第二話『どうか心の片隅に』第三章
犯人を見付けた千夜の決意。
第三章
日曜日、電車で一駅のところにある水族館で風切は待っていた。
「やあ、風切君」
時間ぴったりにやってきた千夜は白いワンピースという清楚な服装。制服とは違うその姿に、風切は鼓動が高鳴るのを感じた。
「おう」
「待った?」
「いや、今来たところだ」
実際は三十分前についていたのである。
「そっか、じゃあ入ろうか」
中に入ると、最初に大小様々な魚が泳ぐ大水槽がある。
薄暗い館内で青い光を放つ水槽は、神秘的な雰囲気を醸し出していた。
「これ好きなんだよね。凄くきれい!」
千夜はそれを見ると目を輝かせる。
「ああ、きれいだよな」
「鮫もいるよ、おっきいねー」
子供のようにはしゃぐ千夜に、風切は小さく笑ってしまう。
「この間の映画思い出すなー。あれは笑っちゃった」
「ゾンビ鮫ハンターな。笑いどころあったか?」
「え、ゾンビ鮫のボスを主人公がチェーンソーでぶった切るところとか最高だったじゃん」
「お、おう、そうか……」
そんな調子で、なかなかロマンチックな雰囲気にはならない二人。
「次はクラゲ見たいなー」
千夜は館内の奥にあるクラゲのコーナーへと駆けていく。
「おーい、走んなって」
「はーい」
千夜がくるりと振り返ると、ワンピースの裾がふわりと広がった。
その後ろには光の中を揺らめくクラゲがいて、どこか不思議な光景に風切は不安になった。
まるで千夜が、同じ次元の生き物ではないようで。
このまま、自分の前から姿を消してしまいそうで……。
風切がその手を掴もうとした時、後ろから「あっ」と声がした。
「ん?」
聞き覚えのある声に千夜がそちらに目をやると、ルカがこちらを見ている。
眼鏡はそのままだが、解かれた長い黒髪がウェーブしている。花柄のワンピースが似合っており、学校で会った時と違う印象だ。
「誰?」
「図書委員の子」
「鈴村ルカです」
ルカはじっとりとした目で二人を見る。
「デートですか? 先輩たちは」
「まあね。君もデートじゃないの? お洒落してるし」
「私の隣に誰か見えますか?」
「いや、相手がお手洗いにでも行ってるのかと」
「私は一人で来たんです」
その態度から察するに、誰かと来ようとしたが断られたとかであろうか、と千夜は推理する。
「あの、海戸先輩」
ルカは真剣な表情で千夜を見る。
「デート中申し訳ないんですが、ちょっといいですか?」
尋ねられ、千夜はちらりと風切の方を向いた。
彼は察したように腹を押さえると、
「俺、腹痛くなってきたからトイレに行ってくる!」
と、駆け出していった。
――空気読めるなあ……。
千夜は肩を竦め、「どうしたの?」と尋ねた。
「海戸先輩は、何のために香川先輩のことを調べてるんですか?」
「ある人に頼まれて、とか?」
そう言いながら、ルカの鋭い視線から目を逸らす。
「自分の意思じゃ、ないんですか?」
「うーん、まあ」
千夜が取り繕うように苦笑すると、ルカは苛立ったように拳を握り締めた。
「香川先輩は、貴女に憧れてました」
「え?」
「海戸先輩の貸し出しカードを見て、凄いって言ってたんです」
「凄い?」
「海戸さんはこんな難しい本を読んでて凄いとか、かっこいいとか、言ってました」
千夜はどう返していいのか分からなかった。
――だから私に、何て言えっていうんだ。
その言葉を飲み込んで、千夜は「そっか」とだけ言った。
「先輩が自分の意思で犯人探しをしてくれてるなら、少しだけ嬉しいと思ってました。――でも、人に頼まれたからだったんですね」
ルカは肩を落とし、
「香川先輩が、かわいそう」
と、言ってから首を振った。
「すみません、先輩を責めるつもりはなかったんです」
「いいよ、気にしないで」
「わ、私、もう行きます。デートの邪魔をしてすみませんでした」
ルカはワンピースの裾を翻し、駆けていった。
千夜は頬を掻き、溜め息をついた。
――憧れてたって言われても……。
「そんな人間じゃないよ、私は」
「もう話、終わったか?」
その声に振り返る。風切が戻ってきたのだ。
「ああ、うん。終わった」
「そっか」
風切は「あ、これ」と言って売店の小袋を千夜に渡す。
「ん、なに?」
「いや、クラゲ好きみてえだから」
開けてみると、クラゲのキーホルダーが入っていた。プラスチック製で青く透き通っており、千夜好みのものだ。
「君も、こういうテクニック持ってたんだね」
「は?」
「いや、ありがとう。大事にするよ」
千夜は微笑み、それをバッグに付けた。
その後はペンギンを見たりイルカショーを見たり、と楽しい時を過ごした。
そして自宅に帰ってきた千夜がソファに座ったのを見透かしたかのように、スマートフォンが着信を告げる。
「あ、おじさんか。もしもし」
気持ちを切り替えた千夜はソファで足を組み、話を聞く。
「被害者の話だけどな、家族は母親と父親のみ。それで中学は……」
「え、結構遠いところに通ってたんだ。つか、中高一貫校じゃん。何でわざわざ晴常に……」
海戸はそこで弓子が中学時代に起こした『問題行動』について語った。
千夜はそれを聞いて気付く。
「だから、『死んでまで迷惑をかけて』だったのか」
全てが、見えてきた気がした。
その夜、千夜は夢を見た。
じっとこちらを見ている少女がいる。
――香川さんだ。
千夜はどこか後ろめたくて目を逸らした。
――私は、水上さんに頼まれて犯人探しをしてるだけなのに。
それでも弓子は、ただ千夜を見つめている。
――香川さんがかわいそう、か……。
ルカの言葉を思い出す。
「あんまりさあ、見ないでよ。私は君のために何かしてるわけじゃないんだ」
突き放すような言葉を口にして、千夜は頭を掻いた。
「誰かのために、何かできるような人間じゃあないんだよ……」
でも……。
――目を、逸らしてはいけない。
水上はそう言った。闇に、飲まれると。
そう、この弓子は千夜の中にある闇だ。
目を逸らしたら、自覚しないまま闇に飲まれる。
千夜は弓子に目をやった。
きっと、助けを求めている人間はこういう目をするのだろう。
――あの時のキスは……。
やっと、気付けた。
――君は、私に……。
千夜は拳を握り締めた。
「大丈夫、この事件は、私が解決するから」
月曜日の放課後、生物室での授業が終わると千夜は平静を装って立ち上がった。
これから自分はきっと恐ろしいものを見ることになるのだろうと思いながら。
「あ、千夜」
風切の声に振り返る。
「ん、何?」
「教室、戻らねえの? 荷物置いてきてるだろ」
千夜はにっこりと笑った。
「先生に質問があるから、先に戻ってて」
「おう」
生物室から生徒たちが出て行くと、千夜は教卓で教科書などをまとめている国本に声をかけた。
「先生、あの……」
「何かね」
「先日使っていたハンカチを返してください。あれは私が香川さんに貸したものです」
国本は一瞬固まった。
だが、ぎこちない笑顔を浮かべ、ポケットからハンカチを取り出す。
「ああ、君のだったのか。弓子に借りていてね……」
千夜はそれを受け取り、息をついた。
「先生が香川さんと愛し合っていたというのは、嘘ですよね」
国本の顔が、歪む。
「何を言っているんだ、私たちは確かに愛し合っていたんだよ。その証拠に……」
「香川さんは、同性愛者だったんです」
千夜はそのまま言葉を続けた。
「中学時代、校内で女子生徒とキスしていたのを教師が見付けて、問題になったそうです」
「それは、中学生の時のことだろう。高校生にもなれば、それが間違いだったと分かる」
「同性愛を間違いと言っていいのかは知りませんが、彼女は私にキスをしました。それが、彼女が今も女性を愛している証拠です。愛し合っていたというのは、先生の嘘か妄想……」
国本は千夜の腕を掴んだ。そして引きずるように準備室へ押し込む。
「わっ!」
床に尻餅をついた千夜を見下ろす国本。
「君に見せてあげよう。私と弓子の愛の結晶を」
準備室にはホルマリン漬けの生物標本が置いてある。
国本はその一つを取ると、千夜に見えるよう目の高さに下げた。
――胎児だ……。
彼が弓子の腹を裂いたのは、胎児を取り出すためだったのだ。
――やっぱり、そうだったのか。
「この子が、私と弓子の愛の証だ!」
国本は狂ったように笑う。
「彼女はこの子を堕ろすと言ったから殺した。そして、この子を『保存』した。――いやいや、しかし何故彼女が私を拒んだのかと思ったが、そうか、君が彼女を、唆したのか」
「唆した?」
千夜は国本を睨み付ける。
「彼女は、助けを求めていたんです! 貴方に犯されて妊娠しても、両親には言えない。一人で抱え込んで……、それが、あのキスだったんだ」
今思えば、弓子はすがるような目をしていた。助けを求めていたのだ、他ならぬ自分が憧憬を覚えた千夜に。
「それこそ、妄想だ!」
「確かに、私の想像です。でも、貴方が香川さんを殺したのは、紛れもない事実ですよ」
千夜はポケットからスマートフォンを取り出した。それは録音状態になっている。
「確かに言いましたよね、殺したと」
「この……」
国本はホルマリン漬けを置くと、千夜の胸倉を掴んだ。
「きゃっ!」
「千夜!」
準備室のドアが開く。
入ってきた風切が、国本を千夜から引き離すと殴り付けた。
「うっ」
国本は棚に体を打ち付け、呻き声を上げる。
風切は千夜の手を掴んだ。
「大丈夫か!」
「うん、ありがと」
千夜は微笑む。
「うう……、私と、弓子は……」
国本の声に、はっとする二人。
だが、彼は項垂れたままただ呟く。
「愛し合っていたんだ。弓子は私に微笑みかけて、訊いたんだ。愛とは何かと……。それは、私に愛情を教えてほしかったからだろう……」
「ええ、教えて欲しかったんでしょうね。生物学的に、自分が抱く愛が間違っていたのか」
千夜は、答えた。
その後、警察に連絡した千夜は署で話を聞かれた。
彼女はただ、見て聞いたことを話した。――水上のこと以外。
千夜が解放された時、外は暗くなりかけていた。風切も別室で話を聞かれていたが、さすがに千夜ほど長くはかからず、待っているとメールがあった。
しかし、千夜は先に帰っておいてくれと返信した。
「やれやれ、図らずも名探偵になっちゃった」
千夜が一人で呟き、警察署を出ると一台の車が止まった。
「やあ、家まで送るよ」
「お願いします」
疲れていた千夜は、殺人鬼の申し出を断らなかった。
「でも、大丈夫なんですか? 現代の切り裂きジャックがこんなところに来て」
「はは、大丈夫。証拠とか残してないから」
「それならいいんですけど」
水上は運転をしながら話し始める。
「事件を解決した気分はどうだい?」
「不思議な感じです。まるで……」
千夜は胸を押さえる。
「犯人の殺意と狂気が、私の中に流れ込んでくるような感覚でした」
「そうだ、やっぱり君には素質がある」
「素質?」
「人を殺す――殺人鬼になる素質だよ」
丁度車が赤信号で止まった。
水上は千夜の方を向き、笑う。
「君は今、蛹なんだよ。これからたくさんの事件に関わっていき、どんどん殺意と狂気を吸収していくんだ。そしていつか……」
信号が青になり、水上は前を向いた。
「殺人鬼として、羽化すればいい」
「殺したい人間はいますよ、確かに」
千夜は事も無げに言う。
「でも私はまだ、この気持ちをどうすればいいのか分からない。――だから貴方の生き様を見せてください。人を殺す者の末路が、どんなものになるのか」
水上は「ははは」と笑った。
「ああ、存分に見てくれ。そしてどうか心の片隅に、俺の殺意と狂気を留めておいてくれ」
千夜は黙って頷く。
「さあ、ついた」
車が止まる。もう千夜のマンションに着いていた。
「これからも、君の活躍に期待しているよ」
降りようとした千夜に、水上は微笑みかけた。