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【短編集】星を手に入れるまで

LOVEへのスタートライン

作者: Tomokazu

 

【1】



 幼い自分が、真っ暗な海の中に浮いていた。


 ふと見れば、弦状のものが絡みついて、手足の自由を奪っている。それに気づいた途端、猛烈な恐怖が襲った。それらを引きちぎり、海の中を泳ぐ。前方に、背中を向けた両親の姿があった。彼女は両手で両親の手を片方ずつ掴んだ。


「ねえパパ、ママ、お顔見せて」


 そうお願いしても、両親は顔を背けたまま、がらんとした廊下を歩いている。彼女は手を引かれながら、早足で両親についていった。ふいに手が離れる。ふたりは、目の前の扉を開けて中に入り、娘を待つことなくそれを閉めてしまった。


「パパ、ママ?」


 思いきり背伸びをしてドアノブを握り、扉を開ける。部屋を覗きこんでまず飛び込んできたのは、ベッドで裸で抱き合う両親の姿だった。母が父の上に跨り、しなやかに身体をくねらせながら何かを囁いている。しかし、何を言っているのかは分からない。


「ねえ、ふたりとも何やってるの? 私も混ぜて」


 しかし、部屋に一歩足を踏み入れた矢先、そこに両親の姿は消えていた。あれ――、と後ろを振り返ると、真っ黒な空間の向こうに、再び服をまとった両親が、穏やかな微笑みを浮かべながらこちらを見ていた。


「おいで」

 と、父が手を差し伸べる。


「うんっ」

 と彼女は弾むように応えて、父と同じように腕を伸ばし、彼らに向かって一歩踏み出した。しかし、その瞬間、両親の姿がすうっ――と後ろに下がった。


(あれ――?)


 もう一歩前に出る。両親の姿がまたその分下がる。どれだけ歩いても、彼女は両親に追いつくことができなかった。


「待ってよぉ……!」


 彼女はとうとう泣き出してしまった。しかし、両親は穏やかな笑みをたたえたまま、その姿を消してしまった。


 後には何もない、真っ暗な空間に、ひとりで彼女はうずくまっていた。ひとりぼっちの寂しさをその胸に抱えながら――。



――



「はっ」


 鳥須 真綾は布団ごと上体を起こした。ふいに、つぅ――と目から涙の筋がこぼれ落ちた。


(悲しい夢を見ていたみたい……)


 真綾は目頭に指を当てて涙を拭い、呆然と辺りを見回した。いつもと変わらぬ自室の風景に、窓から差し込む朝日が眩しい。


 ふいにコンコン、とノックの音がした。


「真綾、起きてる?」


 声がして扉が開く。母である愛稀が顔を出した。夢の頃よりはいくばくか老けてしまったが、それでもその美貌は未だ健在だ。真綾はそのことを嬉しく思う反面、なぜか心のどこかで寂しい気もしてしまう。


「あれ、真綾泣いてる……?」


 母は少し驚いた顔を浮かべた。真綾は緩く首を横に振った。


「欠伸しただけ」


「そ。早く起きてね。もう朝ご飯できてるよ。今日は新たな門出の日なんだから、しゃきっとしないとね」


 母はにっこりと微笑んだ。そして扉を閉め、階段を降りてゆく。


 真綾はぶんぶんとかぶりを振った。新たな1日に頭を切り替えようと思った。母の言う通り、今日は新たな門出の日なのだ。


 先ほどの夢は、幼い頃の記憶が交錯して見せたものだということを、真綾本人も理解していた。両親に対して抱いているらしいコンプレックスにも、この歳になれば気づいてくるものだ。それは両親が悪いわけではなく、真綾自身がふたりを羨望するあまり心をこじらせてしまった結果だった。同じ家族とはいえど、夫婦と子供との関係はまるで違うということを、彼女は子供の頃から嫌というほど思い知らされていた。


(今までの自分とはオサラバしなきゃ! だってもう私、子供じゃない。今日から大学生なんだから)


 真綾は自分に言い聞かせた。ベッドを降り、部屋を出て、1階のダイニングルームへと向かった。


 テーブルには、すでに父親の凜がいて、新聞を片手にコーヒーを飲んでいた。真綾の「おはよう」という挨拶に、彼も「おはよう」と返す。彼女は父の向かいの席に座り、彼に向かってニタッと笑顔を浮かべた。


「パパ?」


「――どうした。今日はいつになく上機嫌だな」


 父が問いかける。真綾は表情を崩さずに答えた。


「嬉しいんだもん。だって、やっと夢のスタートラインに立てたんだよ」


「夢?」

 と、父はさらに訊き返した。


「私、パパのような研究者になるのが夢だったの」

 と、真綾は言う。彼女は子供の時分より、分子生物学の専門家として働く父のようになりたくて、一生懸命勉強をしてきた。大学受験を乗り越え、父が教授を務める国立大学とまではいかなかったが、それなりの学力レベルのある公立大学に無事合格することができた。今日がその、晴れての大学生活の1日目というわけだ。


「ああ――そうだったね。でも、研究の道は大変だぞ? だから、大学では色んな勉強をして、色んな可能性を模索するのがいいよ」


 父は真綾の言葉を受けて、そう言った。


「もちろんそのつもり。でも、夢を諦めるつもりはないよ」


「まあ、頑張ってみなさい」


 父は再び新聞へと顔を戻した。真綾はフォークとナイフを手に取り、朝食に手をつけ始めた。今朝のメニューはトーストにスクランブルエッグにサラダ。おかしいな――と真綾は直感的に思った。


「ママ、ウインナー忘れてる!」


 真綾は大きな声で言った。「あっ、いけない」とキッチンから声がして、愛稀が慌てて小皿にウインナーを入れて持ってきた。


「オーブンで温めてたのすっかり忘れてたわ。――でもどうして気づいたの? 真綾って、前からどうしてこんなこと分かるの? みたいなことによく気づくわよね」


「見えちゃうんだから、仕方ないでしょ」

 と、真綾は言う。彼女は、自分には不思議な力があるようだと、幼い頃より気づいていた。彼女は何かに触れた時、突発的にそのものにまつわる背景――過去に起こった出来事が目に見えることがある。今回も、ナイフとフォークに手を触れただけで、オーブンに忘れ去られたウインナーの存在が目に浮かび上がってきたのだ。


「研究者より、探偵になった方がいいんじゃないのぉ?」


「変なこと言わないでよ……」


 母の茶化すような言葉に、真綾は憮然とした様子で返した。


「ま、冗談はともかく――真綾が教えてくれて助かったわ。忘れられたままじゃ、ウインナーも可哀そうだもんね」


 母はそう言って、ウインナーを取り箸で掴み、真綾のプレートに置いた。



【2】



 講堂での新入生たちの式典の後は、学科ごとに分かれ、先生たちの顔見せとガイダンスが行われることになっていた。真綾の所属する理学部生物学科のガイダンスは、理学部棟の2階の講義室で行われた。先生方の自己紹介や、履修登録の方法など学生生活の簡単な説明があった後、昼休みの時間には解散となった。


 真綾は新入生、在学生入り混じるキャンパスを歩いていた。この度真綾と同じ大学に晴れて通うこととなった友人と、正門前の噴水で待ち合わせをしている。やがて、噴水の場所が見えてきた。友人はいるかと見渡してみたが、人が多すぎて分からない。ともかく、待ち合わせ場所に着こうと、より歩調を速めようとした時――、


 足元に、黒い革製の財布が落ちているのが見えた。


「……あら?」


 真綾はそれを拾い上げる。例によって、持ち主と思われる男の姿が、眼前に浮かび上がってきた。きょろきょろと辺りを見渡し、ブレザー姿の男の後ろ姿に声をかけた。


「あの……!」


 男は立ち止まり、こちらを振り返る。長身で顔立ちの整った男だった。


「これ、落としませんでした?」


 男はブレザーのポケットを探って、はっという顔をした。


「落としていたみたいだ。ありがとう」


 男は真綾ににっこりと微笑んだ。真綾は胸がどきりとした。


「君、新入生?」


「あ、はい。先輩ですよね?」


「まあ、そんなところかな」


 穏やかな笑顔に真綾の鼓動は速くなる。こんな気持ちになったのは初めてだった。


「財布を拾ってくれたお礼を何かしたいな――。そうだ、キャンパスの案内という意味も兼ねて、学食でお昼ご飯でもおごらせてくれないか。まだ来たばっかりで学内のこともよく知らないだろう」


「え、でも――」


 真綾は口ごもった。どうしよう――という思いが頭をよぎる。決してこの申し出に悪い気はしなかった。けれど、財布を拾ったくらいで、逆に申し訳ない気もする。それに、すでに先約があるのだった。


「マヤー?」


 ふいに真綾の後ろで声がした。マヤーとは、親友が自分を呼ぶ時の愛称だ。振り返ると案の定、鶴洲 愛実が頬を少し膨らませながら立っている。


「アミー……」


 真綾も愛実のことをいつも通りの愛称で呼んだ。


「おまたせ」

 と、愛実はなぜかぶっきらぼうに言った。


「そう――実は私、友達と待ち合わせしてたんです」


 真綾は男に向き直って言った。


「そうか、仕方ないね。また縁があったら会おう」


 彼はそして、それじゃあね――と、手を挙げて去っていった。


「さっきの人は誰?」

 と、愛実が訊いてくる。


「たった今知り合った人だよ」


 相手の名前を聞いておけばよかったな――と思う。自分の名も相手に伝えられなかった。真綾は少し残念な気がした。


「マヤー。今日、私たちの入学祝いがあるの、忘れてないよね?」


 唐突に愛実の問いに、真綾は答えた。


「もちろん。今夜でしょ」


「分かってりゃいいの――」


 愛実は唇を尖らせながら言う。


「てかアミー、何で怒ってんの?」


「べっつにー」


 愛実はそう答えると、さっさと歩きだす。真綾は首を傾げた。彼女とは幼い頃からの付き合いだが、未だによく分からないところがあった。



――



 真綾と愛実の大学進学記念パーティーは、彼女らの共通の友人、高島 陽一の家で行われた。


 陽一は高校2年生。真綾や愛実とは2才違いである。母は大女優の高島アイラであるが、彼女は撮影やら何やらで家を空けることが多く、そんな時は陽一が豪邸でひとり過ごすことになるのだった。


 この日も陽一の母親は、ロケで遠方に行っていた。3人だけのささやかなパーティーだ。


 ジュースで乾杯をし、それぞれがスーパーで買ってきたりして持ち寄った料理を食べる。盛り上がったというほどではないが、互いに旧知の間柄であり、和やかに会は進んだ。


「そろそろ今日のメインを出そうかな」


 パーティーの途中で、ふいに陽一が言った。


「メイン?」

 と、真綾は訊く。陽一は得意顔で答えた。


「今日のために、ふたりには内緒で用意していたものがあるんだ」


「えっ、本当? なになに?」

 と、愛実。


「ちょっと待ってな」

 と言って、陽一は部屋を出ていった。しばらくして戻ってきた彼がその手に抱えてきたものは、特大のホールケーキだった。


「うわー、でっかい!」

 と、愛実ははしゃいだ様子で言った。


「だろ? 特別に作ってもらったんだ。どうだい、真綾ちゃん?」


 陽一は真綾の方を見た。彼女も喜んでくれると思ったのだろう。しかし、真綾は頬杖をついてひとこと言った。


「――子供」


「えっ……?」


 愛実が気の抜けたような声をあげた。真綾は続けて言った。


「私たち、もう大学生だよ。ケーキなんて子供っぽいよ」


「マヤー、そんなことないよ。それに、せっかくよーちゃんが用意してくれたのに……」


 愛実が嗜めるように言う。しかし、「いいよいいよ」と、陽一は快活に言った。


「そっか、子供っぽかったか。今度から気をつけるよ。でもごめんね? 今日はこれで我慢してね」


 へらへらと笑いながら、陽一は包丁でケーキを切り分け始めた。


(ガキっぽい――)


 その顔を眺めながら、真綾は思った。どうやら陽一は、以前からずっと自分に好意を持ってくれているらしい。けれど、友達としてはいいけど男性としては見れないな――と真綾は思ってしまうのだった。ふと、昼間に出逢った男性のことが思い起こされる。爽やかで大人の風格がある男性だった。あんな人と仲良くなりたいものだと、真綾は内心思った。


「てか、マヤー何で怒ってんの?」


「怒ってないし」


 ふたりは、昼間のようなやりとりを、逆の立場で行った。



【3】



 男性との再会は、意外に早く訪れた。


 授業の初日、2限目の生物科学序論の講義が終わり、真綾は昼休みのキャンパスを歩いていた。1限目の授業はガイダンスのみにとどまったが、2限目ではきちんと講義を行ってくれた。面白い授業になりそうだと期待に胸を膨らませながら、真綾が向かっていたのは例の噴水の前だった。それはもちろん、彼とまた会えるかもと思ったためである。


 2匹目のドジョウはいない――などという言葉が頭をもたげたものの、身体は何気にその方へと向いている。普段は合理主義で、無駄なことはしたくないと思う彼女だが、今回に限って妙にそんな期待に動かされてしまうのだった。


 そして、その期待は裏切られることはなかった。


 噴水前に、例の男性が立っていた。見つけた瞬間、真綾の胸がずきりとした。まさか本当にいるなんて――。会えることを願っていたくせに、声をかけようかどうしようかと戸惑ってしまう。真綾は意を決して、彼に声をかけた。


「あ、あ、あの……こんにちは……」


 自分でも変にぎこちないと思った。けれど、男性は真綾を見て、目と口を大きく開き、ああ――と満面の笑みを見せた。


「君はあの時の。奇遇だね。声をかけてくれて嬉しいよ。どうしてここに?」


 気さくな反応に真綾の心のつかえも取れ、

「たまたま通りかかったんです」

 というような嘘もするりと出るようになった。


「そっか。実は僕もなんだ。――よかったらお昼ご飯でも一緒にどうだい?」


「ぜひ」


 真綾はすぐに答えた。前回は愛実との先約があったが、今回は何もない。


「決まりだね。どこで食べるかは僕が選んでいいかな。いい店を知ってるんだ」


「もちろん」


 真綾は答えた。男性が前方に指をさして、じゃあ行こうか、と促す。彼女はそれに従った。



――



 訪れたのは、大学通りを少し外れたところにあるお洒落な洋食屋だった。お昼時だというのに学生は少なかった。メニューを見ても、さほど高いというわけでもないのに、不思議なものだと真綾は思った。


 男の名は山崎 拓也といって、経済学部に通っているらしい。真綾も自分の名前と所属を言った。


「再生医療とか、がん研究とか、色々注目されているよね。それ系のベンチャー企業も色々と立ちあがっている。まさに今、花型の分野だよ」

 と山崎は言った。真綾の勉強している生命科学の分野について、結構詳しいようだ。専門の分野が違うのに――と、真綾は驚いた。


 彼が勧めるままに頼んだビーフカツも美味しかった。女性にも食べやすいサイズで、量を持て余すこともない。相手を見越した的確なチョイスに、これが大人なのかと真綾は感心せざるを得なかった。


「――ところで、今付き合っている人はいるの?」


 料理を食べている時、突然山崎は尋ねてきた。


「えっ……? どうしてですか」

 と、真綾は尋ね返すと山崎は、

「大した話じゃないよ。ちょっと興味があって訊いてみただけだ」

 と言って苦笑いを浮かべた。


「――いません。というか、今まで男性と付き合ったこともありません」


 真綾はあっさりと答えた。


「本当かい? 意外だな……」


 驚いたというよりは、呆気に取られたような口調で山崎は言った。


「本当ですよ?」


 真綾はさらに答えた。嘘などつく理由はなかった。


 今から思えば、これまで男性にデートに誘われたことは幾度もあった。けれども、それと気づくこともなく、すべて断ってきたのだった。そのくらい、これまでの彼女は恋愛というものに興味がなかった。その理由は2つあった。ひとつは、研究者になりたいと願って勉強を続けていた彼女には、そんな余裕などなかったということ。そしてもうひとつは、自身が理想の男性を崇める父を超えると思える人がいなかったことだ。


(ただひとり、例外はいたけどね――)


 真綾は心の中で自虐気味に呟いた。その例外というのが、高島 陽一だった。彼は中学時代から今に至るまで、恋愛感情に疎い彼女でさえもはっきり分かるくらい、あからさまなアプローチを続けてきたのだった。しかし、むろん彼女は、陽一を男とは見ていない。むしろ常にキャンキャンと懐いてくる子犬のようで、適当にあしらっていればどうにかなる存在だと思っていた。


 とりわけ、目の前の男性と比べればなおのことだわ――と、真綾は思った。陽一に限ったことではない。山崎は他の男子たちにはない大人っぽさを全身に纏っている。


「……山崎さんは?」


 真綾は彼の方をじっと見て言った。


「何が?」


「彼女とか」


 ふん――と山崎は鼻で息をつき、しばし間を置いた後、真綾の目を見て言った。


「残念ながら、僕もいないよ。さすがに恋愛未経験ってワケじゃないけどね」


 その答えに、真綾は妙に安心するのを覚えた。真綾は合理的に考えて、この感情がどういうものなのか、自分なりに答えを見出していた。


(やっぱり私、この人に惹かれているのかも――)



【4】



 それから、真綾はしばしば山崎と会うようになっていた。


 一緒に食事を食べに行ったり、カラオケやビリヤードなどで遊んでくることもあった。家族以外の異性とふたりきりで過ごすのは初めての経験だったが、こんなに楽しいものだったのかと真綾は思った。


 交際費は基本的に山崎が払ってくれた。男女関わらず、ワリカンが当たり前の真綾の世代にとっては、このことも新鮮で、かつ頼もしく映った。しかし、さすがに払ってもらいっぱなしでは申し訳ないと、真綾は週3で塾のアルバイトを始めた。昼間は大学、夜はバイトかデートと、彼女は忙しくも充実した日々を送っていた。


「最近、帰りが遅いね。よっぽど大学生活が楽しいの?」


 ある日、母がそんなことを言った。


「まあね」

 と、真綾は返したものの、よく男性と会っているとは言いづらかった。両親に打ち明けるのは、まだ先のことになりそうだ。



――



「前から気になっていたことがあるんだ」


 夕食をとりに訪れたレストランで、山崎はふいに切り出した。


「え、何ですか?」


 真綾はカルボナーラを口に運ぶのをやめ、訊き返した。


「はじめて君と逢った時のことだよ。君は財布を落としたのがどうして僕だと分かったんだい」


「……え?」


 真綾は一瞬どきりとした。山崎は言葉を続けた。


「いや、大した話じゃないんだよ。ただ、少し気になっていたんだ。あの時、大勢の人がいたはずだ。そんな状況で、ピンポイントで僕を呼びかけられたことが、少し不思議に思えたんだ」


「えっと……」


 真綾は返答に窮した。正直に答えてしまうのは、少々まずい気がした。予感ではなく、経験則に基づいた判断だ。これまで、よっぽど近しい相手を除いて、自分の能力をむやみに他者に伝えることは避けていた。言ったところで馬鹿にされるか、気味悪がられるかのどちらかであったからだ。


 でも、言ってしまいたい――真綾はそんな気持ちにもなっていた。山崎に対して隠しごとはしたくなかった。それに、彼なら受け入れてくれるような気もする。待て、その考えは危険だ――と別の自分が警告する。しかし、彼女は自らその思考を押し返し、頭の片隅に追い込んだ。


「――見えたんです。あの財布を掴んだ時」


 真綾は正直に答えることにした。


「何が」


「あなたの面影が」


「……まさか」


「本当なんです。私、小さい頃から少し特殊な力をもっているようで、何かに触れると、その物に携わった人の過去が見えるんです。毎回見えるわけじゃありません。でも、時折、脳裏に映し出されるんです」


「それ、本当なのかい?」


「信じてくれないでしょうけど……」


 真綾はそう言って俯いた。山崎は真綾に優しい口調で言った。


「そんなことはないさ」


「……え?」


 真綾は驚いて顔をあげた。


「君の話を信じないなんて、あるわけがない。すごいじゃないか、そんな力があるなんて。それに、君はとても言いにくいことを、思い切って僕に告白してくれたんだ。それだけでもとても嬉しいよ」


 山崎はにっこりと微笑んだ。真綾もはにかんだように笑った。


「私も嬉しい。今まで、このことを、誰にも理解してもらえなかった。誰にも話せなかった。――あなたに打ち明けて、本当によかった」


 この人といたら安心できる――と真綾は思った。彼女の中で、これまで知らなかった感情が芽生え始めていた。



【5】



「ねえ、ちょっといい?」


 授業の合間の休憩時間に声をかけられ、真綾は参考書から顔をあげた。目の前に、ひとりの女子学生が立っていた。さほど深い付き合いはなく、名前も知らない。


 ふと視線を外せば、講義室の隅でふたりの別の女子学生が、自分をうかがうように見つめていた。目の前の女子学生とよくつるんでいる人たちだ。


「……どうしたの?」


 真綾が訊くと、その女子学生は言った。


「最近、あなたがよく男性と一緒にいるのを見るんだけど」


(山崎さんのこと……?)

 と、真綾は思った。むしろ、そうとしか考えられない。真綾は積極的に周囲の輪の中に入って行こうというタイプではなく、ましてや入学してまだ日が浅いこともあり、同じ学科の人とは必要最低限のつき合いしかしていなかった。今のところ、学内で深いつき合いをしているのは、愛実と山崎くらいのものだった。


(あの人と会っているところをいつ見られていたの――?)

 と、真綾は思わずにはいられなかった。


「あの人ってどんな人なのか教えてくれないかな?」


「…………?」


 彼女の言葉に、真綾は怪訝そうな顔を浮かべた。なぜそんなことを訊いてくるのだろうと思う。


「あ、ごめんね、別に変なつもりじゃないの。ただ、ちょっと気になって」


「何でそんなに気になるの?」


「だって、あの人、ちょっと妙なんだもの。キャンパスの至る所でうろついているのを見かけるし、一体何をしているんだろう――ってみんなで話していたの」


「…………」


 再び講義室の隅に目をやると、例のふたりも興味津々という目つきでこちらをうかがっていた。あまりいい気はしない。他人のプライベートに首を突っ込んで、何が楽しいのだろう。


「さあ――私も出逢ったばかりだし、よく知らないわ」


「そう、なんだ……」


 真綾の態度がつれないと感じたためか、女子学生は早めに話を切り上げて、友人たちのもとへと戻っていった。友人たちと何やらひそひそと話し始めたが、あえて聞き流すように努める。


(山崎さんって、他の人たちからはあんなふうに思われていんだな)


 真綾は思った。真綾にとっての彼の印象は、大人であり、人の柔らかい部分まで包み込んでしまうような好青年だった。しかし、周囲には必ずしもそうではないらしい。もっとも、たったひとりの学生から聞いた評価ではあったが、それでもそのような人がいると思うと、真綾は釈然としない疑念を抱かずにはいられなかった。



――



 次の授業がある教室に向かうべく、キャンパス内を歩いている道中。真綾はばったりと愛実に遭遇した。


「あれ、アミーじゃん。久しぶり」


「やっほー、マヤー」


 気さくそうな挨拶にしては、愛実の表情は浮かない。彼女は続けて訊いた。


「どこに行くの?」


「一般教養の授業があるから共通教養室に移動しているところ」


「ふーん……。ところでさ、あの山崎って人、まだ会ってんの?」


 愛実は唐突に切り出した。真綾はぎくりとした。先ほど、別の学生から同じような話をされたところなのだ。


「会ってるけど、どうして?」


「よーちゃん、マヤーとなかなか会えないって寂しがってるよ?」


「……何で陽一の名前を出すわけ?」


 真綾は顔をしかめた。あまりその名を聞きたくないと思った。けれども、愛実は構わず続けてくる。


「よーちゃん、マヤーが振り向いてくれるのを、ずっと待ってるんだよ。なのに、どうしてマヤーは別の男の人と会ってるの?」


「どうして陽一のことをそんなに気にするわけ? 第一、山崎さんのことにアイツは関係ないじゃない」


 真綾もつい少し声を荒げてしまう。すると、愛実はまったく違うところから攻めてきた。


「大体、あの山崎って人、ちょっと様子が変だよ」


「……なに言ってるの?」


「あの人には何か嫌ものを感じる。あの人と付き合ってたら、マヤー絶対不幸になる」


「アミーまでそんなこと言うの? サイテー……」


 真綾は押し殺した声で言った。上目遣いでキッと愛実を睨む。


「アミー、そんな人だと思わなかった。あなたが陽一のこと、どれだけ気がかりなのか知らないけれど、だからといって山崎さんを悪者にするなんて……!」


 真綾はぷいっと愛実から顔を背け、さっさとその場から歩きだす。


「マヤー、私本当にマヤーを心配して……」


「ついて来んな、馬鹿!!」


 咄嗟に呼び止めようとした愛実を、真綾は振り向きざまに一喝した。愛実はびくん、と身体をこわばらせた。真綾はそれから、立ち止まることなく歩き去っていった。


 歩きながらも、怒りが治まらなかった。


『ちょっと妙なんだもの』


『嫌な予感がする』


 先ほどの女子学生と愛実の言葉が思い起こされる。真綾は親指の爪を噛んだ。


(山崎さんはそんな人じゃない、山崎さんはそんな人じゃない……)


 真綾は頭の中で同じ言葉を呪文のように何度も反芻した。



【6】



「今日、元気ないね。何かあったの?」


 ふと、山崎が言った。


 実際、お洒落なフレンチレストランでのディナーだというのに、真綾の気分は浮かなかった。昨日の愛実らの言葉が胸に引っかかって仕方がなかったのだ。けれども、それを山崎に知られたいとは思っていなかった。不機嫌な感情が滲み出ている。山崎にも、せっかくこんないい雰囲気のお店にエスコートしてくれたのにもかかわらず、変な気を遣わせて申し訳ないと思った。


 私って、どうしてこうなんだろう――。


 他の人たちに誤解を受けているのなら、私こそが彼をもっと信じてあげるべきなのに――そんな気持ちを抱えながら、けれども他人の言葉にこれほど翻弄されているということは、自分自身が彼を信じ切れていないということだろう。そんな自分が歯痒くて仕方がない。


(私が彼を信じ切れないのは、きっと愛実や、他の人たちのせいじゃない。自分の心の迷いだ)


 真綾は自分にそう言い聞かせた。自分がしっかりしていたら、余計なことに迷う必要もないと思えた。むしろ、彼がそんな人じゃないと証明して、愛実たちを見返してやればいいじゃないか。


 抱いていた予感は、もはや確信に変わっていた。「魅かれているかも知れない」ではなく、自分は山崎のことがはっきりと好きなのだ。ならば、自分でその事実を受け止めるべきだ。相応の行動をとるべきだ――。


 彼女は覚悟を決めた。今までの不甲斐ない自分を脱却し、新たな一歩を踏み出すのだ。


「山崎さん、お話ししたいがあるの」


 真綾は、山崎の方へと向き直って言った。


「どうしたの?」


「前に話しましたよね。私、今まで男性と付き合ったことがないって」


「そうだったね」


「その原因は、私が抱いてるコンプレックスなんです」


「コンプレックス? 何に対して――いや、誰に対してと言った方が正しいのかな」


 真綾はこくり、と頷いた。


「私がコンプレックスを抱いている相手――それは私の両親なんです」


「両親?」


「――とはいっても、パパとママは悪くなくて、すべては私が勝手に抱えているだけ。私のパパとママはとっても仲がいいんです。私もふたりのことが大好きでした。もちろん、ふたりも私に娘として大きな愛情を注いでくれたと思います。けれどいつしか、私は気づいてしまった。同じ家族でも、夫婦と子供では大きな違いがあるということに」


「お父さんとお母さんのような関係にはなれない――ということかい」


「そうです」

 と、真綾は応えた。


 現に、彼女はこの歳になっても、幼い頃の記憶が時折夢に出るのだった。それは、両親が子供にさえ決して見せない行為をしている場面を、たまたま覗いてしまった時の光景だった。その当時はその行為の意味が分からなかったものの、成長してその意味を知るにつれて、彼女は両親との大きな隔たりを感じざるを得なくなってしまった。


「そしてそのことは、私をとても寂しくさせました。私はパパとママに固執するようになりました。決してふたりの間には入り込めないのに、何とかして認めてもらおうと必死になって。多分、ふたりを慕う一方で、嫉妬もしてしまってたんだと思います。その矛盾した想いに整理もつけられないまま、こじれてしまって――私は曲がった心のまま過ごしてきました。他の男性に興味をもてなかったのも、その辺りに原因があるんだと思います」


 山崎は顎に手を当てながら、真綾の言葉を咀嚼しているようだった。


「……なるほど。君は潜在意識的に、絶対に想いを遂げられない相手を理想の男性として見てしまっている――ということなのかな。即ち、その相手とは、君のお父さんだ」


「そうかも知れません。同時に、ママは理想の女性であり、絶対に敵わないライバル――。そんな私の屈折した気持ちが、私の恋愛観をおかしくさせていたのだと思います」


「もっとも、自分の異性の親に深層心理で憧れるというのは、よくある話だ。ただ、君の場合は、それが過剰になってしまっているのが問題のようだね」


 山崎の言葉に、真綾はまさにその通りだ、と思った。やっぱりこの男は相当頭がいいようだ。


「でも、私、思ったんです。こんな自分とはお別れしたいって。もう大学生ですもの。自分で自分を縛りつけてちゃいけない。自分の足で自分の人生の一歩を踏み出すべきだわ。だから、言わせてください。私、あなたが好きです。誰かに対して、こんな気持ちになったことって、初めてなの」


 真綾は山崎をまっすぐに見つめて言った。山崎は戸惑う様子もなく、真綾を見つめ返していたが、やがて微笑んで、

「嬉しいよ」

 と言った。真綾の胸に、じんわりと温かいものが広がった。相手に気持ちが伝わったと思えた。嬉しさのまま、彼女は彼の両手に自分の両手を重ねた。


 その時、ある場面が眼前に浮かんできた――。



 それは、ふたりがはじめて出逢った時のことだった。多くの学生でにぎわうキャンパスの中で、山崎はじろじろと何かをうかがっていた。そこへ、真綾が歩いてくる。山崎はその姿を発見するなり、ポケットから財布を取り出し、地面へと置く。そして素知らぬ顔で、その場から歩きだした。



(えっ、これってどういう……?)


 真綾はそう思ってみたものの、考えられることはひとつだった。山崎は真綾に意図的に財布を拾わせたのだ。


(何のために……?)


 やはり考えられる可能性はひとつだった。


「どうかしたの?」


 山崎が訊いてきた。真綾はおそるおそる訊き返した。


「山崎さん、もしかして最初から私の能力を知っていて、私に近づいたの?」


 そう問いつつも、内心ではそうではないという答えを期待していた。しかし、その思いに反して山崎は、

「やっと気づいたか」

 と言って、これまで見せたことのないようなニンマリとした笑みを浮かべた。



【7】



「……今、何て?」


 真綾は耳を疑った。山崎から、到底出るとは想像もしていなかった言葉が飛び出したのだ。


「すぐにバレると思ったが、案外時間がかかったな。――これ、俺の正体」


 山崎はそう言って、財布から名刺を1枚取り、真綾に差し出した。


「……フリージャーナリスト?」


 真綾は名刺に書かれていた肩書きを声に出した。


「カッコよく言えばそうだけどな。とどのつまりは情報屋だ。面白いネタを仕込んでは、誰かに売る。情報を得るためには、政治家、ヤクザ、君のような超能力者――どんな奴だってターゲットにするし、どんな手段も厭わない。ゆすりやたかり、詐欺めいたこともやる」


「学生っていうのも……」


「もちろん嘘さ。俺はこう見えて、学生なんていう年齢じゃない。40才間近ってところだ」


「…………」


「知ってるかい、あんた、俺らの業界――ことにオカルトの分野の連中からしたら、ちょっとした有名人なんだぜ」


 山崎はブレザーの内ポケットから写真を1枚取り出した。そこに写っていたのは、街を友人と歩く真綾本人だった。


「もっとも、この写真を撮ったのは俺じゃない。こちらの業界の連中ってのは、面白そうなネタにはハイエナみたいにすぐ飛びつくんだ。あんた、中高生の頃、派手にやってたことがあったろう。噂はすぐに、俺たちの耳に入ってきた」


「私を調査するために近づいたの?」


「そういうことさ。大学に潜入して、君のことをつけ狙っていたんだ。しかし、思った以上にうまくいったぜ。情報も高く売れそうだ。なにせ、自分の生い立ちや家族のことまで、ペラペラと喋ってくれたんだからな」


「やめて……!パパやママまで槍玉にあげないで」


 真綾は叫んだ。


「なんて酷い人。人のいい顔して近づいて――私のこと、ずっと騙してたのね」


「君の方が勝手に騙されてくれたんだ。俺にしては嬉しい誤算だった。すぐにバレて、何のあがりも出ない覚悟まで俺はしていたんだぜ。だが、君は見事に俺を信用してくれた。

 君は人を疑ることを知らないようだ。それじゃ、せっかくの能力も半減しちまうぜ。それどころか、この世の中で生きていくことも難しいだろうな。俺みたいなクズにまでころっと騙されたことがいい証さ」


 真綾の肩は震えていた。自分の秘密を打ち明けた時、どうして山崎がすんなり受け入れてくれたのか、なぜ自分と愛実たちで山崎への印象が違っていたのか――真綾はその理由を悟った。胸の中に湧き上がる感情は、悲しみから怒りに変わっている。


 山崎はニタッとした笑みを見せながら続けた。


「とはいえ、俺はこのまま君と関係を続けてもいいと思ってるぜ。君と組んでいれば、色々といい儲け話が舞い込んできそうだ。それに君は、今は子供っぽすぎて俺の好みには到底及ばないが、あと2, 3年もすればきっといい女になる。君も俺と組んだ方が、面白い人生を歩むことができるぜ。どうだい?」


「ふざけないで」


 真綾は押し殺した声を出した。


「さんざん人の心を弄んでおいて、言うに事欠いて何てこと。見くびるのもいい加減にしてよね!」


 真綾は鞄を担いで立ち上がり、その場を去ろうとした。そんな彼女の背中に、山崎は言った。


「君は俺から離れられない。退屈な生活に飽き飽きして、きっと俺の所に戻ってくるさ」


 真綾は、山崎を振り返らず、店を後にした。



 レストランを出ても、興奮は冷めなかった。


 無性に自分が恥ずかしくなった。私はなんて男に騙されていたんだろう、友人の言葉に耳を貸さなかったのだろう――そう思うと、いたたまれなくなってくる。


 妙に人恋しくなった。ひとりぼっちでは心が潰されそうになったのだ。彼女は歩きだした。次第に足が速くなり、気づけば彼女は走りだしていた。山崎の所からははやく離れて、別の誰かのところに行きたかった。誰に会おう――と思った時、浮かんだのは、なぜか陽一の顔だった。


(陽一、陽一、陽一、陽一……!)


 真綾は駆けながら、一番会いたい人の名前を心の中で何度も叫んでいた。



【8】



 玄関の扉を開けるなり、陽一は驚いた表情をした。


 きっと玄関口にたたずむ自分が、よっぽどひどいナリをしているのだろう――と、真綾は思った。それもそのはずである。あのレストランからここまで、半ベソをかきながら、なりふり構わずに走ってきたのだ。


 陽一は真綾を家に入るように促した。真綾はそれに従った。陽一の部屋に入ると、真綾は床の壁際に座り、うずくまった。少し気分が落ち着いた。陽一が家にいてくれてよかったと思う。さもなければ、真綾は今頃、行き場を失くして辺りをさ迷い歩いていたに違いない。家に帰るのは、どうにも気が進まなかったのだ――。


 今日もこの家には陽一しかいないらしい、ということも真綾にとっては好都合だった。あまりたくさんの人に、今の自分を見られたくはなかった。


 しばらくすると、陽一がジュースの入ったグラスを2つ、ボードに乗せて運んできた。


「真綾ちゃん、何かあったのかい?」


 グラスをテーブルに乗せながら陽一は訊いた。


「訳は訊かないで」

 と、真綾が言うと、陽一は「分かった」と短く応えた。


 陽一はベッドの上に腰をおろし、うずくまる真綾を見つめた。しばらくの互いの沈黙の後、真綾が口を開いた。


「陽一、あなた、自分のしたことを悔やんだり、自分を情けないと思ったことってある?」


「うーん……、あんまりないかな。俺、基本的に過去にはとらわれない人だから。失敗した時は、次に活かせばいいじゃん、って思う」

 と、陽一は答えた。


「強いのね、あなたって」


「強くなんかないよ。能天気なだけさ」


「――私は、後悔してばっかり」


 真綾はそう言って、自分の両膝の上に顎を乗せた。


「友達の助言も悪意に取って、悪い人に騙されて――何やってんだろう、って感じ。自分のこと、本当に最低だって思う」


「そんなに自分を卑下するなよ」

 と、陽一は言った。


「俺が保証する。真綾ちゃんはとっても素敵な人だよ。それに俺、真綾ちゃんといたらとっても楽しいもの」


「ありがと。優しいのね。あなたと友達で本当によかった」


 真綾は微笑んで言った。しかし、一方で陽一は、妙に真剣な表情を浮かべていた。


「真綾ちゃんさ、俺のことは、やっぱり友達としか思ってないの?」


「……えっ?」


「知ってるだろ。俺、中学の頃から、ずっと真綾ちゃんのことを想ってたんだよ」


「ちょっと、今はそんな話……」


「じゃあ、いつしたらいいの?」

 と、陽一は真綾の言葉を遮った。それから、ベッドから下りて、床に膝と手をつき、真綾と目線を合わせた。


「俺は真綾ちゃんがどんな人と仲良くなってもいいと思ってる。でも、それで真綾ちゃんが不幸になるのは、絶対に認められない」


 陽一は四つん這いになって、真綾に近づきながら、

「俺じゃ駄目かな?」

 と、吐息交じりの声で言ってきた。


「何を言っているの……?」


「俺だったら、真綾ちゃんを悲しませたりはしないよ?」


「よ、陽一? 落ち着いて……」


「真綾ちゃん、一度だって俺の気持ちに応えてくれたことあったかい? いつになったら、俺とちゃんと向き合ってくれるの?」


 確かに、真綾はこれまで、陽一の想いに対して一度も、イエスともノーとも答えたことがなかった。陽一の指摘した通り、これまで自分は、彼の気持ちと向き合うことを避け続けていたに違いなかった。けれども、今回ばかりはそれは叶いそうにない。


 陽一が迫ってくる。真綾は思いきり、背中を壁に押しつけた。


「お願い、ねえ、ちょっと待ってよ――」


 真綾は懇願するように言った。けれども、陽一は真綾の至近距離まで顔を近づけ、

「嫌だ。俺、もう我慢できないよ」

 と言って、おもむろに真綾の唇に自分の唇を重ねてきた。


「――んっ!」


 こわばった真綾の喉から、声が鼻を抜けた。陽一をつき放そうとしたが、彼は強い力で真綾を抱き締めてくる。こんなに強引な陽一は初めてだった。


 その時、真綾の脳裏にある光景が浮かび上がってきた。それは、部屋の中でひとりぽつりでたたずむ陽一の姿だった。真綾は思った。陽一には父親はいなく、母親も仕事の都合で家にいることは少ない。自分が山崎と会ったりして、キャンパスライフを謳歌している間、彼はひとり寂しく過ごしてきたに違いない。


 それなのに、彼はそのような一面を、真綾に見せることはなかった。いつも彼女に気を遣ってくれていた。


(それなのに、私は陽一に何て酷いことをしていたんだろう――)


 真綾は今までの自分を後悔した。それは、本当の自分の気持ちを知ることを恐れていた、自分自身の弱さのために他ならなかった。真綾は今になって、本当に向き合うべき相手は山崎などではなく、陽一であったと気づいた。


 それに比べて、陽一はなんて一途で男らしいのだろう。逃げ回っていた自分を、ずっと遠くから見守っていてくれていたのだ。子供だなんてとんでもない。彼の方が、自分よりずっと大人で、素敵な人だ。


 陽一は真綾から唇を離すと、真綾の顔をじっと見つめて言った。


「俺を君の彼氏にしてくれない?」


「……私なんかでいいの?」


 真綾が訊くと、陽一はひとつこくりと頷いた。


「真綾ちゃんじゃなきゃ嫌だ」


 陽一の言葉に、真綾の目から涙が滲む。こぼれないようにと堪えるあまり、口元に力が入った。


「…………」


 今こそ陽一の気持ちに応えたかった。嬉しい、ありがとう、今までごめんね――言いたいことはたくさんあった。なのに、言葉が出せない自分がもどかしかった。


 けれど、どうしたらいいだろう――と悩んだのは一瞬だった。言葉が出せない代わりに、自分の気持ちを伝える一番の方法があるではないか。真綾は、かたく目をつむってから、勢いよく陽一にキスのお返しをした。唇をつけていた時間は、1秒もなかっただろう。けれど、再び陽一の顔を見ると、彼はとても満足そうな笑顔を浮かべていた。真綾もつられて笑顔になった。


 気づかなかっただけで、はじめからそれは、身近なところにあったのだと気づいた。これまで無意識にでも遠回りしたり、逃げ回ったりして、なかなか立とうとしなかった自分がいた。けれども、今になってようやく、真綾はそのスタートラインに立つことができた。立たせてくれたのは、他でもなく、陽一だった。


 真綾の中で眠っていた愛の種子が、今ようやく芽吹こうとしていた――。



【あとがき】


鳥須 真綾は純粋でまっすぐな両親に憧れ、自分もそのようになりたいと願っています。

ですが、そうなりきれない自分に、もどかしさを感じています。

そのため、妙に背伸びをしてみたり、自分をよく見せようとする傾向があります。

そこにつけいられる隙があるのです。悪い人に騙されて、時には自分の信念を平気で曲げてしまうことだってあります。


まっすぐでその分折れやすい真綾を支える役目を担うのが、陽一なわけです。


陽一は一見軸がなく、軽々しくて子供っぽいように見えてしまいますが、実は幅が広く、色んなことを受け入れられる器量をもっています。

だから、真綾の細くて長い軸を包みこめる鞘になれるのです。



そんなふたりが恋人同士になるまでの話を書いてみました。



山崎という男は、長編小説『エクストラセンサー』にも登場しますが、どこからどこまでも悪人です。

でも、個人的にこういうアウトローなキャラって好きなんですよね。

機会があれば、また登場させてみたい人物です。


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