ep.2-1
聖暦513年、恵雨の月第2木曜、午後4時32分
「颯真さん、行きましたよ!」
ここからは姿こそ見えないものの、かなり近くから彼女の声が聞こえた。
それとほとんど同時に、何かがこっちに向かってくる音も聞こえてくる。
「よし……!」
彼女の隠蔽魔法は完璧だ。
まだまだ隠れるのが下手な僕の体を完全に包み込み、周囲の茂みと同化させてくれている。
下手に飛び出すようなことをしなければ、バレたりはしないはないだろう。
さらに近づいてくる気配を感じつつ、しゃがんだ体勢のまま短槍を握り締める。
弓も習ったのだがどうにも上手く扱えず、結局はこの槍だけが頼りだ。
削り出した木製の柄を握りしめて、いつでも飛び出せるようにじっとその時を待つ。
───五秒……。
───十秒……。
いつも通りに流れているはずの時間が、嫌に長く感じる。
手袋越しに柄を握る右手が少し汗ばんできた。
どうもしっくりこないような感じがして、何度も短槍を持ち直す。
『……来ます』
一旦短槍を持ち換えようとしたところで、頭の中に平坦な少女の声が流れてきた。
ハッとして正面に視線を戻すと、ヤツはちょうど飛び出してくるところだった。
近くの木陰から飛び出してきたのは、体高一メートルはある鹿のような生物だった。
鹿と違うところがあるとすれば、その額に生えているねじれた一本角だろうか。
名前は……なんだったかな。
シンファに聞いたはずだけど、結局忘れてしまった。
こいつは草食のくせに結構狂暴で、狩るのも一苦労だ。
しかし、その引き締まった肉はかなりイケる。
美味い飯のためにも、僕も全力をもってこいつを狩るとしよう。
臀部に矢が刺さっているこの鹿は、後足を引きずるようにして真っ直ぐこっちに向かってくる。
もちろんこれは偶然ではない。
彼女が矢を射かけ、僕が隠れるこの茂みにこいつを追い込んできたのだ。
鹿は僕に気づくことはなく、隠蔽魔法のかかった茂みの横に差し掛かる。
───ここだ……!
手が届きそうなくらいのところを通りすぎようとした瞬間、僕は茂みから飛び出した。
こちらを向いた鹿の真っ黒い瞳が僕の視線と交叉する。よほど驚いたのか、鹿が体を震わせてこちらを向いた。
彼我の距離はわずか数メートル。
この距離なら、いくら未熟者の僕でも当てることができる―――はずだ。
しかし、逃げると踏んだ僕の予想に反し、あろうことか鹿はこちらへ向かってきた。
至近距離から投擲された短槍は若干狙いを逸れ、鹿の肩口に突き刺さった。
それでも鹿は怯むことなく、鋭い角でにっくき狩人を貫こうと迫ってくる。
「いッ―――!?」
『真横、跳んでください』
思わず変な声が漏れた。
いくら草食動物とはいえ、その角で襲われればタダでは済まない。
動きを止めかけた体をなんとか動かし、腰の結わえた短剣の柄に手をかけながら真横に跳ぶ。
直後、さっきまで立っていた位置を角が通り過ぎ、背筋に冷たいものが走った。
「う、うおあああああああ!」
無我夢中で短剣を抜きながら鹿に飛びかかる。
鹿の横から体当たりを仕掛けるような格好で、その体に組み付きにいく。
すぐさまそれ察知した鹿は、首を大きく振って自慢の角を振り回した。
当たればただでは済まない角が頭の横を掠める。
普段の僕なら、この時点でさっさと距離を取って逃げ出しているところだ。
しかし今は、飛びかかっている真っ最中。
両足が地面に着いていないこの状態では、逃げるもクソもない。
両腕を広げて体全体で鹿にぶつかっていく。
激突と同時に鼻腔に獣臭い臭いが広がって、それはすぐに泥の臭いへと変わった。
雪が溶けて柔らかくなった地面の上で鹿ともつれ合い、一人と一頭はたちまち泥だらけになる。
鹿は倒されても暴れ続け、僕を引き剥がそうと首を振るう。
僕は僕で引き剥がされないようにどうにかしがみつき、両腕で首を押さえつける。
「この……!」
腕を振りかぶる余裕もなかった。
じたばたともがきながらも、右手で逆手に持った短剣を鹿の喉に突き入れる。
そのまま思い切り腕を引いてかき切ると、鹿の喉から夥しい量の血が溢れだした。
最後の抵抗とばかりに鹿は暴れていたが、僕も気を緩めることなく押さえ続ける。
そしてその力も段々弱々しくなっていき、数十秒もすれば鹿は完全に動きを止めていた。
「これで、よし……」
ふぅ、と大きく息を吐き、亡骸の横に座り込む。
大量に流れた鹿の血は、僕ばかりか地面まで赤く染めていた。
「大丈夫ですか!?」
血まみれ泥だらけの僕を見つけて、シンファが慌てた様子で駆け寄ってきた。
毛皮の服にもローブにも汚れらしい汚れはなく、怪我をしている様子はなさそうだ。
「大丈夫大丈夫」
右手を軽く挙げながら、左手で顔についた血を拭う。
彼女はほっとした様子で僕の隣にしゃがみ込んだ。
僕がこの世界に降り立ってから早六ヶ月。
機械も電気も炭酸ジュースもないこの世界の生活にも、ようやく慣れてきた頃だ。
火の付け方や飲み水の作り方、食べれる植物の見分け方や狩りの仕方に寝床の作り方まで、シンファから様々なことを教わった。
さらには何度も行った狩りのおかげで、レベルも二つ上がった。
それにより、どうにか平均的な成人と同水準にまで能力も上がったわけだ。
準備万端とは言えないものの、以前の僕よりはずっと上手く旅をすることができるだろう。
そして季節は春となり、山を覆っていた雪も少しずつ溶け始めた。
あと少しもすれば山を下りられるようになり、僕は旅に出ることができるだろう。
『まだ旅立たないのですか?』
リッカからの催促も、日増しに多くなっていく。
僕自身も、雪が溶けたらさっさとこの寒い雪山から下りて、旅にでようと決心していた。
しかし、いざ雪が溶けてみるとその決心は揺らぎ、僕は旅に出られないまま過ごしていた。
『私の催促を無視するのも、もう十八回目です』
「うーん……」
そうは言われても明確な答えを返せずに、視線をそこらに彷徨わせる。
「どうかしましたか?」
「い、いや、なんでもないよ」
尖った耳をピンと立たせながら、前を歩く彼女がチラリと振り返る。
そして不思議そうな表情を浮かべると、また前を向いて獣道を歩いていく。
『彼女だって、こんなに長期間の滞在で迷惑してるかもしれませんよ?』
「う……」
リッカの指摘が、僕の胸をグサリと突いた。
今日はなんとか上手くいったものの、普段の狩りでは僕が足を引っ張ることの方が多い。
そのくせ彼女より飯を食べるのだから、食料の備蓄もかなり減ってきたみたいだ。
収入が減って支出が増えたのだから、当然といえば当然だ。
"そろそろ旅に出る"
今日も今日とてその一言を言い出せないまま、ぽつりと建っている山小屋まで帰ってきた。
ここまでどうにか担いできた鹿を、いつも通り地面に下ろす。
せめてこれくらいは、と始めたのだがこれが中々にキツい。
今日のは大物だったし、尚更だ。
「お疲れ様です。それでは、後は私が」
「うん、お願いするよ」
そして、ここから先は彼女の仕事だ。
僕も見よう見まねで出来ることは出来るのだが、解体作業はやはり彼女の方が断然上手い。
僕がいても手伝えることはないし、とりあえずこの格好をなんとかしよう。
血生臭くてかなわない。
鹿の後ろ足をぶら下げ、喉の傷を開き、血抜きを始めるシンファを尻目に小屋へと入る。
絶やさず常備してある火種で暖炉に火をつけ、鍋に氷を放り込む。
氷がいい具合に溶けて液体になってきた頃合いに、鍋を火から下げた。
そして服を脱ぎ捨て、ぬるま湯に浸した布で体を拭いていく。
乾いた血というのは本当に厄介で、ちょっとやそっとじゃ落ちやしない。
何度もぬるま湯に布を浸し、しっかりと濡らしながらしっかりと身体中の血を拭き取る。
ぬるま湯はほどよい温かさで、血糊と一緒に疲労まで消えていくかのようだ。
汚れを落として服を着た後は、この血まみれになってしまった服の洗濯だ。
木桶に溜めたぬるま湯の中に分厚い服を突っ込み、じゃぶじゃぶと洗う。
乾き始めた血はかなり厄介で、ちょっとやそっとじゃ消えてくれやしない。
いくら洗っても完全には落としきれず、シミになってしまうのだ。
無心で服を擦り続け、ようやく洗い終わろうかといった頃に、シンファが小屋に入ってきた。
彼女の手際はやはり見事なもので、その服にはほとんど血がついていない。
いったいどうやればあんなに上手く解体できるのだろうか。
「おつかれー」
「お疲れ様です、すぐご飯にしますね」
シンファは手についた血を綺麗に洗うと、すぐに食事の支度に取りかかった。
手際よく野菜の皮を剥き、手頃な大きさに切っては鍋に放り込んでいく。
僕らの間に会話はなく、小屋の中には水の音と包丁がまな板を叩く音だけが響いていた。
普段なら、今日みたいに不自然に会話が途切れることはないのだが……。
いつもとは違うこの小屋の空気は、どうにも居心地が悪い。
そのまま、ほとんど会話もなく夕食が出来上がり、黙々と食べ進める。
目の前にいる彼女に目を向けられず、明後日の方を向いたまま固いパンをかじる。
チラッと彼女がこちらをみた気がするが、僕がそっちを向くと目を伏せてしまった。
どうにも居心地が悪くて、僕も目を伏せながらジャガイモのスープを啜る。
いつもなら美味しく感じるこのスープも、今日は何の味もしない。
味覚は刺激されているのに、それどころではないと脳が信号を受け取らないのだ。
『言い出すなら今がよろしいかと』
「うん……」
リッカに言われるも、僕の中ではまだ決められない。
一度揺らいだ決意というものは、そう簡単にどうこうできるものではなかったのだ。
優柔不断にも程がある自分に、いい加減嫌気が差す。
結局、今日も僕は旅の話を切り出せないまま、一日を過ごしてしまった。
このままではいけないという気持ちもある。
けれども、この平穏な暮らしを続けたいという気持ちだってある。
いつまでも彼女の厚意に甘えてはいられないと、頭では理解していても心では理解できていないのかもしれない。
シンファもどこか落ち着かない様子で、暇さえあれば終始尻尾を弄っていた。
何か言いたい時や落ち着かない時、彼女は決まって尻尾を触る癖がある。
何ヶ月も一緒に暮らしていれば、このくらいのことはわかる。
わかるのだが……。