ep.1-2
「っぐしょん」
何度目かもわからないくしゃみが出て、鼻水が垂れてきた。
歯の根が合わず、ひっきりなしにガチガチと音を立てる。
寒さで頭も痛くなってきたし、本当に死んでしまいそうだ。
神様め、なんでいちいちこんな辺鄙な場所に現界させたんだ。
次に会ったら絶対に文句を言ってやる……。
ずるずると鼻水をすすって覚悟を決めると、ジタバタともがいて体全体を揺らす。
「それ!」
思い切り反動をつけて体を揺らした、その時だ。
首の後ろあたりからボキッという音がして、体が宙に投げ出された。
「あ、うわあああぁぁ……!」
心構えこそしていたが、準備はできていなかった。
突然のことに受け身も取れず、大の字のままうつ伏せに地面に落ちた。
「ってて……」
何の因果でこんな目に……。
現界したばかりだが、さっそく帰りたくなってきた。
情けない着地で地面に大きな人型の窪みを残すことになったけど、幸いにも雪がクッションとなりなんとか無傷だ。
装備している革鎧の中まで雪まみれで、すごく冷たい。
……革鎧?
僕はいつの間に革鎧なんて着ていたのだろうか。
立ち上がって身体中を見回してみると、腰には剣を、背中には丸盾まで担いでいた。
ひょっとして、神様からの餞別だろうか。
特別な力こそ無さそうなのは残念だが、それでもありがたいことには変わりない。
『もしもし』
唐突に、どこからか女の子の声が聞こえてきた。
抑揚のない平坦な声だ。
『聞こえてますか?』
声の主を探して周囲を見渡すけれど、月明かりに照らされた森に人の姿はない。
『下です、下を見てください』
声に従って下を見ると、僕の首に何かがぶら下がっているのに気がついた。
それは細い革紐のペンダントで、先には涙型の透き通るような黒い石がついている。
「なにこれ」
革紐を指でつまみ、黒い石を目の前まで持ち上げて観察する。
よく見れば、透き通るような黒い石の奥で白い光がふわふわと浮いていた。
見れば見るほど不思議なもので、ここが地球外の世界なんだと改めて実感させられる。
『はじめまして』
「……え?」
またさっきの声が聞こえた。
脳に直接語りかけてくるような、不思議な女の子の声。
まさかとは思うけど……。
「ひょっとして、さっきから呼びかけてきてるのって、君?」
意を決して石に語りかける。
端から見れば頭が狂ったのかと思われかねないが、ここは剣と魔法のファンタジーの世界だ。
石が喋ってもおかしくない。
『その通りです』
……なんてこったい。
もしかしたらと思ったけど、まさか本当に石と会話する日が来るとは思わなかった。
『私はフローレンシア様により構築された、魔導生命体です』
「ま、マドウセイメイタイ?」
『はい。あなたの世界で言うところの、"えーあい"というところでしょうか』
なるほど、AIか。
人工知能と同じようなものと言われれば、さすがの僕でも理解できる。
そういえば、脳に流れてくるこの声も、棒読みじみた機械音声みたいだ。
『私はあなた、桐原颯真様をサポートするように命令を受けています。わからないことがあればお聞きください』
「わかった」
なるほど、フロルさんが言っていた案内役とは、この子のことか。
右も左もわからないこの世界で、大いに助けになりそうだ。
「それじゃあ、さっそく聞いていいかな?」
『何でしょうか?』
「君の名前は?」
『名前、ですか……』
AIは言いづらそうに言葉を詰まらせると、そのまま押し黙ってしまった。
『私は桐原様がこの世界に降り立つのと同時に、つまりつい先ほど生まれたばかりの人格です。知識もありますし会話こそできますが、人格も未成熟ですし名前もありません』
「そっか……」
つまりは、人格は産まれたての赤ん坊みたいなものなのか。
神様め、せめて名前くらいつけてあげたらどうなんだ。
「じゃあ、まずは君の名前を考えよう」
『名前、ですか』
「うん、なかったら不便だしね」
『なるほど、それではせっかくですしお願いします』
「任せてよ! それじゃあ……」
これから一緒に旅をする大切な仲間の名前だ、ちゃんとしたのをつけてあげないと……。
声的に女の子だろうし、可愛い名前がいいかな。
「……ネコ子、とか?」
『……ドン引きです』
「え」
猫は可愛いし、女の子らしい名前にくっつけたら可愛くなると思ったけど、ダメだったのかな。
『データベースを参照したところ、現代の地球においては"ダサい"を通り越して"あり得ない"に分類されています』
「…………」
そこまで言わなくてもいいじゃないか……。
ネーミングセンスが絶望的だと、妹に散々文句を言われた嫌な記憶が蘇ってきた。
ワン太郎(僕命名)、元気にやってるかなぁ……。
『あ、いい名前ありました。私は"可愛い"ジャンルより、"リッカ"を選択します』
「もうそれでいいんじゃないかな」
『では、私のことはリッカとお呼びください』
……この子、本当に生まれたてで人格が未成熟なのだろうか。
やたらと人間臭い気がする。
『それから、私にはLv判定機能もあります。必要な時は言ってください』
「Lvって、ゲームみたいな感じの?」
『その通りです。Lvを上げるとステータスが上がり、力や素早さが上昇します。なお、頑丈さなどはあまり上がりませんのでご注意ください。どれだけLvを上げても死ぬときは簡単に死にます』
「へ、へぇ……」
なんだか、とんでもない世界に来てしまった気がする。
……けれど、考えようによっては短期間で強くなれる可能性もあるわけだ。
強くなるために何年も鍛練が必要、なんてことになってしまっては目も当てられない。
その点では、このわけのわからない世界の方がありがたい。
『ちなみに、これはフローレンシア様のイタズラ……ではなく、実験でこうなっております。苦情はご本人へどうぞ』
「……またか」
またあの人(?)か。
ただのイタズラでヘンテコな世界を作らないで欲しい。
……そうだ、強さをLvで表せるなら、いい機会だし僕のを測ってもらおう。
「僕のLvとかはわかる?」
『もちろんです。颯真様は現在Lv3です』
「よっしゃ!」
初期値だしLv1かと思ったら、なんとLv3だったのだ。
某ゲームで考えれば、弱い敵相手なら十分に戦える強さがある。
なんだ、案外簡単に───
『人間族成人男性の平均値はLv5です』
「え……?」
『つまり、颯真様は"貧弱"の部類ですね』
……そう簡単にいくはずもなかった。
部活で鍛えてたしそれなりに自信はあったんだけど、それでも平均以下って……。
「はぁ……」
ちょっとショックだ。
こうなったら、早いとこ敵を倒しまくってLvを上げるしかないか。
そうやって決意を固めていると、さっきより幾分か強いリッカの声が頭に響いた。
『この反応は……颯真様、付近に魔物が!』
「ま、魔物!?」
突然のことに声が裏返ったけど、これはいい機会だ。
倒してLvを上げてやる!
腰から剣を抜いて背中から丸盾を取り、その場で身構える。
『敵は一体です、ご注意を』
「わかった」
月明かりの中、敵の姿を見つけようと周囲を見渡す。
戦いなんて初めてで、心臓がうるさいくらいに激しく拍動している。
……いた!
何メートルか先の枯れ木の影だ。
月が二つあるだけあって、夜中だというのに結構明るい。
そのおかげで、枯れ木の影からこちらを窺う魔物の姿がはっきりと見えた。
そいつは薄緑色の球体で、弾力のあるゲル状の体をひっきりなしにぶよぶよと動かしている。
そして、転がるようにしてゆっくりとこちらに向かってくる。
……間違いない。
色も違うし、あの特徴的なニヤケ顔もないが、あいつは間違いなくスライムの類いだ。
スライムといえば雑魚中の雑魚、キングオブやられ役にして序盤のおいしい経験値。
「……ふっ」
僕の口元には、自然と笑みが浮かんでいた。
サクッとスライムを倒して、景気付けがてら経験値をいただくとしよう。
『魔物のLv測定を行います』
「いや、いらないよ」
リッカの声を遮り、雪に足をとられて転ばないように注意しながら走り出す。
雪はさほど深くなく、せいぜい脛まで埋まるくらいだ。
注意していれば転ぶ心配はないだろう。
「でやあああぁぁ!」
右手に持った剣を、思い切り頭上に振り上げる。
剣なんてろくに振ったことはないけれど、叩きつけるくらいのことはできるはずだ。
『無茶です!』
リッカの制止も振り切って、僕はスライムに剣を叩きつけた。
ぶよん、と斬ったというにはあまりにも微妙な感触が伝わってきて、剣がスライムに埋まった。
そのままほとんど抵抗もなくスゥーっと斬れて、ゲル状の身体が真っ二つに両断された。
……決まった。
フロルさんはないって言ってたけど、僕には案外剣の才能があるんじゃないか?
初めて振った剣で、スライムとはいえ魔物を真っ二つに───
『まだです!』
「え?」
突如響いたリッカの声で現実に引き戻された。
目の前のスライムを見ると、そいつは絶命するどころか元気に動き回っていた。
……それも、二つになって。
元々は僕の腰くらいまであった球体が、半分ほどの大きさになっている。
「嘘ぉ!?」
なにそれ聞いてない。
二つに別れたスライムの、左側にいた片割れが大きくへこみ、その反動を使って飛び上がってきた。
偶然にも、スライムは左手に持っていた盾にぶつかったが、それでもすごい衝撃だ。
踏ん張ろうともしたけど呆気なく押し切られ、たまらずに二、三歩後ずさった。
そして目の前には、もう片割れのスライムが迫ってきていた。
スライムは真ん中から上下に裂けて、まるで口を開いているかのような格好だ。
「うわっ!」
咄嗟に顔を庇って突き出した剣に、スライムが食らいつく。
上下から挟まれた剣は、ミシミシと悲鳴じみた音を立てながらひしゃげて、完全に折れ曲がってしまった。
「い……」
そのとんでもない圧力を目の当たりにして、背筋に冷たいものが走った。
もし剣で防げずに頭を飲み込まれていたらと思うと……。
自分の頭を食らい潰される姿が脳裏をよぎり、腰が抜けかけた。
剣を取り落として、さらに数歩後ずさる。
スライムは剣を完全に飲み込んで、まるで咀嚼するかのようにぶよぶよと脈動する。
ものの数秒で剣は見えなくなり、心なしかスライムが一回り大きくなっているように見えた。
……というか、絶対に大きくなっている。
『魔物はLv12です、勝ち目はありません!』
リッカの報告に僕は絶望し、己の迂闊さを呪った。
スライムが雑魚だなんて決めつけなければ、せめてLvだけでも聞いておけば……!
……いくら後悔したところで後の祭りだ。
武器もないのだから、こうなったらさっさと逃げるしかない。
「あっ……!」
踵を返して逃げようとしたところで、雪に足をとられて転んでしまった。
口の中にまで雪と混じった冷たい土が入ってくる。
立ち上がろうとするけど足が滑り、情けないことにまた雪に顔を突っ込んでしまった。
それでも死にたくない一心でじたばたともがき、雪まみれになりながらもひっくり返る。
見れば、二体のスライムは大きくへこみ、飛びかかってこようとしていた。
『早く逃げてください!』
リッカの声が聞こえたけど、今度こそ完全に腰が抜けてしまったみたいだ。
立ち上がることもできず、みっともなくジリジリと後ずさることしかできなかった。
「く、くるなあぁああ!」
喉を枯らして叫ぶけど、知性すらなさそうなスライムに、慈悲など望むべくもない。
ゲル状の身体の一部を飛び散らせながら、二体とも高く跳躍する。
……終わった。
魔物を雑魚だと甘く見て、油断していた結果がこれだ。
馬鹿馬鹿しすぎる死に方に涙も出てこない。
ただ呆然と、僕の頭を目掛けて落ちてくるスライムを見上げる。
───それは、スライムが僕の頭を飲み込む寸前のことだった。
「二連・火炎ノ呪!」
どこからか飛来した炎の球が二体のスライムを正確に捉え、吹っ飛ばしたのだ。