命喰らい
思えば母親からは愛情というものを満足に受けていなかった。自らの胎内から出てきたスピカを娘だと認めようとしなかったのだ。
幼い頃は無視される程度だったが、成長していくにつれて憎しみの込もった目で睨まれるようになった。スピカの世話係だったメイドが一度だけ教えてくれた事がある。スピカはかつて王が愛していた貴族の娘と同じ銀髪だから王妃から嫌われていると。王妃譲りの美しい金色の髪ではなく、銀色の髪を持ってきたせいで疎まれていると。
何をしたわけではない。髪の色が父親が昔愛していた女と同じ。それだけで母親からの愛情が受けられない。どんなにスピカが母親を愛されたくても彼女はスピカの名前すら呼ばず、他の兄弟にばかり笑顔を見せていた。それでも王や兄弟からは普通の家族として接してもらえた。
三年前までは。
「見て、アルビレオ様。似合う?」
古びた古城の一室でスピカは与えられたドレスを着て微笑んでいた。雲のない昼間の空の色のような淡く優しい蒼のドレス。それは銀色の髪と純白の肌を持つスピカをよく似合った。
アルビレオと呼ばれた深紅の髪の青年は目の前でくるくる回る少女の額をこつん、と人差し指で突いた。動きがピタリと止まる。
「別に服ぐらいでそんなに喜ぶ事はないだろ。馬鹿か、お前」
「だって、こんなに綺麗なドレス着るのなんて久しぶりなんだもの」
今にも踊り出しそうな勢いのスピカにアルビレオは呆れた表情で口を開きかけて、言っても無駄だと判断したのか閉じた。と、きゅう、と間の抜けた音が薄蒼のドレスの中から聞こえた。
スピカが頬を赤く染めて腹部を押さえる。ちらりとアルビレオを上目遣いで見上げたのは「聞こえてない?」と確認するためだった。
「……そろそろ飯の時間だな」
「う、うん」
「ちょっと待ってろ。作るから」
「あっ、待って!」
アルビレオが部屋から出ようとする。それを袖を掴んでスピカは引き止めた。そうして困惑する青年に満面の笑みを浮かべる。
「私も作るの手伝わせて」
「またかよ。別に毒なんて入れたりしないから安心しろ」
「そうじゃないわよ。私、お世話になってるのに何もしてないんですもの。少しは頑張らせて」
アルビレオの返答を待たずにスピカは部屋を飛び出すと石畳の廊下をスキップしながら進んでいく。目指すは二人で使うには少し広すぎるキッチンだ。
今晩の夕飯は何にしよう。アルビレオが魔法で作った氷の箱には肉や魚が保存されていて、野菜も一通り揃っている。少し肌寒いから野菜をたっぷり入れたポトフでもいいかもしれない。
鼻歌を歌いながら螺旋形の階段を下りながら窓の外の風景を眺める。緑に覆われた野原と奥にはどこまでも続いている蒼色の海。が広がっているはずのそこも今は何も見えない。ただ、深く暗い黒色の空と虚ろに浮かぶ月があるだけだ。
「……あとで俺は散歩に行ってくる」
スピカに追い付いたアルビレオがどうでも良さそうに呟く。銀髪の少女をどうでも良さそうに見下ろしながら。
それに対してスピカは目を輝かせながら青年にせがんだ。
「アルビレオ様、私も連れて行って」
「お前を? 何で?」
「だって私もう二週間も外出てないもの」
二週間前、スピカは魔王であるアルビレオに連れられてこの城にやって来た。そこでアルビレオから自分が彼の生贄として捧げられたのだと聞かされた。喰い殺されるのか、それとも性奴隷にされるのか。どちらかだろうと予想していたスピカにアルビレオはそのどちらもしなかった。
その代わり食事を与えてくれて、温かい湯と貴重な石鹸で体を清めさせてくれて、柔らかいベッドまで与えてくれた。理由を聞いてもアルビレオは何も答えてはくれない。
よく見ればスピカよりほんの少し年上にしか見えない魔王。不思議な人だ。きっと今もスピカがずっと窓の向こうを眺めていたから外に出たいのだと解釈して、散歩に行くと言い出したのだ。いつもの彼は夜になったらずっと部屋で書物を読み漁ったり、何かの研究をするばかりだった。
「ね、いいでしょう?」
「逃げ出そうとしたらその場で殺すからな」
「いいわ。殺して」
微笑みながら了承するスピカを、アルビレオは一瞬だけ紅玉色の双眸を細めた。何かを言おうとした口は結局声を出さずに閉ざされる。言おうとして言わない。彼の癖なのかもしれない。無言で階段を降りていく魔王に少女は今夜の夕飯はポトフにしようと提案した。
「我は今からこの娘を連れて外に出る。もしも来客が現れたら貴様が対応しておけ」
「ねえ、アルビレオ様。どうして私以外とはそんな堅苦しい喋り方なの? 何だかおじいさんみたいだわ……」
「当たり前だろ。お前よりいくつ年上だと思っているんだよ」
「ふふ……王妃様、こちらをどうぞ」
夕食を終えてから一時間後、現れたのは紅色の翼を持った美しい女性だった。鳥乙女、魔物の一種でたまにこの城にやって来る。部下に対して普段よりも堅い口調で話すアルビレオに不思議がるスピカに、セイレーンは穏やかな微笑を浮かべた。
アルビレオが施した瑠璃色の光の膜に包まれた彼女の手の中にあるのは、夜色のマントだった。それをアルビレオが受け取り、やや離れた場所にいたスピカに渡す。
「これなぁに?」
「お前この真冬にそんなドレス一枚で外に出る気なのかよ」
「そうね、ありがとう。あ、でも、あのセイレーンさんに王妃様って呼ばないで欲しいって言ってもらっていい? 王妃様だなんて恥ずかしいわ」
苦笑混じりのスピカの言葉にアルビレオの表情が僅かに強張る。だが、スピカはマントを見下ろしていたので、その変化に気付かず言葉を続けていった。
「スピカって名前で呼ばれた方が嬉しいの。最近まで名前呼ばれる事ほとんどなかったから」
「……魔王の妃って肩書きが嫌じゃあなくてか?」
「………………」
「な、何だよ」
顔を上げてじ、と見詰めてくるスピカにアルビレオがたじろぐ。だが、次に少女の口から飛び出したのは更に青年を狼狽させるものだった。
「そういえば……どうして私、王妃って呼ばれているのかしら。あのセイレーンさんだけじゃなくて、上半身が人間で下半身が馬の人にも呼ばれたの。王妃様って」
「……そんなのどうでもいい」
「大事な事よ。私あなたみたいに強い魔力も持っていないし、それに――」
「ああ、確かにおかしい。お前は俺と違って『ただ』の人間だからな」
スピカの言葉を遮るように早口でアルビレオが言い切る。目を丸くするスピカを無視してアルビレオは部屋から出て行く。呆然とその後ろ姿を眺める少女にセイレーンが笑みを見せる。
「魔王様なりの優しさです。あなたは私達と違う、と言っているのですよ」
「……ええ、そうみたいね。私が『ちょっと』だけ気にしてるの知ってるみたい」
悪戯がばれてしまった子供のように笑うスピカに、セイレーンはどう反応すればいいのか決められず視線を彷徨わせる。それは彼女が優しいからだ。どんな風に言えば一番スピカが悲しまないか考えてくれる。
彼女を困らせるような事を言ってしまった。スピカは「ごめんなさい」と謝った。
「私駄目ね。たまに弱気になってしまう時があるの」
「あなたは魔王様に望まずして連れて来られたのです。無理はありません」
「私、何も聞かされないままアルビレオ様の生贄になっちゃったけど、すごく幸せよ。美味しいご飯を食べさせてもらって、柔らかいベッドで休ませてくれる。それにアルビレオ様だけじゃなくてあなたや他の魔物さんも優しい人。この場所にはね、幸せがたくさん詰まってるの」
夜色の厚めのマントを人差し指でなぞりながらスピカはそっと瞼を閉じる。ここにやって来た時、恐怖を覚えなかったわけではない。突然外に出されたと思えば、見知らぬ男に連れさらわれて自分が国のために差し出された事を知った。
これは罪を犯した自分への罰なのだろうとぼんやり思った。なのに、アルビレオ様はスピカに罰を与えようとはせず、普通の幸せを与えてくれた。
「私が怖いのは、アルビレオ様までいつか『殺して』しまうかもしれないって事なの」
魔物であるセイレーンもアルビレオの結界が無くなれば、たちまち干からびた死体となってしまうだろう。そうでなくても、一定の距離を保っていなければセイレーンの体から生気を奪ってしまう。
睡眠時以外は側に近寄るだけであらゆる生物の命を吸い尽くしてしまう現象。それはあの忌々しい戦争が終わった頃から見掛けるようになり、ある日突然その力に目覚める者が多かった。
魔法や呪いの類いでもないそれから逃れる手立てはなく、やがて人々は恐ろしい力を病と認識するようになった。生きているだけで何かを殺す『命喰らい』と呼ばれる病を発症した人間は隔離された後、多くの命を奪った罪に対する罰のように殺された。
スピカが『命喰らい』を発症したのは三年前の事だった。