婚約破棄ですか? それでは決闘いたしましょう
勢いだけで書いた決闘令嬢が楽しかったので二作目書いてみてシリーズ化しました。
ノルディア王立学園の卒業祝賀会。
十八歳を迎え、晴れて成人となった卒業生たちを祝う大広間には、
色とりどりの花が飾られ、軽やかな音楽と楽しげな笑い声が満ちていた。
三年前、この同じ卒業祝賀会で、一人の侯爵令嬢が婚約者へ決闘を申し込み、
魔導銃で胸元の薔薇を撃ち抜いたという話は、今でも学園の語り草になっている。
もっとも、その夜もまた決闘騒ぎが起こるなどとは、誰も思っていなかった。
「卒業したら、すぐ王宮勤務なの?」
大広間の一角で、
アンネローゼ・フォン・シルバーベルクは隣に立つ青年へ尋ねた。
十八歳。シルバーベルク伯爵家の一人娘であり、次期当主。
身長は百六十センチほどで、すらりと細身。
暗い褐色の髪は、今夜は普段より少しだけ柔らかく三つ編みにまとめられ、
琥珀色の瞳の前には飾り気のない眼鏡がかけられている。
成績優秀で真面目な努力家。
卒業後は父である伯爵のもとで領地経営や商取引を本格的に学び、
いずれは伯爵家を継ぐつもりでいる。
だが、華やかな令嬢の多い学園では目立つ方ではない。
大人しく、地味で。
そして何より、魔法の才能がほとんどない令嬢。
周囲からは、そう思われていた。
「うん。まずは下っ端からだけどな」
答えたのはフェリクス・フォン・ヘッセン。
アンネローゼと同じ十八歳。ヘッセン伯爵家の次男で、
卒業後は王宮で官僚として働くことが決まっている。
百七十八センチほどの背丈に黒い髪、濃い緑色の瞳。
誰もが振り返るような派手な美貌ではないものの、
気さくで人当たりがよく、男女を問わず友人の多い青年だった。
そしてアンネローゼとは、
隣り合う領地で幼い頃から一緒に育った幼なじみでもある。
「アンネは?」
「しばらくはお父様について勉強するつもり。
鉱山のこともそうだけど、最近始めた事業の方も覚えたいし」
「また勉強か。無理すんなよ?」
「フェリクスに言われたくないわ。
王宮へ入るための試験勉強、ずっとしてたでしょう?」
「俺はもう終わったからいいんだよ」
昔から変わらない気安いやり取りに、アンネローゼは柔らかく笑った。
本当なら今夜、彼女の隣にいるべきなのはフェリクスではない。
婚約者であるアルノルト・フォン・アイゼンベルクのはずだった。
だが、彼は今夜もアンネローゼを迎えには来なかった。
それどころか先ほどから、別の少女を伴って会場内を歩いている。
「……なあ、アンネ」
フェリクスの視線が、少し離れたところにいるアルノルトへ向いた。
「なに?」
「本当に、あれ放っといていいのか?」
「またその話?」
「今日くらい、お前をエスコートするのが普通だろ」
アルノルトの隣には、
ふわふわとした癖のあるクリーム色の髪を顎のあたりで揃えた、小柄な少女がいる。
大きな蜂蜜色の瞳が印象的な、どこか小動物を思わせる可愛らしい少女。
クララ・フォン・リンデン。
十六歳。アンネローゼたちより二学年下の男爵令嬢だった。
「私が何を言ったところで聞かないわ」
アンネローゼは静かに答えた。
「アルノルト様は、私を自分より下だと思っているもの」
フェリクスの眉間に皺が寄った。
「……俺、それが一番気に入らないんだけど」
「フェリクスが怒らなくてもいいのよ」
「怒るだろ。昔から知ってるやつが、そんな扱いされてんだから」
アンネローゼは一瞬だけ言葉に詰まった。
昔から知っている。
その一言の向こうにあるものを、聞いてはいけない気がしていた。
自分には婚約者がいる。
十四歳の頃から、ずっと。
だからアンネローゼはいつものように笑って、話を終わらせようとした。
その時だった。
「アンネローゼ・フォン・シルバーベルク!」
大広間へ、よく通る男の声が響いた。
アルノルトがクララを伴い、こちらへ歩いてくる。
周囲の視線が集まる中、彼はアンネローゼの前で足を止めると、堂々と言い放った。
「私は今日限りで、お前との婚約を破棄する!」
大広間が静まり返った。
アンネローゼは眼鏡の奥でゆっくり瞬きをする。
隣ではフェリクスが、
「……は?」
と低い声を漏らした。
そして何より。
アルノルトの隣にいるクララまで、大きな瞳を見開いていた。
「……え?」
どうやら彼女も知らなかったらしい。
アンネローゼはその反応を一瞬だけ確認してから、アルノルトへ視線を戻した。
「婚約破棄、ですか?」
「そうだ」
アルノルトは胸を張った。
「私はもう耐えられない。
お前のような地味で、何の取り柄もない女と結婚するなど」
「……そうですか」
アンネローゼの返事は、それだけだった。
泣きもしなければ、怒りもしない。
アルノルトは明らかに拍子抜けした顔をした。
「何だ、その態度は」
「婚約を解消なさりたいのでしたら、両家で正式に話し合えばよろしいと思います」
「やはり可愛げがないな」
「そうでしょうか」
フェリクスの顔が少しずつ険しくなっていく。
だがアンネローゼ自身が何も言わない以上、口を挟むことはしなかった。
アルノルトはそれを、自分が優位に立っているからだとでも思ったらしい。
「昔からそうだ。地味な格好ばかりして、社交の場へ連れて歩いても華がない。
魔法だってろくに使えないだろう?
学園へ何年通っても、まともな術ひとつ見せたことがない」
アンネローゼは黙って聞いていた。
自分が地味だと言われることも、
魔法が使えないと思われることも、どうでもよかった。
事実、学園で魔法を披露したことはほとんどない。
実技でも、ごく僅かな魔力を流すだけ。
周囲に『魔法適性の低い令嬢』と思われていても、一度も訂正しなかった。
「そもそもシルバーベルク家に価値があるとすれば、鉱山と金くらいだろう」
そこで、アンネローゼの琥珀色の瞳が僅かに細められた。
アルノルトは気づかない。
「お前の父親もそうだ。伯爵だというのに、
庶民の商人みたいにあれこれ事業へ手を出して、金儲けに必死になっている」
大広間の空気が変わった。
アンネローゼは静かに顔を上げた。
「……アルノルト様」
「何だ」
「今のお言葉を、撤回してください」
声を荒らげたわけではない。
それでも、長年彼女を知るフェリクスには分かった。
アンネローゼは怒っている。
自分が馬鹿にされても大抵は受け流す彼女が、
家族を侮辱されることだけは昔から許さなかった。
「何を撤回しろというんだ」
「父への侮辱です」
「侮辱?」
アルノルトは鼻で笑った。
「事実を言っただけだろう。伯爵ともあろう者が、商売にばかり夢中になって――」
「そうですか」
アンネローゼは一度だけ小さく息を吐き、眼鏡の奥からまっすぐアルノルトを見た。
「それでは、決闘いたしましょう」
「…………は?」
大広間のあちこちから、息を呑む音がした。
その直後。
「……また?」
誰かが小さく呟いた。
「三年前も卒業祝賀会だったよな」
「エーレンヴァルト嬢の件か?」
「あの魔導銃の?」
「今度は何だ?」
ざわめきが広がっていく。
フェリクスは片手でこめかみを押さえた。
「……アンネ」
「なに?」
「いや」
止める気はなかった。
むしろ、よく言ったと思っている。
◇
ノルディア王国には、
貴族同士の名誉に関する争いを決着させる正式な決闘制度が残されている。
互いの胸元に一輪の薔薇を留め、相手の薔薇を先に散らした者が勝者。
剣なら刃引きされた決闘剣。
魔導銃なら人体を傷つけない専用弾。
魔法を用いる場合は決闘者の身体、衣服、装飾品へ強力な防護魔法を施し、
さらに決闘区画全体を結界で囲う。
ただし、胸元の薔薇だけは防護魔法の対象外。
相手を傷つけることなく、その一輪を散らすことで勝敗を決める。
「申し込まれた側には、武器を選ぶ権利があります」
立会いを務める魔術教師が確認した。
「何を使用されますか?」
アルノルトはアンネローゼを見て、嘲るように笑った。
「剣ではさすがに、お前に勝ち目がないだろう」
アンネローゼは何も言わない。
「そうだな。魔法にしよう」
周囲が僅かにざわめく。
アルノルトは満足げに続けた。
「魔法なら、お前にも多少は勝負になるかもしれないしな」
少し離れた場所で、フェリクスが目を閉じた。
「……あーあ」
隣にいた友人が振り返る。
「何だ?」
「いや。本人が選んだなら仕方ない」
「だから何が?」
「もういい」
アンネローゼは、いつもの静かな表情のまま確認した。
「魔法で、よろしいのですね?」
「何度言わせる」
「承知いたしました」
そして魔術教師へ向き直る。
「先生」
「何でしょう」
「アイゼンベルク様には、
学園で使用可能な中で最も強力な防護魔法をお願いいたします」
教師が眉を寄せた。
「最も強力なものを?」
「はい。万が一、怪我をさせてしまってはいけませんので」
「はっ」
アルノルトが笑った。
「随分な自信だな」
フェリクスはもう何も言わなかった。
ただ、心の中で思う。
――本当に何も知らないんだな。
アンネローゼは魔法が使えないのではない。
使っていないのだ。
◇
決闘は学園の中庭で行われることになった。
結界の外には卒業祝賀会の参加者たちが集まり、成り行きを見守っている。
アルノルトとアンネローゼの胸元には、それぞれ一輪の赤い薔薇。
二人の身体には規則通り防護魔法が施され、
さらにアルノルトには、アンネローゼの希望によって、
教師数名が学園内で許可される最高強度の防護を重ねていた。
「本当にここまでする必要があるのか?」
アルノルトは不満そうだったが、教師たちはアンネローゼの申し出を受け入れた。
対するアンネローゼは、いつもの眼鏡をかけたまま静かに立っている。
「その眼鏡をかけたまま戦うつもりか?」
アルノルトが嘲るように言った。
アンネローゼは眼鏡の蔓へそっと触れる。
「いいえ。始まる前に外します」
「なら、最初から外しておけばいいだろう」
「それはできません」
「なぜだ?」
アンネローゼは少しだけ困ったように笑った。
「必要なものですから」
その眼鏡には、シルバーベルク領で採掘される希少な魔導鉱石が加工されている。
それは極めて高い魔力絶縁性を持つ特殊な鉱石で、
眼鏡を装着している間、アンネローゼの魔力は外界とほぼ完全に遮断される。
つまり、これをかけている限り、
アンネローゼは本当に魔法をほとんど使えない。
「それでは、双方準備を」
教師の声に、アンネローゼは結界の端で見守っているフェリクスへ歩み寄った。
「フェリクス、お願い」
「はいはい」
慣れたやり取りのまま、アンネローゼはそこで初めて眼鏡を外し、
フェリクスへ眼鏡を手渡すと、アンネローゼはすぐに結界の内側へ戻った。
その頃には、彼女の周囲の空気が目に見えて変わり始めていた。
琥珀色の瞳の奥に淡い光が灯り、暗い褐色だった髪へ根元から冷たい光が走る。
やがて髪全体が淡い水色へ変わっていく頃には、
彼女の周囲で空気中の水分が細かな氷晶となり、
月明かりを受けてきらきらと輝き始めていた。
ダイヤモンドダスト。
アンネローゼは、ただ立っているだけだった。
それなのに周囲の気温は一気に下がり、足元の芝生には白い霜が広がっていく。
「…………え?」
誰かが呟いた。
「な……何だ、それは」
アルノルトの顔から、先ほどまでの余裕が消える。
魔術教師たちも息を呑んでいた。
「シルバーベルク嬢……君の魔力量は……」
アンネローゼは少し困ったように眉を下げた。
「ですから、普段は使わないようにしているのです」
「使えないのでは……?」
「いいえ」
アンネローゼは首を振る。
「加減が、あまり得意ではないので」
フェリクスが小さく息を吐いた。
昔からそうだった。
幼い頃、ほんの少し池の水を凍らせようとして、水面すべてを凍結させた。
庭へ雪を降らせてみたいと言って、
屋敷の周辺だけ真冬のようにしてしまったこともある。
そのたびに大量の魔力を一気に放出して、自分自身が魔力酔いを起こして倒れた。
だから、眼鏡を使うようになった。
それ以来、アンネローゼは魔法を封じて生きてきた。
周囲の驚きなど気にした様子もなく、
アンネローゼはフェリクスに背を向け、所定の位置へ戻った。
「それでは」
教師が少し緊張した声を出す。
「始め!」
アルノルトが先に動いた。
杖の先から放たれた炎の塊が、真っ直ぐアンネローゼへ向かう。
けれど彼女は避けなかった。
防御魔法を展開する様子さえない。
炎が、アンネローゼの周囲に舞うダイヤモンドダストへ触れる。
その瞬間。
燃え盛っていた炎が急速に勢いを失い、白い霧へ包まれたかと思うと、
彼女へ届くより遥か手前で跡形もなく消滅した。
「…………は?」
アルノルトが呆然とする。
アンネローゼ自身も、特に何かをしたわけではない。
ただ彼女の周囲には、溢れ出す氷属性の魔力によって常時、
異常な低温空間が形成されている。
並程度の炎魔法では、その領域へ踏み込むことすらできない。
アンネローゼは消えた炎を見て、小さく瞬いた。
「……よかった。今の程度でしたら、何もしなくても大丈夫そうですね」
アンネローゼが右手を向けた。
「では、こちらから参ります」
次の瞬間、アルノルトの身体には何一つ触れることなく、
胸元の赤い薔薇だけが一瞬で白く凍りついた。
「なっ……」
ぱきん。
澄んだ音を立てて、凍結した薔薇が砕け散る。
赤い花弁は細かな氷片となり、きらきらと光を反射しながら地面へ落ちていった。
誰もすぐには声を出せなかった。
立会いの教師が散った薔薇を確認し、ようやく口を開く。
「勝者――アンネローゼ・フォン・シルバーベルク」
アンネローゼは腕を下ろした。
そして、安堵したように小さく息を吐く。
「……よかった」
教師が振り返る。
「何がです?」
「ちゃんと、薔薇だけで止められました」
「……そこを心配していたんですか?」
「はい」
教師はしばらく何も言えなかった。
◇
決闘が終わっても、周囲の視線はアンネローゼへ集まったままだった。
眼鏡を外した彼女は、先ほどまでとはまるで印象が違う。
淡い水色の髪。
魔力を宿して金色に輝く琥珀の瞳。
周囲へ舞い続けるダイヤモンドダスト。
「あれが……シルバーベルク嬢?」
「綺麗……」
「それより、あの魔力量は何なんだ」
「どうして今まで誰も知らなかった?」
ざわめきの中。
真っ先にアンネローゼへ歩み寄ったのはアルノルトだった。
「アンネローゼ」
「はい?」
「婚約破棄の件だが……少し考え直してやってもいい」
アンネローゼが瞬く。
「なぜです?」
「なぜって……私は、君のことを誤解していた」
アルノルトの視線は、淡い水色の髪と、
まだ周囲へ溢れている膨大な魔力へ向けられていた。
少し離れた場所で、クララの表情が変わる。
「……アルノルト様」
「何だ」
「私には、アンネローゼ様との婚約は、
家同士が決めただけのお飾りだと仰いましたよね」
「それは――」
「アンネローゼ様もあなたを必要としていないから、
今日の夜会へ私が一緒に来ても何の問題もないと」
「クララ、今は――」
「私、今日ここで婚約破棄なさるなんて知りませんでした」
周囲がざわめく。
クララはぎゅっと両手を握りしめた。
「それに……私には、『君しかいない』と仰いましたよね」
「待て」
「なのに、アンネローゼ様の本当のお姿を知った途端、
婚約破棄を取り消すのですか?」
アルノルトが言葉に詰まる。
クララはその顔を見つめ、やがて小さく首を振った。
「……もう結構です」
小動物のような印象の少女が、珍しくはっきりと言い切り、
一歩アルノルトから離れた。
その頃には騒ぎを聞きつけ、両家の親たちも集まっていた。
シルバーベルク伯爵夫妻はまず娘に怪我がないことを確認し、
事情を聞くと揃って顔を険しくした。
「娘だけならまだしも、私の仕事まで随分と馬鹿にしてくれたそうだね」
シルバーベルク伯爵が穏やかな声で言う。
穏やかすぎて、逆に怖かった。
一方、アイゼンベルク侯爵は深く息を吐いた。
「……アルノルト」
「父上、ですが――」
「黙れ。これ以上、我が家に恥をかかせるな」
侯爵は息子をぴしゃりと黙らせると、シルバーベルク夫妻へ頭を下げた。
「このたびは、愚息が大変な非礼を働き申し訳ない。
婚約者としての態度に問題があることは承知していたが、
結婚して責任を持てば多少は落ち着くだろうと考えていた。
こちらの見通しが甘かった」
侯爵夫人も苦い顔でアンネローゼへ謝罪する。
それでもアルノルトはまだ口を挟もうとした。
「父上!しかし、婚約については――」
「帰るぞ。今すぐだ」
そうして、アルノルトは両親によってその場から連れていかれた。
騒ぎが一段落すると、クララがおずおずとアンネローゼへ近づいてくる。
「……シルバーベルク様」
「はい」
「私、聞かされていたことをそのまま信じていました。
貴族の婚約は家同士が決めるものだから、形だけの関係も珍しくないと……
アンネローゼ様も気にしていないから大丈夫だと」
大きな蜂蜜色の瞳が伏せられる。
「知らなかったからといって、何も悪くないとは思っていません。
軽率でした。申し訳ありません」
アンネローゼは少し驚いたように少女を見つめ、それから柔らかく笑った。
「謝ってくれてありがとう。
あなたも、今日初めて知ったのでしょう? 婚約破棄するつもりだったことを」
「……はい」
「それなら、これから気をつければいいのよ」
「……ありがとうございます」
クララが頭を下げてその場を離れていくのを見送っていると、
背後から聞き慣れた声がした。
「アンネ」
フェリクスは彼女の前まで来ると、胸ポケットから預かっていた眼鏡を取り出した。
「ほら、眼鏡。お前、そろそろ酔うだろ?」
「……あ」
完全に忘れていたらしい顔をしたアンネローゼに、
フェリクスは呆れたように眉を下げる。
「やっぱり忘れてたな」
「少しだけよ」
言い訳しながら眼鏡を受け取り、アンネローゼは慣れた手つきでかけ直した。
途端に、周囲へ満ちていた魔力がすっと薄れていく。
金色に輝いていた瞳は元の琥珀色へ戻り、
淡い水色だった髪も根元からゆっくりと暗い褐色へ変わっていった。
空中を煌めいていたダイヤモンドダストも消え、
そこにはいつものアンネローゼが立っている。
フェリクスはその顔を覗き込み、今度は少し真面目な声で尋ねた。
「気持ち悪くないか?」
「少しだけ。でも、大丈夫よ」
案の定の答えに、フェリクスは小さく息を吐いた。
「アンネの『大丈夫』は昔から信用してない」
「もう、フェリクスは心配しすぎ」
そう言って笑ったものの、
魔力を抑えた反動で一気に寒さを感じたのか、アンネローゼの肩が小さく震える。
それを見逃さなかったフェリクスは、
何も言わずに自分の上着を脱ぐと、そのまま彼女の肩へかけた。
「フェリクス?」
「寒いだろ?」
「でも、あなたが寒くなるわ」
アンネローゼが返そうと上着へ手をかけると、
フェリクスはその手を軽く押し留めた。
「俺は平気。だから無理すんなよ」
柔らかな声だった。
昔から変わらない。
アンネローゼは肩にかかった上着の端を、そっと握った。
「……ありがとう」
◇
祝賀会がようやく落ち着きを取り戻した頃。
アンネローゼは一人、テラスへ出て夜風に当たっていた。
肩にはまだフェリクスの上着を羽織っている。
婚約がなくなった。
十四歳の頃から、自分の未来に当然のように存在していたものが、今日突然消えた。
アイゼンベルク侯爵家から縁談が届いたのは四年前。
シルバーベルク伯爵家より家格の高い侯爵家。
条件だけを見れば悪い話ではなく、
むしろ伯爵家側から断る理由を探す方が難しい縁談だった。
だからアンネローゼは受け入れた。
その時、本当は別の人が好きだった。
ずっと昔から。
七歳くらいの頃には、もう。
隣の領地から遊びに来る黒髪の少年を待つ時間が好きだった。
一緒に本を読むことも。
庭を歩くことも。
魔力を暴走させて泣いた時、隣に座っていてくれたことも。
眼鏡をかけ始めた日には、ひどく不思議そうな顔をされた。
『それ、見えにくくないの?』
『度は入ってないわ』
『じゃあ眼鏡じゃないだろ』
『眼鏡の形をしてるもの』
『……まあいいけど』
そんなくだらない会話まで、今でも覚えている。
十四歳の頃には、フェリクスも何か言いたそうにしていた気がする。
けれど、その少し前にアイゼンベルク家との婚約が決まり、
アンネローゼも彼も、結局何も口にはしなかった。
それから四年。
同じ学園へ通い、今までと変わらず友人として、幼なじみとして隣にいながら、
互いの胸にあるものだけは見ないふりをしてきた。
恋をしていることなど、まるで最初からなかったかのように。
「ここにいたのか」
不意に背後から聞き慣れた声がして、アンネローゼは振り返った。
「フェリクス」
テラスへ出てきた彼は、そのままアンネローゼのそばまで来ると、
まず顔色を確かめるように覗き込んだ。
「気分は?」
「もう平気よ」
「本当か?」
あまりにも疑わしそうな顔をされて、アンネローゼは思わず笑う。
「本当。そんなに信用ない?」
「魔力使った後のお前に関してはない」
きっぱり言われてしまい、アンネローゼは少し頬を膨らませた。
「ひどい」
フェリクスはアンネローゼの隣へ立つと、同じように夜の庭へ視線を向けた。
しばらく二人とも何も言わなかったが、
その沈黙を気まずいと思ったことは昔から一度もない。
アンネローゼは肩に掛けたままの上着へそっと触れ、隣の彼を見上げた。
「これ、ありがとう」
「まだ着てていいよ」
「でも、フェリクスが寒いでしょう?」
返そうとするアンネローゼに、フェリクスは先ほどと同じ調子で笑った。
「寒いだろ? そのまま着てろって」
「……うん」
素直に頷くと、フェリクスはどこか安心したように庭へ視線を戻した。
いつもなら、このまま他愛のない話が始まる。
卒業後の王宮での仕事や、シルバーベルク家で父が始めた新しい事業、
それぞれが明日から歩き始める道について、きっといくらでも話せただろう。
けれど今夜のフェリクスは、なかなか口を開かなかった。
珍しく言葉を選んでいるような横顔に気づき、アンネローゼが首を傾げる。
「フェリクス?」
呼びかけると、彼はようやくこちらを向いた。
「アンネ。ちょっと、真面目な話していい?」
いつもの気安い笑顔とは違う。
濃い緑色の瞳にまっすぐ見つめられ、アンネローゼも自然と姿勢を正した。
「うん」
フェリクスは一度息を吐き、少し迷うような間を置いてから口を開いた。
「本当は、今日言うのは卑怯だと思ってる」
「……なんのこと?」
「お前、婚約破棄されたばっかりだろ。
だから本当なら、少し時間を置いた方がいいんだと思う」
そう言って困ったように笑ったあと、フェリクスは少しだけ眉を下げた。
「でもさ。たぶん明日から、お前に縁談が山ほど来る」
「……どうして?」
思わず聞き返すと、フェリクスは呆れたようにアンネローゼを見る。
「どうしてって……」
「今日まで地味で魔法も使えないと思われてた伯爵令嬢が、
実はあれだけの魔力持ってました、だぞ?」
「そうね」
「しかもシルバーベルク家は金持ってるし、お前は次期当主だし」
「お父様が聞いたら、金持ちって言い方は少し嫌がるかも」
「そこじゃない」
思わず二人で笑った。
けれどフェリクスは、すぐに真面目な顔へ戻る。
「だから」
一歩だけ、アンネローゼとの距離を縮めた。
「その前に言わせて」
胸の奥で、心臓が大きく鳴る。
四年前、十四歳の頃。
聞きたくて、でも聞けなかった言葉が、今度こそ来るような気がした。
フェリクスが少しだけ緊張した顔で笑う。
「……俺にしない?」
アンネローゼは、しばらく何も言えなかった。
フェリクスが慌てて続ける。
「いや、今すぐ返事をくれって意味じゃないからな。
婚約破棄された直後につけ込むみたいなのは嫌だし、
ただ……他の縁談が来る前に、俺も候補に入れてほしくて――」
「候補じゃないの」
アンネローゼの言葉に、フェリクスがぴたりと止まった。
「……え?」
その顔を見ているうちに、アンネローゼは自然と笑っていた。
四年間、口にできなかった。
けれど本当は、それよりもっとずっと前から胸の中にあった気持ちだ。
もう隠しておく理由はない。
「私、ずっとフェリクスがよかったの」
その言葉に、フェリクスの濃い緑色の瞳が大きく見開かれた。
しばらく何も言わずにアンネローゼを見つめていたが、
やがて信じられないものを聞いたように口を開く。
「……いつから?」
少しだけ考えてから、アンネローゼは柔らかく笑った。
「七歳くらいから」
今度こそ、フェリクスは完全に言葉を失った。
「フェリクス?」
名前を呼ばれてようやく我に返ったように瞬きをし、それから小さく息を吐く。
「……俺も」
アンネローゼが目を瞬かせた。
「同じくらいから、ずっと好きだった」
今度はアンネローゼが黙る番だった。
互いに何も言えないまま、しばらく見つめ合う。
やがてフェリクスは、耐えきれなくなったように両手で顔を覆った。
「……俺たち、何してたんだろうな」
アンネローゼは思わず笑った。
「仕方がなかったのよ。婚約してたし」
「その前だよ」
フェリクスは顔を上げる。
「十四の時、俺が先に言っとけばよかった」
「私だって言えなかったもの」
「言ってくれればよかったのに」
「フェリクスこそ」
「……それもそうだな」
どちらからともなく笑った。
十一年間好きだった。
そのうち四年間は、互いに何も言えなかった。
けれど、もう黙っている理由はない。
フェリクスがゆっくり手を伸ばし、アンネローゼの指先へ触れる直前で止める。
「……手、繋いでいい?」
それがあまりにもフェリクスらしくて、アンネローゼはまた笑った。
「うん」
重なった手は、昔から何度も触れてきたはずなのに。
初めて触れたように、少しだけ緊張した。
「じゃあ……明日から縁談が山ほど来ても、心配する必要はないってこと?」
少しだけ不安そうに確かめるフェリクスに、アンネローゼは迷わず頷いた。
「もちろん。全部お断りするわ」
「よかった……」
心底ほっとしたように息を吐く姿がおかしくて、
アンネローゼは繋いだ手に少しだけ力を込める。
「でも、フェリクス。私、シルバーベルク家を継ぐわよ」
「知ってる」
「卒業したらお父様の仕事も本格的に手伝うし、きっと忙しくなると思う」
アンネローゼが念を押すように言うと、
フェリクスは何でもないことのように肩をすくめた。
「俺も王宮で働くし。お互い忙しいな」
それだけだった。
自分の道を変えてほしいとも、仕事を諦めてほしいとも言わない。
ただ当然のように、アンネローゼが選んだ未来ごと受け入れている。
昔から、フェリクスはそういう人だった。
だからきっと、こんなにも長い間好きだったのだ。
アンネローゼは肩にかかった彼の上着を少し握り、
それからもう一度、隣にいる幼なじみを見上げた。
「……やっぱり、ずっとフェリクスがよかった」
フェリクスの顔が僅かに赤くなる。
「それ、今言われると結構くるからやめて」
「どうして?」
「俺、十一年分我慢してたんだけど」
「私もよ?」
「……そうだったな」
夜のテラスへ、二人の笑い声が小さく溶けていった。
三年前。
この卒業祝賀会で婚約を破棄された一人の侯爵令嬢は、
決闘をきっかけに自分の才能と新しい未来を選び取ったという。
そして今夜。
同じ場所で婚約を破棄された一人の伯爵令嬢もまた、隠していた力を解放し、
家族の名誉を守り、四年間足を止めていた初恋を、ようやく前へ進めた。
眼鏡の奥で、琥珀色の瞳が柔らかく細められる。
明日から始まる未来は。
もう誰かに決められたものではなかった。




