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第一話

 歯に炭を塗る。前歯の半分だけ。

「あんたってほんとっ。惨めねっ。私が貴女だったら生きていけないわ」

「ちょっと臭いニオイがこっちまで漂ってくるんだけどっ。信じられない」

「どうして貴女ってそんなに不細工なのかしら」

「えへへへへっ」

 何を言われても笑う。

「笑うといっそう不細工ねっ。貧乏乞食令嬢ちゃん」

「ほらっ。お菓子あげるわよ。ほらっ。ワンって鳴きなさいよ。ほらっ。わんって」

「わんっ」

「あははっ。ほんとに鳴いたわこの子。信じられないっ。ほんと惨めなんだけどっ。信じられない」

「きったないドレスね。見て? このドレス。とっても素敵でしょう? それに比べて貴女ときたら……うふふっ。ほんと汚い。ドブネズミみたい」

 何を言われても。笑う。


 「旦那様がこちらのお菓子を気に入っています。どうか包んで頂けないでしょうか?」

「ふんっ。また来たのか。歯抜けめ。まったくお前みたいな小汚い乞食でも貴族だなんて。世の中はほんと不公平だよ。ほらよっ」

 投げられたお菓子は地面に広がって。

「どうした? 拾えよ」

「えへへへっ。ありがとうございます。ぶへっ」

「ほんと汚いな。お前みたいなのは泥がお似合いだよ」

 蹴られた土。口の中に入っても。それでも笑うしかない。


 私の家は男爵家だ。貴族の中で一番位が低い。それでと言われると困る。私もそれがどうしたのか理解できないでいる。


 母は何時も私にごめんなさいと謝る。私は母の子で嬉しいのに、母は何時も私に謝る。私を宝物だと言うのに、何時も謝る。申し訳なさそうに悲しそうに。そんな母は体を病に蝕まれ立ち上がることすら困難だった。数年前まではあんなに元気だったのに。


 祖父が亡くなって、私達の生活は激変してしまった。


 コートニー男爵家は四方を有力な貴族に囲まれている。


 私は貴族だけれど、貴族があまり好きじゃない。


 山を所有しており銀が出土するけれど、隣接する伯爵家に配慮して銀の採掘はしていない。祖父の代まではそうだった。今は伯爵家が採掘を行っている。


 四方の土地から多くの商人がやってくる。有力貴族達お抱えの商人達が最短で交流できるのが家の土地だからだ。でも家は税をとれない。なぜって四方の貴族にそれはおかしいと抗議されたからだ。


 こちらからは税をとれないのに、向こうは税を持って行く。四方に蝕まれている。それがコートニー男爵家の現状だもの。


 父は祖父ほど地金も度胸もない。だから祖父が亡くなると、一気に全てを持って行かれてしまった。父は四方の貴族の顔色ばかりを窺う。


 私には兄がいる。でも最初の社交に出て以来、兄は悪い平民の友達とつるむようになってしまった。家にもろくに帰って来ない。


 理由は良くわかる。パーティーには良く招待されるから。なぜって……私達が道化だから。


 パーティーが終えると何時も水浴びをする。冷たくて何時も鼻が鳴る。何度も鳴る。鼻水が零れそうになる。でも私は惨めなんかじゃない。惨めなんかじゃない。


 使用人達は四方に引き抜かれてしまって、今は古い人が二人しかいない。その人にも給料がろくに払えていないけれど、二人は世話になった恩があるからと残ってくれた。


 潤う市場に反して、コートニー男爵家は廃れていた。だから商人には舐められるし、料理人だって舐められる。貴族で溜まったうっ憤を、発散できる貴族で晴らしている。

「お母様……今日は美味しいクッキーを焼きましたの。食べてください」

「リタ……。私の可愛いリタ。顔を良く見せて頂戴。こんなに痩せて。ごめんなさいね。リタ」

「これでも少し太ったのよ。これ以上太ったら豚になってしまうわ。あーん」

「女の子は少しぽっちゃりしているぐらいが丁度いいのよ。……とっても美味しいわ。リタ。残りは貴女が食べなさい」

「私はパーティーでいっぱい食べて来たのよ。美味しい料理をいっぱいね。だからこれはお母様が全部食べてください」

 こういう時に限ってお腹が鳴るから嫌になる。神様は簡単な嘘すら許してくれない。

「ダイエット中なのよ……」

「ふふふっ。無理なダイエットは返って良く無いわ。わかったわ。だから一緒に食べましょう」

 頬に添えられた手の平。冷たくてひんやりとして。あの温かった手が、こんなにも冷たくて。

「リタ。私の可愛いリタ。大切な大切な、私の可愛いリタ。お母さんね。とっても幸せよ。私の宝物」

 父が娼婦から貰った病が母を蝕んだのだと気付いたのは、母が亡くなり、しばらく経った後だった。街で流行りの病だと……。


 母が好きだった花を添えてあげたかったけれど、お金が無くて、取りに行くには私は小さすぎて、父も兄もいなくて、お葬式を開くお金も無くて、使用人の二人だけが手伝ってくれて、母が埋まった小さな丘の前から、私は何時までも動けなかった。


 遠くの街から医者を呼ぶお金さえあれば、母を救えたかもしれない。かもしれない。お金さえあれば。かもしれない。お金さえあれば。お金さえ。あれば。そのお金が。無いの。だから母は亡くなった。


 お金が無いといくら喚いた所で、その事実は覆らない。お金が無いからと言ってがむしゃらになった所でお金は稼げない。私の現状は決して覆りはしない。しなかった。


 母が亡くなっても、呼ばれたパーティーに黄ばんだドレスで参加して、歯に炭を塗り、お道化て笑われ、足蹴にされて、それでも笑うしかない。


 お開きの後、片づける使用人に混ざり、処理する使用人達に侮辱の視線を受けながら、料理を食べて収めて持ち帰る。


 惨めだなんて思ってないよ。ただ同じ食事をするのに、使用人達は平民で、私が貴族という立場だと言うだけ。こんな肩書なんか捨ててしまえればいいのに。


 でも捨てた所で現状は変わらず、辛うじて貴族であるから食べていける事実にも変わりはなかった。平民だったのなら、私はもうすでに身を売っていただろうから。だってそれしか方法を考えつかないから。

「はい。私は隣のベルマン侯爵に仕える者なのですが、この料理は素晴らしいですね」

「隣のベルマン侯爵様……ですか?」

「ご存じありませんか?」

「いえ‼ そんな事はありません‼ ベルマン侯爵様の。お声をかけて頂き光栄です」

「そうでしょうとも。ベルマン侯爵様は王家にも所縁のあるお方ですから」

「王家に……。そうですとも。光栄の極み。料理を褒めて頂けるだなんて」

「えぇ、それで、要件なのですが、こちらのお菓子を包んで頂けないでしょうか? この美味しい焼き菓子を、ぜひとも領へと持ち帰り、侯爵様に召し上がっていただきたいのです」

「そっそれはもちろん光栄の極みにございます。ぜひお持ちになってください」

「ありがとうございます。貴方は自分を誇らしく思って構いませんよ」

「えっえぇ‼ ありがとうございます」

「そこのお前。お前です」

 私かな。

「私。ですか?」

「そうです。そこのお前。コートニー男爵家のご令嬢でしょう。男爵様はお元気ですか?」

 どうしよう。ベルマン侯爵様なんて、私は知らない。

「えっ。えぇ……父は息災です」

「そうですか。こちらのご令嬢にもぜひこちらの焼き菓子を包んで頂けますか? 今日はこちらの男爵家でお世話になるつもりなのです」

「そっそれでしたら当家にぜひ‼ 当主様にご連絡を入れますから‼ 言いたくはないのですがコートニー男爵家の領は……粗末で汚らしい。屋敷も綺麗では無いと評判で。見て頂ければわかるのですが」

「貴様。なんと失礼な奴だ。貴様平民だな‼ 貴族を馬鹿にするとは何事だ‼」

「しっ失礼しました‼」

「まったく不快だよ。私は問題を大事おおごとにしたくはない。問題となればお前の首は胴とお別れする事となるだろう。わかるな? 今の話はなかった。聞かなかった。私はお前にお菓子だけを受け取った。それでいいな?」

「はっはい‼」

「死にたくなければ余計な口は聞くな。しかしお前の焼き菓子が美味であるのは別問題だ」

「っはい。あり、ありありがとうございます。こっこちらになります。失礼致しました‼」

「これだけか? 私も道中で召し上がりたいのだが」

「申し訳ございません‼ こちらで全てとなっておりまして」

「まぁいいでしょう。確かに。ではご令嬢。参りましょう」


 急な展開で頭が回らない。お菓子を持って、ベルマン侯爵様に仕える方の後をつき従い歩いておりました。身長は私より少し高いぐらい。顔は普通。髪は茶色。そばかす。


 馬車もなく――キョロキョロと。

「どうした? ついて来い」

「あっはい……すみません。あっあの。ベルマン侯爵様にお仕えるお方」

「あぁ? あぁ? ロゼッ……ロゼでいいよ」

「ロゼ様。申し訳ありませんが我が領は豊ではなく……屋敷もそれほど綺麗では……。領へ帰るための馬車もありませんし」

「そんな事は知っている。行くぞ」

「はっはい」

「コートニー男爵家。本当に落ちぶれているのだな。よくまぁ、そんな侮辱にまみれても生きられるものだ」

「申し訳ありません」

「まったく不快だよ。お前のような者が貴族だなんてな」

「申し訳……ありません。それしか……生きる術がありませんから」

「ぷっ……あはははははっ‼ ごめんごめんっ‼ まぁ気にすんなってな。ほらっ来いって。街へ行くぞ」

「え? あっはい……」


 良く思考が回っておりませんでした。街へ向かうとロゼ様はお洋服屋へ。安い古着を幾つか。

「お前。金持ってる?」

「銭貨なら少しばかり」

 銭貨は銅貨の下に位置する一番低い貨幣で、国が保証していない貨幣を差します。銅貨も手に入れられない人達は、この銭貨を使用してお買い物をする。ほんとうに下の下の貨幣だ。

「それでいいよ。おばちゃん。これで買えるだけ古着を」

「銭貨か……。それならこっちのだよ」


 銭貨で仕入れた僅かばかりの古着を、ロゼ様は器用にナイフで切り刻んでいきます。

「何をなさっているのですか?」

「あぁ? あぁ。この布に菓子を包んでくれ」

「はぁ?」

 言われるがまま菓子を包み込むと、ロゼ様はそれを纏めて市場へと繰り出してゆきました。そして――。

「よってらっしゃい‼ 見てらっしゃい‼ なんとこちらのお菓子は貴族御用達の焼き菓子だ‼ 一袋銀貨3枚だ‼ 銀貨3枚‼ 破格だよ⁉ 貴族御用達‼ 貴族御用達の焼き菓子だよ‼」

 売ってしまった。銀貨三枚って……。

「貴族御用達か。ちょっと見せて貰ってもいいかね?」

「覗くだけだぞ」

「これは……本当に貴族御用達の焼き菓子なのかね?」

「一袋買って食べて見ろっておっさん。あんた裕福そうだな。銀貨三枚ぐらい余裕で払える財力あんだろ? ほらっ。買って食ってみろって。俺は逃げも隠れもしねーよ‼」

「ふむ。では一袋……」

 不味いわけは無いのだ。本当に貴族の食べる焼き菓子なのだから。

「これは……甘い。砂糖がふんだんに使われているね。これは娘にいいお土産ができそうだ。あと二袋ほど」

「へっへっー。そうだろ? 毎度あり」

 内の領内で一つだけ盛んなものがある。それは商売だ。四方から商人がやってくる。家は税金を取れないけれど、四方の貴族は税金を取る。家の分の税金が免除の分、商人は儲けを得られるから。

「ほらっ。この銀貨で新しく古着買って来てくれ。なるべく白い奴だぞ。汚れててもいいからさ」

「はい……」

「早く‼」

「はい‼」

 手に取った銀貨の重さに驚いた。銀貨って一枚でもこんなに重いんだ。


 最初の袋は5袋。追加で10袋。銀貨40枚の稼ぎだった。すごい。さすが侯爵家の人だ。お金の稼ぎ方を知っている。私のようにただ消費をしたり、漫然と生きていたりしていない。

「へへっ。稼げたな。ほら。お前の取り分だ」

 袋には銀貨が二十三枚入っていた。

「……いいんですか?」

「あぁいいぜ。お前のおかげで稼げたしな」

 どういう意味だろう。

「一枚、多いのですが……」

「計算はできるんだな」

「それで、これから家にいらっしゃるのですか?」

「お前、まだ俺が貴族だと思ってんのか?」

「え?」

「馬鹿だなお前」


 ロゼは貴族ではありませんでした。

「あんなの嘘に決まってんだろ」

「じゃっじゃあ」

「ただの平民だっての」

「え? でもパーティーに……」

「あんなに人がいるんだ。侵入ぐらい訳ないさ」

「えぇ……」


 それが私とロゼの出会いでした。稼いだ銀貨で使用人の二人にやっとお給料を少しばかり支払う事ができましたが、二人共受け取ろうとはしませんでしたが。

「先代との義理で仕えておりますから、お嬢様は気にせずやってくだせぇ」

「はははっ。飯さえあれば、わしらはいいですじゃ」


 兄にお金が見つかり取られてしまいました。

「お兄ちゃん‼ やめて‼」

「うるせーな。お前。こんなに稼いでんじゃん。もらってくな」

「お兄ちゃん‼」

「うるせぇ‼」

 お金を取られた事が悲しいわけじゃない。兄に殴られたのが悲しかったのだ。それから定期的に私の部屋を漁りお金を探す兄の存在が悲しかったのだ。


 ロゼはたびたびパーティーに出現し、お菓子を貰ってゆきました。私はそれに便乗してお菓子を貰い、二人で売ってお金を稼ぎました。

「お金を取られた? 馬鹿だなお前」

「だって……」

「隠し場所は複数用意しなってな。リスクは分散だって知らねーのかよ」

「知らない……」

「まったくお前は馬鹿だな。だいぶ資金が溜まったな。よし次の稼ぎに行くぞ」

 馬鹿なのはわかってるよ。

「次?」


 ロゼは手先も器用でした。古着を買い糸に解いてゆきます。その糸を新品の糸だと偽り、洋服店にまた販売するのです。

「すごい……」

「お前ほんと何もできなんだな」

 ロゼの手先を眺めていると、何時も感嘆の息が漏れます。

「これぐらい簡単だろ」

「いつっ」

 私は上手に糸すら紡げません。

「馬鹿っ。見せて見ろって。まったく不器用だな。お前それでも貴族かよ」

 傷口を口に含み、私の指先に唾をつけてくれます。

「汚いよ」

「はぁ? こんな綺麗な手。今まで見た事ねーよ」

 それは口説き文句ではなくて、素直な言葉だったのでしょう。

「そういや、お前の裏の山。どんぐりがいっぱい取れるんだってな」

「そうだけど」

「取ってねーの?」

「取っても苦すぎて食べられないよ」

「ばーか。食べ方ってもんがあんだよ。食べ方ってもんがな。ちょっと案内してみろって。ここは水が豊富だからな」

 家の領は水だけは豊富です。飲めるかどうかは別ですが。


 裏山でどんぐりを拾います。布袋一杯のどんぐり。川の傍、殻ごと鍋で茹で上げます。大きな鍋です。石で組んだ竈です。そしてすごい灰汁です。

「生では齧るなよ」

「齧らないよ……」

「動物の糞尿が付いていると病気になるんだぜ」

「そうなんだ」

「知らなかったろっ」

「……知らなかった。これ、大丈夫なの?」

「ほらっ。灰や炭を掻き出して入れるんだよ」

 燃えた傍から灰や炭を鍋に入れます。茹で上げたら殻を剥き――この作業が非常に面倒で、ロゼは言い出しっぺの癖に何度も休むから、私がほとんど剥きました。

「おい‼ 魚取ったぜ‼ 食べるぞ‼」

「ここの魚は……あんまり美味しくないよ」

「お前、舌肥えてんだな。食べれれば何でもいいだろ」

「えぇ……」

「そろそろ焼けたかな」

「早いよ……お腹壊すよ。もうちょっと焼いて」

 これだけで丸一日を消費です。


 終えたらまた布袋に詰め入れて川へと沈めます。三袋ぐらいでしょうか。これ、本当に食べられるのでしょうか。

「このまま一週間放置だな」

「いっしゅうかん⁉ 一週間も? 腐りそう……」

「ばーか。火を通した食べ物は腐りにくくなるんだよ」

「……そうなんだ。ロゼって普段は何しているの?」

「あ? そうだな。基本寝てるな」

「普段から?」

「グーたらすんのが最高の贅沢なんだよ。わかんねーかなー? 貴族って見栄張るのが贅沢とか思ってそうだもんなー」

 それはそうだけど……。父も見栄や虚栄を張るために何時も無理な出費を繰り返す。母の命よりも己の見栄を優先した。母が亡くなった時、父は貴族のパーティーに出席していた。父にとって母は単なる道具で、そして娘である私もただの道具に過ぎないのだ。父にとって女は道具に過ぎない。父は私の嫁ぎ先を探している。私の価値は女としての価値しかない。パーティーに参加すれば嫌でも耳に入る。


 みんなお嫁に行くのを疑問にも思わない。どうしてかって、自分が良い所に嫁ぐのを知っているから。婚約するが良い人だって知っているから。私は違う。みんな笑うの。私の嫁ぎ先は良い所だって。良かったねって。


 私はまだ婚約者すらいないのに――。みんな知っているの。私と婚約したい貴族なんていないのを。


 でもその気持ちもわかる。同じ立場の女の子が、いないわけではないから。その子はもっと不幸であろう私を眺めて自分はまだマシだって言い聞かせている。


 みんな知っている。私をお嫁にしたい人なんて、いないって事――。


 そして私の価値は女としての価値しかない。私の価値は、若い間だけ。私が一番価値を持つのは最初だけ。


 父は見栄のために借金をする。その借金の返済のためにお金を持っている貴族から支援を受けたい。その支援を受けるための道具が私なのだ。


 家は兄が継ぐ。だから私の価値はたったそれだけ。後三年もすれば、私は何処かの誰かに体を差し出すのだろう。それを悲観しているわけではないけれど。

「ロゼはどうして色々な事を知っているの?」

「世界中を旅して来たからなー」

「世界中を? すごいね。どんなところに行ったの?」

「海がすげー綺麗なとことか、すげー寒い所とかあったな‼ 南の方はあったかくていいんだけど、北は寒くてなー」

「海ってすごい広いのでしょう?」

「あぁ、めちゃくちゃ広いぜ‼」

「ご両親と一緒に?」

「あぁ。母親だけだけどな」

「お母さんがいるんだね」

「母親がいたけど、こないだ野盗に殺されちまったから、今は一人だぜ」

「え⁉ 野盗に⁉」

「そうさ。まぁ何時かはこうなるんじゃないかって思ってたけどなー」

「ごめんなさい」

「どうして謝るんだよ」

「だって」

「気にしなくていいさ」

「悲しくないの?」

「良くわかんねーな。まぁ、あっけなくはあったな」

「お父さんは?」

「さぁ? 知らねーな。うちの母親って路銀を稼ぐために誰とでも寝てたからなー。俺の父親も、誰かわかんねぇってさ」

「そうなんだ……」

「そんな暗い顔すんなって。おっ焼けたな。ほらっ食えよ。……かてぇ‼ なんだこの魚‼」

「だから美味しくないって言ったのに……」

「鎧魚って奴か‼ ぜってー食ってやるぜ‼」

「お腹側から裂くと、少し食べやすいよ」

「なまぐせぇええええ‼」

 だから美味しくないって言ったのに……。


 パーティーでは相変わらず笑い者。でも私がいないと代わりが必要だから、パーティーがあれば必ず誘われる。


 ロゼはあまり印象に残るのは良くないらしく、焼き菓子の調達は主に私が行うようになっていた。


 同じ場所では一ヶ月ぐらい同じ仕事はしないとロゼは語った。輪郭も朧げになった頃にフラッと現れて、毎回違う貴族の名前を使用する。


 私はもう乞食令嬢として名を馳せてしまっていたから、焼き菓子などを強請っても侮辱されるだけで済むし、それを理由にパーティーに誘われなくなることもない。私がいなければ代わりが必要だし、曲りなりにも貴族だから。


 ロゼは稼いだお金を貯めていると言った。馬車を買って商人になるのだそうだ。色々な場所へ行って品物を仕入れてまた旅をして旅先で品物を売りまた仕入れて売る。行商になりたいのだと語った。

「私はあんまりお勧めしないけど。行商人だなんて」

「はぁ? なんでだよ。応援しろよなー」

 だって、旅に出たら、会えなくなるから。対等に接せられる人って貴重だと思う。


 家に帰るのは少し億劫。家はいいの。でも……荒らされた部屋を眺めると気が滅入る。


 パーティーの無い時はどんぐりを集めて煮る。川の中に布袋が増えていった。

「もーロゼ。ちゃんと殻向いてよね」

「いや、こんなの眠くなっちまうよ」

「私より器用な癖に」

「いいだろ別に」

 ロゼとの距離は近くなり、私の膝に頭を乗せて眠るようになった。

「……なんで私を巻き込んだの?」

「あ? 特に意味なんてねーよ。乞食令嬢ちゃん」

「叩くよ?」

「やだこわーい」

「もー‼」


 一週間後――どんぐりを川から引き上げる。適度に何度か引き上げて様子は眺めていたけれど、これで大丈夫なのだろうか。水をたっぷりと吸い、少しふやけていた。


 どんぐりと一緒に――なんだろう。キラキラした石。丸みたいな。中に。妖精みたいな形がある。綺麗。

「おっ。イイ感じだな。お前は食べるなよ。お腹壊すから」

 ロゼは少し口に含み、そして吐き出した。

「うん。大丈夫だ。お前ん家って石臼あったっけ?」

「一応あるけど……」

「よしよし」

 ふやけたどんぐりを石臼で挽く。ドロドロになるまで何度も挽いて布に包んで吊るす。そうすると水分がどんどん抜けてゆく。

「これで水分がある程度抜けるまで放置だな」

「また放置なの?」

「こういうのは時間がかかるものなんだよ」

「ロゼって。ちょっと待って、今これ」

「なんだよ。早くいこーぜ。ほらほら」

 綺麗な石を見つけたけれど、こんな石を見せても笑われるかもしれない。私はそっとポケットにしまって、御守りとして何時も持ち歩く事にした。


 またパーティーの無い日はどんぐりを拾い茹で川でさらし。灰汁の抜けたどんぐりを臼で挽いてドロドロにして布に詰めて干す。


 水の垂れなくなったどんぐりを手で捏ねるとモチモチとした。

「他に何か入れる?」

「別に入れてもいいぜ。何かあるならな」

「あるわけないでしょ」

「じゃあ、そのままだな。ふっくらさせたいなら少し待った方がいいぞ。まぁここからがミソなんだがな」


 モチモチしているけれど、なんだろこれ。粘土みたい。成形できない。パンってこうやって作るんだねとロゼに告げると笑われてしまった。焼くとパサパサして崩れていた。

「ちげーよ。パンは小麦粉から作るんだ。これはあくまでも代用品。これは作る手間も時間もかかりすぎる。量も時期も限られるしな」

「悪くないけど……ふっくらっていうか……でも仄かに甘いね。砂糖入っていないのに」

「そうだろ? さてここからがミソだぜ。低温のオーブンで水分を限りなく抜くんだ。これで日持ちするパンの完成だぜ」

「焼き菓子じゃダメなの?」

「……ダメじゃないな。焼き菓子でいいな」

「もおおおお‼」

「しょうがねーだろ‼ お前ん家で使えそうなのどんぐりだけなんだからよー‼」

 ここからどんぐりバターとどんぐりコーヒーが完成したのは本当に謎である。


 「どんぐりってっ。ほんと、あんた本当に笑わせてくれるわ」

「うわっ。臭い粉ね。臭い臭い」

「へへへっ。そうですよね。どんぐりなんて」

 どんぐりで何かを作ったからと言って、売れたりお金になったりなんて事はなかった。作るのにとても手間もかかる。小麦や他の商品があるのに、わざわざどんぐりの製品を買う人なんていない。

「ほらっ。そうだ。貴女にぴったりの化粧をしてあげる‼ 貸して貸して。ほらっ‼」

「ぎゃははっ」

「あははっ。やだー。もうっ。ぴったりじゃん」

「どんぐり乞食令嬢さんっ。どんぐりでお金取るってっ。どんだけ貧乏なのっ」


 これを僅かに作るだけでも一週間以上かかるのに――どんぐりコーヒーの粉を頭から被せられても私は笑うしかない。バターを持って来なくて良かった。焼き菓子は投げるものじゃなくて、食べる物なんだけど……。

「こういう珍しい物ってのは、貴族の方が買ってくれるもんだぜ」

 ロゼはそう言っていたけれど、そんな事はなかったね。


 川で粉を洗い流す私を眺めて、ロゼは気まずそうな申し訳なさそうな表情を浮かべていた。

「わりぃ……。庇ってやれなくて」

「変に庇って目立ってもロゼが困るでしょ……」

「だけどよー……」

「そうなったら、いよいよ大変だもの。これぐらい平気よ」

 泥じゃないだけマシだもの。

「お前にこれやるよ」

 ロゼがそう言って差し出して来たのは木の小さな器に入った軟膏のようなものだった。

「あっ。触んなよ。劇薬だからな」

「……これをどうするの?」

「これはな。俺のかーちゃんが身を護るのに使ってた軟膏さ。俺のはあるから、かーちゃんのはやるよ」

「相手に塗るの?」

「ちげーよ。これは自分に塗るのさ」

「劇薬なのに?」

「これを塗ると肌がえれー荒れるんだよ。それこそカブレたみたいにな」

「そうなの?」

「あぁ。そんでな。これを股間に塗るんだよ」

「……なんで?」

「相手が病気だと勘違いして襲うのをやめんのさ」

「大丈夫なの?」

「カブレ自体は一週間程度で治るから大丈夫だ。しかも治ったら前より綺麗になるんだぜ」

「へぇ……そうなんだ」

「あぁ、誰にも会わないなら顔に塗るのもお勧めだぜ。肌が一気に綺麗になるんだ。ただえれーきちぃけどな。人に見られると病気だと勘違いされるから、顔に塗る時は気を付けろよ。後、顔に塗るのは十代前半までだ。いいか? これは絶対に護れよ。十代前半までだ。それ以降だと治らない可能性があるからな。胸に塗るのもお勧めだぞ。ただやっぱえれーきちぃから気を付けろよ」

「ふーん」

 実際全身に塗った私は一週間死ぬほどの苦しみを味わう事になってしまった。


 「馬鹿だなお前っ」

「だって……綺麗になるって言うから」

「めっちゃ綺麗になったじゃないか」

「すごい死にそうだった」

「一気に塗る奴がいるかよ。おっ。先端までピンクになったな」

「何処見てんの‼ スケベ‼」

「いててっ。なんだよっ」

 それから幾日か経ち、街でどんぐり製品を売ろうと並べてみたけれど、売れる事もなかった。物珍しいのはあるけれど、そこまで美味しいと言うわけでもなく、辛うじてどんぐりバターが売れるような売れないような。物珍しさに買う女の子がいるぐらいだった。身なりが良いから貴族のお嬢様なのかな。この辺りでは見ない感じだけれど。バターと言っても本当のバターじゃないし、ペースト状のどんぐりだからね。

「これ、どんぐりから作ったって本当なの?」

「はい。お嬢様。どんぐりで作ったバターですよ」

「バターなの?」

「本当のバターではないのですが、ペースト状のバターみたいなものですね。バケットに塗って食べると美味しいですよ」

「そうなのね。一つ頂けるかしら」

「ありがとうございます」

 易い陶器のコップに詰めたどんぐりバターを差し出すと、女の子は少しの笑みを浮かべた。

「いい香りね。ありがとう」

「毎度ありー。あんた可愛いからどんぐりコーヒーもオマケしてやるよ‼」

「え⁉」

 思わず変な声をあげてしまった。

「あらいいの?」

「いいよいいよ‼ もってきな‼」

「うふふっ。ありがとう。貴方もかっこいいわよ」

「へへへっ。ありがとさん」

「商売上手なのね」

「そーだぜ」


 別にロゼが可愛いと言った事に衝撃を受けたわけじゃなくて、せっかくの商品をただであげちゃった事に驚きを覚えたのだ。

「ロゼ……」

「ばーか。別に好みじゃねーよ」

「違うよ‼ 何言ってるの‼ ただであげちゃっていいの⁉」

「あー。いいんだよ。あの女って多分いい所のお嬢様だろ。お前と違って。この地域にいるのは多分そんなに長い間じゃねーよ。気に入ったなら全部買って行ってくれるはずだぜ」

「なるほど。ロゼって……頭良いよね」

「そんなに褒めんなよ。褒めても何もでねーぜ。へへへっ」

 後日、本当に全ての商品をお嬢様が買って行ってしまった。気に入ったみたいだ。


 ロゼと、このままずっと一緒にいる。なんて考えていた。このままずっと一緒にいる。だなんて――でも、そんな事は無かった。ロゼは旅人だもの。冬が来るの。


 長く滞在しすぎたのが良く無かったの。ロゼを見ない日が何日か続いて、探していたら、街中の一角でロープを使い吊るされているロゼを見つけた。


 顔は腫れ上がり。すぐに助けてあげたかったけれど――ロゼは罪を犯したと、人々に石を投げられて。そこに割って入っていけなかった。怖かったの。

「貴族の名を語った罰だ‼」

 みんながそう叫ぶ。本当はお金を稼ぐのが気に入らなかったのだと感じていた。


 夜になるのを待ち、見張りすらいなくて、死んでもいいみたいに。どうせ誰も助けないだろうって。もしかしたら死んでしまっているんじゃないかって。怖くなって。ロープがなかなか切れなくて。ロゼの足が揺れていて。怖くて。


 落ちて来て。受け止めたら、ロゼは重くて。ぐぇって。カエルみたいな声が出て。虚ろな目で。私を眺めていて。怖くて。怖くて。鼻が鳴って。泣きたくなんかないのに。涙が出て来てしまって。照らしていた松明を盗んで。


 肩を担いで。その場から離れて。ロゼは虚ろで。寒くて。息が白くて。

「……わりぃ。ドジ踏んじまった」

「ごめんね。助けるのが遅くなって……ごめんね」

「なんでお前が謝るんだよ」

 服を破いて顔を拭う。腫れあがった瞼。青くなっていて。口から垂れた血の跡。あんまりに痛そうで、私は泣いてばかりで。

「ごめんね」

「……なんでお前が泣くんだよ」


 街から離れて川の近くで、薪を汲んで、松明の火で明かりをつけて。

「寒くて死ぬかと思ったぜ。あいつら‼ しこたま殴りやがって‼ 信じられねーぜ‼ まったくよー‼ 稼いだ金まで全部持って行きやがった‼ 信じられねーよ‼」

「……無事で良かったよぉ」

「泣くなよ。稼ぎ過ぎちまったんだ。売るところは毎回変えてたんだけどよー。長居し過ぎちまったんだ。お前と一緒にいるのが楽してさー。俺としたことが。商店の奴らが密告しやがったんだ。隣の奴が稼ぐのが気に入らねーのさ。俺はもうここにはいられない」

「……え?」

 ずっと一緒にいるなんて、友達だって、そう思っていた。思っていたよりもずっとロゼを身近に感じていて、いざ離れるとなると、心臓が冷えるように痛くて空気よりも冷たく感じて。でも街で吊るされた様子を眺めて、ここにいられないのも理解できるもの。生きて行くにはここにはいられないって……顔も覚えられただろうし。

「もう、行くの?」

「そんな顔すんなよ。ほとぼりが冷めたらまた来るからさー」

「ちょっと待っていて」

「あぁ?」


 一度屋敷に戻り、貯めていたお金を全部持ってきた。これから外に出るのに、無一文じゃやっていけないでしょうから。お金を差し出すと、ロゼは唖然としていた。

「いや、受け取れねーよ」

「いいから持って行って」

「馬鹿。お前の稼ぎだろ」

「お金はまた稼げばいいから」

「お前……本当に馬鹿だな」

 お金無くて、お母さんは助けられなかったから――。

「あとこれも」

「え? なんだよこれ」

「どんぐりを洗った川で拾ったの。御守り」

「……綺麗だな。いいのかよ」

「ロゼッ」

 私はロゼを抱きしめてしまった。ロゼは沢山の知識を私に惜しみなくくれたから。

「ロゼッ。元気でいてね」

「……なんだよ。馬鹿だな。泣くなよ。また会えるって」

「うんっ」

 手を振ったら、心まで寂しくて、私は、ロゼが消えた後も、しばらくその場を動けなかった。


 ロゼがいなくなっても日々は続いてゆく。一人でいればいるほどに、稼ぎ過ぎるのは良くないのを実感するの。隣の屋台の人、歩いている人、その目が、私を値踏みしているのが良くわかる。


 だから一日に稼ぐのは銀貨三枚まで。


 でも私がお金を稼ぐのを盗み見て模倣する人達が増えてゆき。どんぐりだって森には自由に入れるからって、村の人達が取っていって、真似をして、商売にして。


 古着を糸にするのだって。私が古着を買うのを見て、お店の人が真似をして、古着を売ってくれなかったり、古着の値段を吊り上げたり。


 私ってほんとダメだなって。


 兄は相変わらず悪い人達と遊び呆けて。


 父が私に縁談を持ってきた。ここより遠くの伯爵様だって。年は三十ぐらい上だって。屋敷に来て、私は裸にされて、恥ずかしくて隠していたけれど。

「手をどけなさい」

 と告げられて。全身を眺められて。触れられて。あっさりと。縁談が決まってしまった。


 伯爵様が父へお金を払うのを見ていた。でも私はまだ成人前で。成人したら迎えに来るって。それまでに教養を身に付けなさいと、侯爵家へと奉公する運びとなった。


 使用人としての侯爵家の日々は、何時もロゼを思い浮かばせた。朝は早く、大きな桶に水を汲んだり、夜は遅くまで、お掃除や明日の用意をしなければいけなかった。手にはマメが幾つもできて、綺麗とは言えないって。たまに意地悪をされて、せっかく汲んだ水をこぼされたり、食事を捨てられたりした。


 使用人の世界は、私が考えるよりずっと過酷だった。


 真面目な人間から壊れてゆくの。婚約者のいる人間から壊れてゆくの。


 決められた形、決められた順序。徒党を組み一人を貶めイジメ抜く。身を護る方法があまりにも限られていて。私にもあまり方法が無かった。

「やめてっ‼ 離して‼」

「大人しくしてろって」

「叫んだって誰も来やしないよ」

「はははっ。ちゃっちゃと済ませなよ」

「お前もどうだ?」

「えー? どうしようかな」

 多人数で押さえつけられれば私にはどうする手段もなく――。

「……うわっ。なんだこれ……」

「うげっうげぇえええ」

「気持ちワルっ」

「うっわ。こいつ病気持ちじゃん‼」


 見られちゃった。薬を塗っていたから犯される事はなかったけれど、見られたのがショックで。


 泣いちゃダメ。泣いちゃダメって。思って。


 私は薬のおかげで助かったけれど、この事実に気付くのが、あまりにも遅くて。心の弱い子がこんなに目にあって。いつの間にかいなくなる子がいて。共同生活の場。気に入られるのにみんな必死で。そして部屋の中から、そっと誰かがいなくなってゆく。


 その真実が。あまりにも。受け止めがたくて。許せなくて。何もできなくて。


 庭でお嬢様が犬と一緒に遊んでいる。それを旦那様や奥様が嬉しそうに眺めていた。どうして私とはこんなに違うのだろうと比較ばかりして、それが嫌で比較なんかしたくないのに、お母様に会いたくて、泣きたくなんかないのに、何時も泣いてしまって、それを咎められて。


 空気が肌に張り付くように。日差しばかりが痛くて。


 味方のいない私達がイジメから助かる方法があまりにも少なくて。


 逃げて追われるか。従って仕事を従順にこなすか。奴隷になって消費されるか。


 それが嫌なら旦那様か奥様に気に入られるしかなくて。


 旦那様に気に入られたいのなら――その身を差し出すしかなくて。


 奥様に気に入られる術が、私にはなくて。


 有能で頭が良くて、要領も良くて、美人で人を蹴落とせる。私にはそのどれもが足りなくて。


 失敗をすると怒られるから、怒られないように失敗しないように、予防線を張るようになって。仕事ができるようになると、別の仕事が積み重なって楽になる事なんてなかった。周りの人達に上手く使われているのは理解できるの。でもそれを咎められなくて我慢するしかなかった。


 妬みたくなんかない。羨ましがりたくなんかないのに。どうして自分より仕事ができない人の下で仕事をしなきゃいけないのって。


 みんな適度にズルをするの。買い出し中にズルをして街で買い物をしたり、体調が悪いって仮病を使って休んだり。


 心ばかりがやせ細って。その心の隙間に滑り込むように甘い言葉を囁いてくる人達もいる。選んだのは貴女だって言うの。僕は手を差し伸べただけ。自己責任だって。そして心の隙間を突かれた誰かが、相手を責めず、自分が悪いって笑うの。馬鹿だったって。


 違うよね。最初から都合のいい相手が欲しかっただけだよね。


 引っ掛かり苦しむ誰が涙を零しているのを横目に眺めて、あぁ、良かったって。


 私はこの子じゃなくて良かったって。もっと不幸な子がいて良かったって。


 そういう日は良く眠れるの。でもね、理解もしているの。こんなに頑張っているのに私の手元に残るお金は無いの。全部家に取られていて。


 私ってさ。何のために生きているのだろうって。


 私も同じ穴の中に住んでいるのに馬鹿みたい。


 心の中に小さな女の子の友達を作って、何かあるとその子を心の中で愛でていた。


 食事と寝る所があるだけマシじゃない。それすら無い人達だっているのよ。街へ買い出しに向かえば、体を売り日銭を稼ぐ女の子を沢山見かける。


 その子達よりはマシじゃない。


 変なプライド。こんな考え間違えているって理解しているの。何も違わないのに上下や隔たりを作っているのは自分の方。搾取されていて、そこから抜け出せないのは同じなのに。


 その子達が私を見る目は敵意に満ちて。見下しているのでしょうと牙を剥かれる。彼女達も自分達の境遇を理解していて劣等感に苛んでいる。だから牙を剥かずにはいられないのも理解できるの。私もそうだから。


 そうでない人も沢山いるのに。


 私より小さな子が、目をキラキラ輝かせながら、私を買わないかって男性の手を取るの。自分が何をしているのかも理解できずに。


 それに何もできない自分。止める事も辞めさせる事も養う事も、責任もとれない自分。何もできない癖に。考えだけは正しいと意見を言うの。何もできない癖に。


 差し出した焼き菓子。どんぐりの。払いのけられて。

「なんだよ。これ。お金じゃないじゃん‼」

 自分が最低なのは理解しているの。だって実際にその子達を見下しているのだから。

「なんだお前‼ 買わないならどっか行けよ‼」

 汚れた身なりで、春を売るの。

「あたしはこの辺りで一番人気なんだからな‼ 見下してんのかよ‼」


 なぜこんなにも涙が零れるのか自分でも理解ができなくて。手を広げて。少女を抱きしめて。何も言えなくて。暴れる彼女を。ただ強く抱きしめて。

「……なんだよお前。なんだよ。家族にあたしがそっくりだったりするのかよ」

 わからないの。苦しいのかも理解できなくて、ただ抱きしめて涙を零さずにはいられなかった。

「貴女。名前は?」

「あたしか? ミーティアだけど。ていうか買わないならどっか行ってくれよ。あたしって名器で床上手なんだぜ。いいだろっ」

「……そうね」

「天国を見せてやるから金が出来たら来いよな。こんな泥の塊じゃなくてさ」

「……これは泥の塊じゃなくて焼き菓子よ。食べて見て」

「なんだ。食い物だったのか。早く言えよな。つうか言っとくけど金じゃなきゃあたしは買えないからな」

「……そうね。お金じゃなきゃダメだよね」

「……なんだよ。一回だけならいいけど? 天国行っとく?」

「ううん。私は地上で十分よ」


 お嬢様の毎年のお祝い。煌びやかなパーティー。婚約者が決まったって。王子様が微笑んでいる。


 小さな弟と妹が足元にいて、最高の家族を見せつけられている。


 別にお祝いが羨ましいわけでも、煌びやかなパーティーをしたいわけでも、豪華な衣装が欲しいわけでも、宝石で着飾りたいわけでもない。


 何時か私だけの王子様が迎えに来てくれるだなんて。


 ロゼを想像して馬鹿だなって。


 妄想の中だけでもいい。誰にも責められず、誰にも指図されず、誰にも干渉されず、一人で、ゆっくりと、時間を、過ごしたかった。嫌なものを見ず、考えず、他人を卑下せず、正しさを纏わず、上も無く、下も無く、ただ、穏やかな時の中にいる自分を夢見ていた。


 たまに無邪気なミーティアを眺める。


 他人を卑下せず、馬鹿にせず、正しさを纏わず、上下無く生きるには、私は何も知りませんと、無邪気でいるしかなかったのかもしれないと。そうも考えてしまう。愚かですよね。


 数年もすれば入れ替わり立ち代わり古株へと変わってゆく――私はすっかりと古株へと変わってゆきました。


 朝は誰よりも早く起き、身支度を整え、調理場へと赴き水を汲みます。冷たい水を眺めると、何時もどんぐりとロゼを思い出して温かい気持ちになります。


 料理人達が来る前に調理場を掃除しお湯の準備を、次に旦那様や奥様が通る通路を重点的にお掃除致します。段々と朝が気配を帯び始め、厳かに人の動きに空気の流れが混ざって参ります。


 沸かしたお湯を持ち、お嬢様の下へ。犬と戯れるお嬢様を妬んでいた私もおりました。今はただ、お嬢様にはお嬢様なりの苦労があると理解しております。


 婚約が決まってからはなお学びや稽古に力が入り始め、笑顔は随分と少なくなりました。

「お嬢様。朝にございます」

「……お湯を頂戴」

 お湯をお渡しする時は、覚悟を決めねばなりません。

「熱い‼ 貴女私に火傷させるつもり⁉」

「申し訳ございません」

「ほんと使えないわね。貴女って」

「申し訳ございません。お嬢様。今冷ましますので」

 水を僅かに足しお湯を冷まします。温度は丁度良かったです。

「どうぞ」

「ぬるすぎ……」

「申し訳ございません」

「はぁ……」

 お嬢様は足すための水を手に取り、私の頭に垂らします。予めある程度温めた水ですので冷たくはありません。

「どうしてそんなに無能なのかしら。貴女って何年使用人やっているの? どうしてそんなに無能なのかしら。教えて頂戴」

「……申し訳ございません。お嬢様」

 何を言っても無駄だから、謝るしかない。反論するのを待っている。激高するのを待っている。誠心誠意仕えていますと伝えたら、お嬢様は喜喜として私を罵るだろう。足で私の頭を踏みつけます。

「つまらない人。生きている意味あるの? 床は貴女が掃除しなさいね」

「はい。お嬢様。申し訳ございません」

「朝からほんとに嫌だわ」

「申し訳ございません」

 こうなのでお嬢様のお世話をやりたがる使用人はおりません。


 さすがですお嬢様。朝から凛々しくございます。おべっかを使ってもいいの。でもおべっかを使った使用人は頬に平手を受け、人知れずこっそりと涙を零していたのを知っています。


 たまに私をけなし、他の使用人を褒めて私の様子をご覧になられる時もございます。私が嫉妬するのを観察しているのです。


 私達に階級はあれど、お嬢様の前では皆平等に下なのですから。


 王子様の婚約者となりますと旦那様も奥様も、お嬢様に厳しく接するようになりました。将来恥をかかぬようにするため、王子に相応しい淑女とするために、仕方の無い厳しさなのです。


 自由ではなくなり溜まったストレスを、お嬢様は私達にぶつけるようになりました。


 おかしな話なのですが、私はそんなお嬢様を少し可愛らしく感じていたのです。それは正の方向にではありません。やっと天使が人間になったのかと、喜んでいたのです。


 天使ではいられなくなったお嬢様を眺めて、暗い感情を抱くお嬢様を眺めて、こんなに大事に育てられましても、このように仄暗い人間になるのだなと、安堵していたのです。笑ってしまいますよね。


 輪をかけるように周りの出来事はお嬢様を人間へと引きずり下ろしてゆきました。


 見てしまったの。奥様が旦那様ではない男性と楽しそうのお喋りをしているのを、情事にふけってしまっているのを。


 そして弟の髪の色が、その男性にそっくりな事を。


 思春期のお嬢様にとり、それは心を壊すのに十二分な出来事でした。


 人が人を裏切る事実を知る。得体のしれない感情に囚われて憤る。家族から距離をとり、父に対して哀れみと怒りの視線を向ける。母親に対して憎しみを抱き、そして弟を嫌悪する。


 特に弟に対する扱いは如実に変化し、視界入るだけで激高してしまうなど、自分の理性では抑えられない衝動と、綺麗でありたかった自分と、理想と現実の間に生じた摩擦とストレスを使用人に向けるようになりました。


 心と体調を崩し、お医者様にもその理由が解明できない。王子様がお会いにこられても、荒れた姿は見せられないと面会を拒絶してしまいます。


 あてられるから使用人達はお嬢様のお世話を嫌がるようになりました。我儘姫と裏で囁くようになり、確執は大きくなるばかりです。


 食事も喉を通らず、吐き戻してしまうのを両手で受け止めます。

「昔はあぁじゃなかったのに」

「ね。弟にあんな態度をとるだなんて」

「奥様に対しても怒鳴ってばかり」

 真実を知らない者達は、お嬢様の心の内と葛藤と現実を結び付けられません。


 上手く行かない学び。心労。未来。王子様。不安。自由もなく。何時まで続くのかわからない。母親の不倫。血の繋がらない弟。お嬢様の心を破壊するのには、あまりにも十分過ぎました。


 気が付けば、お嬢様のお世話をするのは私だけとなっていた。

「あんたも私が嫌なのでしょう」

「そのような事はございませんよ」

 他人の悪口を言えば、それは不信へと変わる。私はそれを知りました。他人の悪口を零せば、自分も裏で悪口を言われているのではないかと、相手から遠ざけられます。私はそれを知りました。

「嘘ばっかり‼ どっかいってよ‼」

「大丈夫です。お嬢様……。お嬢様。私はいずれ伯爵様の側女になるのが決まっております」

「……え?」

 嘘をついてはいけません。嘘をつけば、相手に軽んじられます。真剣な話をしても相手に聞き入れてもらえなくなります。

「パン粥をお作りしましたので、少しでもお召し上がりになってください」

「……本当なの?」

「本当ですよ? だから今だけは、お嬢様のお傍にいさせてください」

 正しさを相手に押し付けてはいけません。理解はしていても変えられない現実は存在するのです。

「ゆっくり咀嚼して、召し上がってください」

「……ねぇ? どうして人は、人を裏切るのかしら……」

「それは私にもわかりません」

 甘えるように身を寄せるお嬢様を支えます。

「貴女も私を裏切るの?」

 ギラギラと獣のような瞳。弱い力でも爪を立て、私の肌へと食い込ませます。

「裏切るも何も、何を裏切るのか、裏切るものが私にはありません」

「裏切らないって約束して。傍にいるって約束して。これからはずっと傍にいるって約束して。裏切らないって約束して」

 それを約束するのにリスクは何もありませんでした。始めにリスクを考えてしまうあたりが、私の限界なのかもしれません。そしてそれを拒絶する力が私にはありませんでした。応じるしかありません。

「約束致します」


 賭けでした。奥様に自身のなさっている事を告げるのは諸刃の剣でした。奥様が事実の露呈を恐れて私を消すかもしれません。ですがこのままでは。奥様に接触する機会を見計らい意を決して奥様へと告げました。

「大変失礼を致します奥様。少しお話をよろしいでしょうか?」

「掃除番‼ 奥様に声をかけるだなんて無礼ですよ‼ 申し訳ございません奥様」

「……いいのよ」

「奥様‼ どうかお話を聞いてくださいませ‼」

「コイツ‼ まだ言うか‼」

「お嬢様に関してにございます‼ 奥様‼ どうかお話を聞いてくださいませ‼」

「申し訳ありません奥様‼ おい‼ こいつをすぐに下がらせろ‼」

「奥様‼ お願い申し上げます‼」

「おい‼」

「……いいわ」

「奥様⁉」

「話ぐらい良いでしょう? 他の方は下がって」

「しかし‼」

「下がりなさい」

「……はい」

 奥様が私をご覧になられておられました。私は蛇に睨まれたカエルのように、震えながら縮こまっておりました。

「それで? お話とは何でしょう?」

「恐れながら申し上げます。お嬢様は奥様の情事をご覧になられてしまいました」


 奥様の表情を一瞬足りとも見逃せませんでした。怒りの表情であったのなら、私は消されるでしょう。しかし奥様の表情は、困惑なされておられました。

「……それは、まさか、本当なの?」

「……はい奥様」

「はぁ……。貴女、名前はなんて言ったかしら?」

「リタと申します。リタコートニーと申します奥様」

「なんてこと……」

「お嬢様は弟君様がその相手の子ではないかと疑っておいでです」

 そう告げると奥様の顔色は、みるみると青白くなってゆきました。ソファーへともたれ掛かり、深く息を吐き出します。

「そう。なのね。リタ」

「はい」

「もう知られてしまったのね」

「……はい」

 奥様は重たい息と共に事情をお話となりました。

「元々私は彼と恋人同士だったの。でも親がそれを許さなかった。今の侯爵様が私を気に入ったから。私は恋人と別れて侯爵様と婚姻する事になったの。だけれど……貴女も知っているでしょう? 夫は……私以外の女性と」

「……はい。存じております奥様」


 何の後ろ盾もない侍女が身を護るのは容易な事ではありません。でも至極簡単な方法があります。それは旦那様に気に入られる事です。女としての武器はてっとり早く、わかりやすかった。慣習のように差し出すのです。


 旦那様はそれを受け入れる。旦那様の庇護を受ければ、もうイジメられないから。

「……旦那様に問い正したの。だけれど旦那様は侍女を抱くのをやめなかった。貴女達の事情もわかるの。慣習となっているものね。これが無ければ身を護れない女性がいるのも、理解はできるのよ。でも私には耐えられなかった。そんなおりに、かつての恋人に再会したの。彼はずっと私を思い、婚姻もせずに思い続けてくれていた。その思いを断る事が、私にはできなかったの……。あの子は確かに私と彼の子よ。旦那様もそれに気付いている」

「失礼を承知で申し上げます奥様」

「貴女はどうしたいの? 何が望み?」

「お嬢様に自身の気持ちをお伝えください。お嬢様に優しくして差し上げてください。お嬢様と良くお話になられてください」

「……それは」

「それと、一つ訂正を致したいのですが、よろしいでしょうか?」

 私は相手の男性を調べました。身分は低いのですが貴族の方です。調べるのは容易でした。男性の事実と奥様の認識に差異があるようでしたので。

「何かしら?」

「相手の男性には奥様も、そしてお子様もございます」

「……何を、言っているのかしら?」

「失礼ながら、お相手の男性を調べさせていただきました。これは事実でにございます」

「そんなまさか。何かの間違えよ……」

「奥様。貴族が婚姻しない等と、そのような事が無いのは貴女が一番に理解している問題のはずです。奥様」

「嘘よ。そんなの嘘。嘘よ……」

「仲睦まじいご様子に窺えました。一番上のお子様は、お嬢様と同い年だそうです」

「そんな……」

「私の申し上げる言葉では、信じられないかもしれません。信じられないのであれば、どうかお調べになられてください。お話をお聞きいただき、ありがとうございます」


 話を終えた後、誰もいない所までゆき、解放された緊張からかその場に座り込んでしまいました。緊張から解放されたのに、心臓が痛いくらいに鳴っている。怖かった。泣いてばっかりだね。股間が痒くて痛い。私は無事に済むかしら……。

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