拝啓、戦場より
汗臭い空気の中、ひたすら重い足を動かし、前へと進む。
決死の形相で向かってくる敵を持っている太刀で薙ぎ払い、ただただ敵頭領のいる先へと急ぐ。
主の為、妻の為、自分の為に、戦場を駆けた。
既に血と脂にまみれた愛刀を握りしめ、前を見据える。
もう、引き返すことは出来ない。
これまで数えきれないほどの命を刈り取ってきたが、それも戦を終わらせるためだ。
方法は数多あれど、今回の主上は「血を流す」方を選択した。
いくら不満があれど、俺のような下っ端には口を出す隙間など小指の先ほどもないのだ。
命令を聞いて、実行すればよい。
それでも、完全に心を殺すことは出来なかった。
血しぶきを浴びるたびに、断末魔を聞くたびに、暴れる胸を押さえながら刀を振るう。
本当はこんなことをしなくても、解決する道はあったんじゃないのか?
「おやおや、考え事かい」
この場に似つかわしくない、金木犀の香りがふわりと漂う。
色素の薄い髪の毛をひとくくりにした青年が、嫌な笑みを浮かべながら、俺と同じように真っ赤に染まった武具をちらつかせている。
――気が付かなかった。
俺は足を止めて、彼の方へと身体を向けた。さっきよりも一層赤に塗れた自分の身体に嫌気がさす。
彼はそんな俺の姿を嫌そうに一瞥すると、彼は一言死にたいのかい、と呟いた。
俺らの周囲には人の気配はない。どうやら敵が途切れたらしい。
遠くからは男臭い叫び声と、土埃の匂いがかすかに漂う。
この眼前にいる男、先の戦からどうも嫌らしく自分に絡んでくるのである。
自分に話しかける暇があったら、少しでも先へ進み、敵の首を取るほど活躍すればいいのに。
口を開けばイヤミばかり。一体何がしたいのだろう。俺と性格が合わないだけか?
名も知らない彼に、心の中で吐き捨てる。
「せいぜい死なないようにするんだね」
最初に張り付いていた笑みはなりを潜め、冷え切った視線が俺の目を射抜く。
ふん、と彼は鼻を鳴らすと、咆哮の聞こえる場へと静かに駆けて行った。
彼の走っていく方向を見つめる。
朱色に染まり始めた光に反射するように輝く、彼の薄い栗色の髪。
太陽の最後の足掻きとばかりの夕焼けが目に染みる。
そろそろ太陽は月と交代するが、俺らに控えはない。
失う悲しみは、戦に参加している以上よく知っているつもりだ。
初めての戦で良くしてくれた上司も、父も、親友も、血だまりに伏した。
その光景も、匂いも、音でさえ一生忘れられるようなものではないし、忘れたことなどない。
俺だって、家族を悲しませるようなことは、胸を刺すような痛みを残すようなことは、したくない。
自分が他の誰かを殺してでも、自分だけは生き残らなければ。
生き残り、「勝ち」を手に入れなければ。
殺さなければ、殺されるのだ。
赤く染まった掌をいくら擦っても、奪った魂の数が減るわけじゃない。
先へ、進まなければ。
陽は傾き、空は暗く染まってきた。夜目のきかない人間にとって、闇は敵である。しかし隠れるには好都合。敵の敵は仲間……すこし強引か。
息を殺しながら進んだ先には、敵の本陣が見え始めていた。
提灯のちらちらと揺れる明かりに、静かに心が燃えるのがわかる。
脳内で上司から言われていた敵陣図を思い浮かべる。
周囲に多く陣を張っているものの、本陣においては外を囲む一陣を突破してしまえば、敵はすぐそこである。
おそらく俺の居場所を知っているのは、天から見下ろす月だけだろう。
――ここを突破さえすれば、この戦は終わる。
もちろん無謀なことだとは知っている。数十人居るであろう場所に、背後からとはいえ一人で切り込むのだ。それでも、俺は早く家に帰りたかった。妻の笑顔が、見たかった。
夜独特の、ピンと張りつめた冷たい空気が俺の頬を撫でる。
ふう、と小さく息をはいて、心を落ち着ける。
これでも下級武士の中じゃあ豪傑と名高いんだ。
敵だって、こんな大きな太刀を振り回すなんて、出来るもんか。
自分を奮い立て、一歩を踏み出す。
――さあ、行こうか。
「キミはバカだ」
ふっと強く甘い香りが鼻孔をくすぐる。
「ひとりで行くつもりかい。
いくらバカな奴でも、こんな状況の中ひとりで突っ込んでいくなんてバカな方法はとらないだろうね」
ふっと燻っていた戦いへの炎が小さくなった。
柳眉にシワを寄せて、彼は複雑そうに顔を歪めた。
人をバカにしておいて、何故お前が嫌そうな顔をするんだ。むしろ俺が死んだ方が清々するんじゃないのか。悶々としつつも心の奥に押し込める。言葉を発したら、怒鳴ってしまいそうだ。
身を潜めながらも、遠くからの明かりでお互いの顔は確認できる。
彼の顔や髪に飛び散った汚れは先ほどよりも多く、黒ずんで張り付いている。
また斬ったのか。生者を死者へと変え、屍を積み重ねてここまで来たのか。
――まあ人のことは言えないが。
黒く鉄の臭いのする自らの手を静かに握った。
「ここまで来たんだ。仕方がないからキミの背中は守ってあげるよ」
行くんだろう。と暗闇に溶けた彼の言葉を、咀嚼して飲み込むのに時間がかかった。
行くのか?俺と?アイツが?
今まで会えばイヤミを放ってきた相手が、優しい言葉をかけてくるだと?
思わず首をかしげる。
「主の命令は、勝利することだ。キミへの命令も、そうだろう。
そして、その機会が眼前に落ちている。
おそらく、この場まで近づいてきたのは俺と、キミだけだ。
ひとりの腕は2本だが、ふたりでは4本だ。取りこぼす確率はうんと低くなると思わないかい」
わかるような、わからないような。
つまり協力しよう、というのだろう。いつも自分のことを嫌な顔で見つめていた彼と、俺が。
俺らの目的はひとつであり、その道は拓かれている。
そして互いに協力できる相手は、互いしかいない。
小さく肩をすくめる仕草を相手に見せる。
全く持って仕方がない。勝利を手に入れる為だ。
この赤黒く染まった腕4本で、行けるところまで行ってみようじゃないか。
明日、朝日が拝めるだろうか。
ようやく冷静になってきた頭で、静かに自分の明日を考える事が出来るようになった。
先ほど考えていた、自分ひとりでの特攻があまりに無謀な物だと。
一人が二人になったところで、あまり変わらないのかもしれない。
しかしこの瞳から感じる力強さよ。
「行くか」
ここまで来たんだ。「勝ち」を逃がしてなるものか。
彼は造形の良い顔を引き締め、静かに頷く。はらりと顔にかかる栗色の髪がゆれた。
俺らは同時に地を踏みしめ、蹴る。
風を肌で感じながら、一気に明るい場所へと駆けだした。
驚いたような敵陣からの音の外れた法螺貝を聞き流しながら、太刀をふるう。
肉を切る感触。何度やっても慣れることはない。
彼らにも家族があったろう。やりたいこともあったろう。
いちいち情をかけてはキリがないが、時折空しくなるこの気持ちを抑える為に、心の中で冥福を祈らせてほしい。
背中に感じる温かみに戸惑いながらも、いつもよりも不思議と先へ進みやすい。
危なげなく刀を振るい、四方の攻撃をかわし、いなし、反撃する。
人間性は好みではないが、こういう場では案外息が合うのかもしれない。
血の舞う戦場で、賑やかに夜は更けていく。
さあ、本丸はすぐそこだ。
俺たちをつなぐものは「同じ主からの命令」だけである。
それでも、先に進むことは出来るのだと。
空に浮かぶ月は、一体何を思うのだろうか。