【母の変化】-第一話-
わたしが、この世に生を受けてから、半年たった頃の話です。
母は、もともと社交的だったようで、家事と子育てだけという、誰とも会話をする事もできず、黙々と、決められた事をする、ありふれた日常に退屈していたのでしょう。
長男の嫁として、農家を継がなくてはいけないのか?というプレッシャーもあったり、近所のお嫁さんも、『外に働きに出ている』というのを聞けば、羨ましがったり……。
自分だけが、こんな事をして、一日が終わってるのかしら?と、世間から取り残されたような気持ちで、毎日を過ごしていたのかもしれない。
大婆ちゃん、大爺ちゃん、お婆ちゃん、お爺ちゃん、母、父、わたしの七人家族。
わたしの世話をしながら、七人家族の家事といったら……大変だったろうな。と思うし、ましてや、自分の時間などは、なかったろうな。とも思う。
農家といえば、朝も早くから、家族総出で仕事を始め、朝食、十時のお茶、昼食、三時のお茶、夕飯の準備と、一日のうちに、台所へ立つ時間だけで、嫌になるだろう。
当時は、農家の仕事も、機会を使う事も少なく、家族だけでは人手が足りず、近所で助け合い、一緒に仕事をしていたらしい。
そのため、手伝いの人達の食事も、用意しなくてはならなかったのだから……
「あるもので、食べてくれる?」
なんて、呑気な事も言ってられず、それなりに手をかけた、食事を用意しなければならなかったのだろう。
――ある夜――
母は一度、気持ちを落ち着かせるように、大きく深呼吸してから、ハッキリとした口調で父に言ったそうだ。
「わたし! 外に働きにいこうと思うの」
キラキラと、目を輝かせて話す母に、父も耳を傾けた。
「急にびっくりするじゃないか…」
「急になんかじゃないのよ!」
「美女はどうするんだ?」
「うちには大婆ちゃんも、お婆ちゃんもいるじゃない! 近所の人達だって、働きに出てるのよ。私も働きたい! あなたから話してみてよ! お願い」
今までには、したこともない土下座をし、床に額をこすりつけるように、深々と頭を下げる母をみて、父は、言おうとした言葉をグッとのみ込み、静かに言ったそうだ。
「わかったよ……大婆ちゃんには、明日言ってみるよ」
「本当! 嬉しい! 仕事行く前も、帰ってからも、美女の事は、きちんとするから」
「わかったよ。それだけは、頼んだよ。」
母は、満面の笑みを浮かべ、喜んでいたそうだ。
――次の朝――
さっそく父は、大婆ちゃんに、昨夜の話しを、してみることにした。
大婆ちゃんは、困惑した表情で黙って聞いていたが……
「そうかー。ふみ子さんも、まだ若いしなー。しょうがないだろ。美女は、わしが面倒みるさ」
うつむいたまま、そう言って、父と視線を逸らすように、仕事に出かけていったそうだ。
その時、外に働きに行く事を、反対していたら……。
後になって、誰もが思っていただろう……
――それから四ヶ月が過ぎた頃――
母は、毎日、勤めに出ていた。会社のマイクロバスが、送迎してくれる工場へと。
外に出るようになり、環境も変わったせいか、母は、キラキラ輝いていたそうだ。わたしの事も、大婆ちゃんが面倒をみてくれ、家事も、お婆ちゃんが助けてくれている。
初めのうちは
「すみません、行ってきますね」
「ただいま、ありがとうございました」
と、家族への気遣いも怠らなかった母も、勤めて四ヶ月もたってくると……
「時間がないから行きます」
「あっ! それと、あんまり抱っこばかりしないでね!」
「抱き癖つくと、困るの私だから!」
「はぁ……おそくなっちゃったぁ。疲れた。」
「あれ? またオンブですか? 寝かせといていいのに!」
「今日はお魚食べたかったなぁ……」
言動も変わり、お礼の言葉や、労いの言葉など、一言もでなくなり、これが当たり前なんだ!というような毎日が、繰り返されるようになった。
――ある日の夕方――
「あれ? 今、マイクロ通ったけど、ふみ子さん、今日はまだ帰ってこないのかい?」
大婆ちゃんは、わたしを抱きながら、父に問いかけてみた。
「今日は残業だから、仲間に乗せてきてもらうって」
「あぁーそうか。大変だねぇー」
と、父に言い、そのあとに……
「美女やぁー! ママは、大忙しなんだってよー」
と、まだ言葉もわからないような、わたしに、皮肉ともとれる言い方をしていたそうだ。
「わりいな。ばあちゃん。頼むよ」
父は、母の楽しそうに、仕事へ行く顔を思い出していたのだろう。すまなそうに、頭をペコっと下げ、仕事を続けた。
それからも度々残業で遅くなる母……。
――その夜――
わたしを、寝かしつけ、鏡台の前に座る母に、父が問いかけてみた。
「みんなも忙しいし、残業は断れないか?」
「んーー無理よ! 仕事は楽しいし、それに、私、一人欠けると、大変なの」
「そうか……でも、なるべくは、定時に帰るようにしてくれ。頼むよ」
「そうねー」
そう言い終わるか、終わらないうちに、ドライヤーで、髪を乾かし始める母の表情を、父は、鏡越しに見つめた。
鏡にうつる、母の顔は、父の話など考えてる様子もなく、聞き入れてないような、あっけらかんとした表情に、見えたらしい。
――カレンダーは12月――
母も仕事が休みになり、わたしの世話、お正月の準備と、慌しい毎日を過ごしていた。
なりふり構わず、忙しそうに、動いてる母の姿は、父の目に新鮮にうつっていたそうだ。
忙しない一日も終わり、一段落ついた頃
「わたし、お正月は、美女を連れて、実家に泊まってもいいかな?」
「ははぁん! それでだな! 今日は、口も聞かずに、夢中して働いてるなって、思ってたんだよ」
「えっ??」
「今夜、これを言おう! って決めてたんだな」
「そんな事もないわよ」
「そうか? いいよ。行ってこいよ。お義母さんも、美女に会いたいだろ。俺も行こうか?」
「んーそうね。後からいらっしゃいよ。先に二人で行ってるから」
「そうだな。じゃー、明日送って行くよ」
「ありがとう。何日か泊まるとなると、子供の荷物って、結構あるからね……助かるわ。お願いします」
「たまには、ゆっくりしてこいよ」
その後の母は、友達と、旅行にでも行くかのように、ウキウキ、嬉しそな表情で、明日の準備を始めたそうだ。
その様子を、父は、自分と知り合った頃の、母とオーバーラップし、照れ臭くなり、わたしの布団にもぐり込んで、寝たそうだ。
この時の母は、既に、決めていたに違いない。
これから、自分が歩んでいこうとする、幸せへの進路を……。