災厄への供物
この国を滅ぼされたくなければ生贄を王族の中から一人選び、我に捧げよ。
始まりはそんなありきたりな言葉からだった。とある大国に現れた、燃えるように紅い髪の男の唇から紡がれた要求に誰もが困惑した。
生贄、更に王族の誰か。交渉する間もなく内に凄まじい魔力を秘めた宮廷魔術師達が男に攻撃を仕掛けた。男が何者なのか、何故生贄を求めるのか。それらを知る必要もないと王は男を殺す事を命じた。
近隣の小国を滅ぼした際に使われた、全てを焼き尽くす紅蓮色の炎が男へと放たれる。男は表情一つ変える事なく、右掌を前に突き出した。直後、瑠璃色の光の膜が黒衣を纏う男の体を包み込む。
火炎は光に守護された男を除いたあらゆる物を飲み込んだ。木々を一瞬で灰塵と変え、辺り一面は焦土と化した。だが、肝心の目標にはその炎は届かない。驚愕と恐怖に表情を歪める宮廷魔術師達を、黒く焼け焦げた大地の上で男は美しい唇を三日月形に歪めて嘲笑った。
「我は貴様らの放つ火の粉など簡単には払えるが、貴様らは我が放つ炎を防げるかどうか、試してみるか?」
光が消えたと同時に男の白い掌から漆黒の炎が燃え上がる。その炎から背筋が震えるような禍々しい魔力を感じた魔術師が腰を抜かす。この国の魔術師全員の力を収束させた攻撃ですら、あの男には効かないだろう。その確信があった。
突然の来訪者に怯える国民達。「あれは魔王だ。間違いない」とか細い声で呟いたのは年老いた男だ。彼だけではない、魔法の水晶を用いて城の中から外の様子を窺っていた王と大臣も、赤髪の男の正体に気付いていた。
三十年前、この大陸はあらゆる国と国が戦い合っていた。多くの人間が命を落とし、炎と血の匂いに満たされた地獄のような世界だった。
いつ終わるかも分からない戦争に民が嘆き、国の権力者が勝利に飢えていた時、一人の男が大量の魔物を率いて現れた。襲い掛かる魔物達にあらゆる国の兵士が、魔術師が標的を人間から異形の化け物へ切り替えた。
そして、全ての魔物を掃討し終えた時にはどの国も疲弊しきり、今更戦争を引き起こす気力もなかった。勝者も敗者もいないまま戦いは終わり、あの魔物を率いた男は魔王と呼ばれるようになっていた。
結果的にも血濡れた戦争を終わらせた男の言葉に、王は従うしかなかった。魔物の軍勢をけしかけられたら、この国は滅びるしかないだろう。あのような正体も定かではない男の言いなりになるのはプライドの高い王の癪に触ったが、それよりも恐怖が勝った。すぐに攻撃を止めるように指示して、代わりに城の地下に作られた牢獄へ向かうよう告げた。
魔術師は先程魔王が炎から身を守るために張った光の膜とよく似た薄青の結界を作ってから地下へ降りた。暗い空間と冷たく沈んだ空気。ここはかつては犯罪を犯した城の人間を捕らえるための牢獄だったが、現在は一人の人物を閉じ込めて置くための部屋になっていた。
「スピカ様、外に出られる事になりましたよ」
机の横に置かれたランプの静かで儚い光で書物を読んでいた人物が、魔術師の言葉に顔を上げた。銀色の瞳と髪の少女だった。言葉の意味を理解していないのか、少女が不思議そうに首を傾げる。ランプの橙色に照らされた銀髪からフケが落ちていく。
少女が口を開こうとする前に、魔術師は素早く詠唱を唱えた。少女の瞳から生気が失われる。白銀の睫毛で飾られた瞼が降りた瞬間、小さく細い体が椅子から崩れ落ちた。
眠りの魔法を使った魔術師は少女が起きない事を確認してから、牢屋の鍵を開いて中に入った。日の光を浴びていないせいで病的に白い肌と、月に一度しか入浴する事を許されていないせいで悪臭を放つ肉の少ない体。
「化け物め」
魔術師は毒付くと少女を抱き上げて地上への階段を一段一段昇って行った。ろくに食事を与えられていないので羽のように軽い。だが、吐き気を催すような臭いが鼻につく。
地下から戻ると王族や大臣が光の膜に護られた状態で魔術師を待っていた。少女の姿に王妃が悲鳴を上げる。他の者も顔を歪め、王子はその場から逃げるように去った。
「早くこの娘を魔王とやらに突き出してちょうだい。こんな所にいつまでも置いておかれたら、私達に何が起こるか……」
「分かっています。それにもしかしたらスピカ様ならあの男を殺せるかもしれない。我々人間だけではなく、魔物にも通用するようですから」
「通用しなければそれはそれで単なる魔王の供物という形にすればいい」
少女は床に投げ捨てられると所々破けた衣服を引き裂かれ、水を掛けられた。魔法がまだ解けない。多少体を清められた後、大きめの布袋に放り込まれ、数人の兵士に運び出される。
城を抜け出し、進んだ先は城と城下町を繋ぐ巨大な橋。そこで魔王は真下を流れる川を眺めていた。透明な水の中では今この国を脅かしている者に見られている事も知らず、魚が優雅に泳いでいる。
兵士の気配に気付いた魔王は顔を上げ、彼らの方に視線を向けて眉をしかめる。全員怯えていた。だが、恐怖は魔王ではなく、運んでいる巨大な皮袋に向けられているようだった。
兵士達が逃げ出さないように見張っているのか、奥には宮廷魔術師が杖を構えていた。
「約束通り用意した。王族の人間だ」
「……それにしては扱いが随分と雑なように見えるが」
魔王の言葉を遮るように布袋が魔王の目の前にドサ、と音を立てて置かれる。兵士が苦しみ始めたのは直後の事だった。必死にその場から逃げ出そうとする。
呻く兵士の体が急激に痩せ衰え、皮と骨だけになっていく。やがて兵士は全て絶命にしてその場に倒れた。異様な光景に僅かに目を見開く魔王だったが、宮廷魔術師が悔しげに睨んで来るのに気付く。兵士を殺された事に怒りを覚えているようには見えなかった。
ごそごそと布袋の中身が蠢いている。魔王は身を屈めると入り口を縛っている紐を解いた。中から伸びてきた魔王よりも白い手が袋の端を持つ手に触れた。
「ここ……外?」
聞こえてきたのは少女の声だった。姿を確かめようとする。日の光が袋の中に入ると慌てたような悲鳴が魔王の鼓膜を震わせた。
「光やめて……! 目が痛い……!」
自分が魔王の生贄として捧げられようとしていると気付いていないのか、少女は魔王を怖れるよりも先に両目を光から守るように手で覆っている。骨の上に直接皮膚を被せたような手だった。
どう見ても王族には見えない出で立ちの少女と、驚愕の表情を浮かべる魔術師。その両者を見比べた魔王は少し濡れている少女の薄汚い髪を撫でた。
「この娘、もらって行こう」
この後、国民には魔王の生贄は三年前から病に伏していたスピカ王女になったと公表された。とある奇病を発症し、それ故に三年間隔離され続けた挙げ句、本人の意思も関係なく魔王への贄として捧げられてしまった、という真実は永遠に隠されたままだった。