模縮小で演劇が無くなってほっとしたの。早川さんと良かったね良かったねって喜んだのにーー」
また今年も不運の大抜擢を受けてしまったというわけか。
「今年で最後だもの。去年と同じように規模が小さくなってくれればいいの、だからーー」
「だからって、現行犯逮捕をさすがの俺でも見逃すと思うか?」
まだ諦めがついていない様子だった杉崎を、少し強めの語気で制すと、小さな肩を一回びくりとさせてテロリストはしゅんとしぼんだ。
とはいえ、教員に彼女を突き出すとか、事件の一連の真相を明らかにして糾弾するとか、そんなことには一貫して興味がない。できることとしてはーー
「お前の、数少ない大事な友達なんだろ?」
月並みなことしか言えないし、できないことばかりってのはわかってはいる。だけど。
「なら、泣いてるのを見て外野で何かするんじゃなくて、今からでも何か言葉をかけてやれよ。1年の終わりから早川の苦しいの知ってるの、お前だけなんじゃないのかよ」
ぶるぶる震えていた杉崎の肩が少しずつ落ち着きを取り戻して、白い肌に咲いた牡丹色の頬がゆっくりと上を向く。
「自分の苦しさをわかってくれる人が近くにいて、わかってくれてるってだけで、マシっていうか違うっていうか、とにかく安心はするんじゃねぇのか」
慣れない言葉と語気を使うと、言葉尻のしまい方がわからなくてまごつく。
「本番の直前まで、手でも握ってやるとかさ」
最後はちと投げやりだった。
それでも何とか杉崎には伝わったらしく、準備室を出るときの杉崎は、まだ頬と鼻と目じりが少し赤かったももの、いつもの眠そうな表情を取り戻していて安心したのを覚えている。
ちなみに犯行に使うはずだった”ブツ”は俺が預かって、準備で出たゴミに紛れ込ませて処分した。
そして何事もなかったように迎えた文化祭の当日。俺たちのクラスはイカ焼きの屋台と演劇を予定通り催した。
演劇の手伝いを何一つしなかったおれは無事当日も戦力外を言い渡され、初めて演劇というものを最初から最後まで客席で観る機会を得た。大根役者の異名をとっていた当のヒロイン早川は、なんのなんの大根などということはない、立派な演技で40分の演目を無事演じ切った。
あくまでも芸術になんの造詣もない素人の目からの批評だが、これを男子が笑いの種にするには幾分物足りない”熱演”だったろう。
そして予想だにしないことに、俺たちのクラスの演劇は全15クラスのエントリーで第三位に入る大健闘を成し遂げてしまったのである。講評ではヒロインの熱演についての評価もあり、舞台に立てばと死ぬと嘆いたトラウマは何だったのかと思うほどの拍子抜け加減だ。
表彰式では早川が賞状に受け取りに壇上に立った。その表情に不安はない。安堵と達成感にあふれた笑顔だった。
最後に、受賞クラス代表インタビューなる粋な計らいがあり、早川はこう答えている。
「舞台が始まる直前まで、怖くて怖くて仕方がなかったんです。心臓が飛び出そうで死んでしまいそうで」
「でも、舞台へ飛び出す最後の瞬間まで、友達が私の手をずっと強く握ってくれていたんです。『大丈夫、私がついてるよ』って」
やれやれそれなら俺も、助演男優賞でも頂きたい気分だな。
end.