ep.0
2013年6月20日、午後6時20分
「じゃあね、拓也、翔子。また明日!」
部活仲間であり友達でもある二人に別れを告げて、勢い良く自転車をこぎ出す。
ここから先は坂道で、加速してしまうのはすぐだった。
「おう、また明日な!」
「気をつけて帰りなさいよー!」
少し遠くから聞こえてくる二人の声に後ろ手で応え、適度にブレーキをかけて減速しながら坂道を下っていく。
季節が巡るのは早いものだ。
この前進級して三年生になったかと思えば、もう気の早い蝉が鳴いている。
泣いても笑っても今年で最後。
間近に迫る総体のことを考えると、自然と部活にも力が入るというものだ。
「~~~~♪」
もうすぐ夏とはいえ、夕刻にもなれば風はまだ少し冷たい。
泳いで濡れた髪が風になびき、ひんやりとしていて気持ちがいい。
……もう少し、スピードを出してもいいかな。
少しだけブレーキを緩め、さらに加速して人気のない坂道を下っていく。
泳いだ後はかなりお腹が減る。
買い食いしていくお小遣いもないし、早いとこ帰って晩御飯を食べたいな。
さっきよりも強くなった風を一身に受け、僕は鼻歌混じりに坂道を下っていった。
坂道を下り終え、スピードを落として街中を走る。
こんな大切な時期に事故を起こすわけにもいかないし、坂道とは違って他の人もいる。
ここからは安全第一だ。
田舎町だけあって歩道はそこそこ広く、端を通ればさほど邪魔にもならないだろう。
知らぬ間に中断していた鼻歌を再開して、人通りが増えてきた町中を気分良く走り抜ける。
「おっと」
目の前の信号機が点滅して、赤に変わった。
横断歩道の前に立ち止まっているお爺さんに自転車をぶつけないよう注意しながら、両手でブレーキをかけて自転車を止めた。
早く帰ってご飯を食べたいのに、ここで捕まるなんて運がない。
ここの信号機は全然変わらず、地元ではめんどくさい信号機として有名なのだ。
ボーッと待っているのも退屈で、周囲へ適当に視線を巡らせる。
……隣で信号機が変わるのを待つお爺さんに目が止まった。
お爺さんの体は、傍目から見ても心配になるくらい小刻みに震えているのだ。
地面についた杖が、カタカタと音を立てている。
大丈夫かなと思いお爺さんを眺めていると、いつの間にか信号機が変わっていた。
あんなにじろじろ見て、失礼だったかな……。
心の中でお爺さんに謝りつつ、車が来ないのを確認して自転車をこぎ出した。
「ッ……───!」
ペダルを踏み込みかけた、その瞬間だ。
左胸の奥が急に締め付けられるような、鼓動が跳ね上がるような、そんな激痛が僕を襲った。
「あっ、く……あ、ぁ……」
思わず両手で左胸を押さえるが、そんなことはなんの解決にもなりはしない。
呼吸すらまともできなくて、苦しさに喉が喘ぐ。
いったい何がどうなって……。
踏ん張っていられなくなり、自転車がガシャンと音を立てて体ごと倒れる。
けれども、僕はもうその痛みすら感じられなかった。
ただただわけがわからないまま、僕の意識は深い深い闇に覆われていった。
そして、もう何も考えることはできず、完全に闇に包まれて呆気なく消失した──……
「───って、あれ?」
ふと目を開けると、目の前には一面のお花畑が広がっていた。
色も形も地球にありそうな花だけど、ぼんやりと発光しているような、神秘的な美しさがある。
これは……花の香りだろうか。
ほんのりと甘い香りが、お花畑全体に漂っている。
「……ここどこ?」
こんな綺麗な場所、テレビでもインターネットでも見たことがない。
それ以前に、さっき僕は倒れたはずじゃ……。
「……あ」
辺りを見回していると、右側に細いポールのようなものを発見した。
地面から生えているそのポールは、真っ直ぐ上に伸びている。
見れば、反対側にも同じような白いポールがある。
ポールの上にはアーチ型の看板が取り付けられていて、どうやら何か書いてあるようだった。
あれを読めば、何かわかるかもしれない。
何歩か下がって上を見上げ、看板の文字を読み上げる。
『ようこそ天国へ』
「…………」
ちょっと意味がわからないよこれ。
きっとタチの悪いイタズラか、そうでなければテレビ番組のドッキリ企画だ。
いきなり目が覚めたら天国にいましたー、なんて都合が良すぎる、絶対に。
そもそも、僕の両足だってちゃんとついて───
瞬間、上空を覆っていた雲から、七色に光る半透明の螺旋が姿を現した。
それは看板の向こう側の地面からも現れて、螺旋を描きながら真っ直ぐ上空へと伸びていく。
そしてその丁度真ん中で、二つの螺旋が合体した。
よく見れば、その螺旋の柱には段がついている。
「……階段?」
そう、それはどう見ても階段だった。
雲の上まで続く、七色に光る半透明の螺旋階段。
それは、この世のものとは思えないくらい美しかった。
……い、いや、だとしても、ここが天国だということにはならない。
最近はCG技術だってすごいし、このくらいできたって不思議じゃない……と思う。
階段を前に立ち尽くしていると、向こう側から一つの人影が駆け寄ってきた。
長い金色の髪が目立つ、ふわふわとしたローブのような衣装を身に纏った女性だ。
丁度いい、あの人に事情を聞いてみよう。
「あ、あの……───」
声をかける寸前に、女性は走りながら右手を振った。
それと同時に僕の声がかき消えて、全身から重さまでもが消え失せた。
体が一瞬浮いたかと思うと、次の瞬間には足が地面についていた。
しかし、そこはもうさっきまでのお花畑ではない。
薄青色のカーペットが張られた床に、いくつも並んでいる業務机。
その机に向かい合って、幾人ものスーツ姿の人がパソコンに何かを打ち込んでいる。
キーボードを叩く音だけが響くその空間は、さながらどこかのオフィスのようだ。
……さっぱりわけがわからない。
どうしようか迷っていると、長身のスーツ姿の女性が僕の隣を通りがかった。
「あの、すいません……」
「あら、可愛い坊やね。あと五百くらい歳を取ればデートくらいしてあげてもいいわよ」
「は、はぁ……」
それだけを言うと、お姉さんは歩いて行ってしまった。
あと五百くらい歳を取って……?
普通に考えて、それだけの年月が経てば僕なんてとっくに骨だけになってしっているだろう。
……どういうこと?
頭を悩ませていると、目の前にまたも女性が歩み寄ってきた。
ふわふわした白いローブのような衣装を着ている、さっき駆け寄ってきた女性だ。
金色の髪を後ろで束ねたその女性は、息を弾ませながらいきなり頭を下げた。
「すいません! その、こちらへどうぞ……!」
「は、はい?」
……僕、何か謝ってもらうようなことされたっけ?
未だに事情がさっぱり飲み込めないが、とりあえずは案内に従って女性の後を追う。
女性に案内されたのは、オフィスの一角に少し上等な机を構える男性のところだった。
頭がいい具合に寂しくなってきた、サラリーマンのおじさんみたいな風貌だ。
さながら、ここで働いている人達の上司といったところだろうか。
上司のおじさんは僕らに気がつくと、ペンを止めて立ち上がった。
「あー、フロル君、この子が君の間違えてしまったという子かね?」
「はい……」
フロル君と呼ばれた女性は、僕の隣で申し訳なさそうに身を縮めている。
上司は深くため息をつくと、今度は僕の方へ向き直った。
「君は、今の状況がわかっているのかね?」
「いえ、何も……」
「なんと、説明もまだか……」
上司はさらに深いため息をつき、頭を振りながらゆっくりと口を開いた。
「君、桐原颯真君は、この新米の手違いで死んでしまった」
「え?」
いきなり突きつけられたのは、そんな言葉だった。
死んだと言われてもあまりにも実感がなく、まるで夢の中にいるかのような気分だ。
「いや、でも……」
「信じられないというなら、頭の上を触ってみたまえ」
言われるがままに頭の上に右手をやると、指先に硬質のモノが触れた。
驚いて両手で触ってみると、それはどうやら薄い輪状のモノらしい。
「あの……鏡とかってありますか?」
「ほら」
上司が手を振ると掌に手鏡が現れ、僕の前に突きつけた。
その手鏡に映る僕の頭上には、黄色くて薄い輪っかがふわふわと浮いていた。
さながら、というか完全に天使の輪だ。
僕は本当に死んでしまったの? っていうか何で手を振っただけで手鏡を出せるの? そういえばさっきも瞬間移動じみたことされたよね? そもそもここどこ?
今までの疑問が一気に溢れてきて、僕の頭はもうパンク寸前だった。
しかしこの上司は、そんな様子の僕にも一切お構いなしに話を続ける。
「本来死ぬべきは、あの時君の隣にいた老人だったのだが……心当たりはないかね?」
「……あー」
大量の疑問を必死に押し込めて、どうにか倒れる寸前のことを思い出してみる。
……そういえば、交差点で信号が変わるのを待っている時に、隣にお爺さんが一人いたっけ。
どうやら、あのお爺さんが亡くなるはずだったのに、代わりに僕が死んでしまったらしい。
……信じたくはないけど。
「ご、ごめんなさい!」
フロルさんが、もう一度深々と頭を下げた。
「謝って済むことではないだろう。……本当なら、このことは君には知らされず、君は天国へ行くはずだった。
しかし、君は運がいい! ちょうど我々には人手が足りていなくてね」
間違いで死なされた身としてはここにいる時点で不運なのだが、話の腰を折りそうなので黙っておく。
それに、もし人手が足りていれば、僕は何も知らされずに天国送りだったそうな。
……なんというか、恐ろしい人達だ。
その上、僕はもう死んでしまったのだ。
人手が足りてないから呼ばれたということは、何か仕事をさせられるのだろうか。
……間違いなんかで死なされてしまったのだから、せめて静かに過ごさせて欲しい。
「嫌そうだな」
「う……」
考えていることが顔に出てしまっていたのだろうか。
し、しかし、なんと言われようが嫌なものには変わりがな───
「仕事を引き受けてくれれば、生き返らせてあげてもいい」
「まじっすか」
───さあ、今日から元気にお仕事といこう。
「では引き受けてくれるかな?」
「あ、はい、でも……」
「うん? どうしたのだね?」
「その……内容の方は……?」
僕はもう死んでしまった(らしい)身だ。
生き返らせてもらえるのなら、なんでもやってやる。
けれども、やっぱり事前に内容くらいは教えて欲しい。
「おおっと、うっかりしていた」
上司は初めて笑みを浮かべると、自分の頭をピシャリと叩いた。
そしてすぐに真剣な表情に戻って、おもむろに口を開く。
「君に頼みたいこと、それは……」
この時、僕はまだ知る由もなかった。
「───世界を救うことだ」
この瞬間、僕の途方もなく長い旅が始まったということを。