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六章・選択の果て(1)

 狭い小屋のなかではあったものの、昨晩の眠りは深く穏やかだった。そのお陰か頭がすっきりと冴えている。目覚めて一通りの雑事を済ませたあと、ハフリは小さな机に本を広げて目を通していた。

 扉を叩く音に「どうぞ」と返すと、顔を覗かせたのはスオウだった。束ねられた赤髪が、風にゆられて鮮やかにきらめく。

 人懐っこそうな笑みがこちらに向けられ、ハフリも表情を和らげた。


「今日は顔色良さそうやね」

「うん。調子もいいよ。ごめんね、足の踏み場がなくて」


 いよいよ小屋の奥深くの書物に手を出さざるを得なくなり、小屋の中は酷く雑然とした様相を呈していた。寝る場所や座る場所を作るだけでも一苦労といったところだ。

 スオウは気にする様子もなく扉を閉めたが、放たれた言葉は予想外のものだった。


「……あのさ、ごめん」


 出し抜けに謝られてハフリが首を傾げると、スオウは困ったように息をひとつつく。


「昨日、神木のとこでソラトとおったとこ、視た。小屋に来たらハフリちゃんおらんし、何かあったのかと思って」


 こちらに向けられた瞳の鳶茶が、たまゆら紅に変化する。赤鷹の民のチカラを使ったのだろうとは察せられたが、それでも謝罪の理由がわからずに、ハフリはまばたきするしかない。

 そんなハフリを見やって、スオウは改めて向き直り頭を下げた。


「覗き見して、ごめん。誓って、話してたこととかは聴いとらんから。目と違って耳は人よりちょっと良いだけやし……って、すげえ言い訳くさいけど」


「のぞきみ」


 おうむ返しして、ハフリは昨日のことを思い出す。

 神木のもとで目覚めたらその裏でソラトが眠っていて、寝顔を見つめていたら思わず、


「あ」


 額にくちづけたのだった。ソラトは眠っていたし、自分は何も考えていなかったけれど、くちづけが自分本位かつソラトの意志を無視した行為であることには変わりはなく。謝るのは自分の方ではないかと一瞬にして血の気が引いてゆく。


「ちょ、ハフリちゃん。どうした――」


 慌てた様子で手を伸ばしてきたスオウの目が見開かれ、膝から突然力が抜けたように崩れる。受け身も取れぬまま本の山に飛び込むかたちになったスオウに、ハフリは悲鳴をあげた。

 一体何が起こったというのか。状況に頭が追いつかない。

 うずくまるスオウの背をさすりながら、震える声で名前を呼ぶことしかできない。


「スオウ」


 スオウは顔を伏せたまま息を整えているようだった。首筋にはうっすらと汗が滲んでいる。スオウの姿が先日の自分と重なり、あのときの激痛が思い起こされてハフリも息が詰まりそうだった。


「チカラを、」


 スオウはゆっくりと身を起こすと後退し、壁に背中を預けて腰を落ち着けた。大きく息をつくと、あくまでも平静を装って、


「チカラを使うとときどき、こーなる。大丈夫」

「大丈夫には見えないよ」


 恐らくだが、今スオウを襲ったのはハフリと同じ症状だ。あの痛みが、命を削る天罰のごとき痛みだとハフリは知っている。

 けれどスオウは、顔を青ざめさせながらも笑ってみせた。


「ちっさいころにさ、意識失って死にかけたこともあってさ。それと比べりゃ全然マシ。まあ、それは親の言いつけ守らんかった自分が悪いんやけど」


 心配してくれるなと言わんばかりのスオウに詰め寄ることもできず、ハフリはおずおずと問いかける。


「言いつけって?」

「遠くを視るなとか、長くチカラを使うな、とか。チカラを使うときの決まりみたいなもん。どこまで遠くを視られるのか気になって試したら、案の定ぶっ倒れて熱は出るし身体は痛いし死にそうになるし親には泣かれて怒られて、散々やった」


 おどけた口調で紡がれる内容をひとつひとつ咀嚼しながら、ハフリの脳裏によぎったのはイグサの言葉だった。


 ――わしらの未来を知る力、そして歌鳥の民の癒しの力。これらは、未来に干渉し、あるべきさだめをねじ曲げる可能性のある力だ。そういった力にはね、必ず制約がついてまわる。


 ハフリが『森を出る』という制約を破ったが故に痛みに苛まれるように、スオウもなんらかの制約――彼の言葉を借りるなら『言いつけ』を破っていることは知れたが、うまくつながらない。

 そもそもチカラとは、制約とはなんなのだ。この痛みを与えるのは一体何者だというのだ。見えない強大なものの影を見てしまったような気がして、背筋が冷える。スオウに説明しようにも、うまく言葉にできず、歯がゆい。


「そういえば」


 顔色がだいぶ良くなったスオウが、思い出したように問いかける。


「ハフリちゃんって、どの民? どんなチカラが使えるん?」


 思えばツムギにこそおのれが歌鳥の民であることを告げたが、チカラのことまでは何ひとつ説明していなかった。

 自分が歌鳥の民を名乗ることに未だ引け目はあったものの、口は思いのほか滑らかに言葉を紡ぐ。


「歌鳥の民。歌で怪我や病を癒すの」

「歌で?」

「そう」


 へえ、とスオウは心底驚いたように息をついた。


「そんなら病気知らずの怪我知らず、か。随分長生きできそうなチカラやなあ」


 長生き、という言葉が引っかかり、ハフリはしばし黙考する。


「……そうでも、ないかも」


 でなければ、父はともかく歌鳥の民であった母が早世したのはおかしい。

 ここにきてハフリは、おのれが両親の死因を知らないことに思い当たる。父の死に様が魂が徐々に抜けていくように静かで穏やかだったことと、握っていた手の温度の変化だけは鮮明に覚えていたが、あのときだって、傍にいたセトも他の誰も癒しの歌をうたおうとはしなかった。

 そもそも周りの歌鳥の民は、大きな、ややもすれば命に関わる怪我や病を歌で癒すことを忌避していた部分があるように思えた。

 それがいわば、スオウの言う『言いつけ』のひとつだったのだろうか。父母に教えられることはなかったが、セトやキリにとっては説明など必要のない、知っていて当たり前のことだったのかもしれない。


(わたしはほんとうに何も、知らない)


 ゆえに、知っていたら新たにわかるかもしれないことが、わからない。


「おーい」


 気づけばスオウが寄ってきていた。はっと顔をあげると鳶茶のまなざしとかちあう。


「えらい考えこんどるみたいやったから。ごめんな? てきとーに、どうでもいい話がしたかっただけやから、あんま気にせんといて」

「わたしも、ごめんね。すぐぼーっとしちゃって」

「ついでってわけでもないけどさ」


 スオウの声の調子が、ひとつ落ちる。


「ソラトはなんか言っとった? いつハフリちゃんを山に連れて行くとか、さ」


 こたえに間をあけてはいけないと、直感的に思った。


「なんにも、きいてないよ」

「そっか」


 返しは素っ気なかったが、赤鷹の民の見通す瞳に、すべてを見透かされ咎められている心地がした。

 刻限は、五日後に迫っている。

 ぎりぎりまで、ハフリはこの小屋で足掻き続けるつもりだ。隠し事をするのは心苦しくもあったが、隠し通さねばならない。ここで動じてはならないとおのれに言い聞かせ、目を逸らさずにスオウを見つめる。

 ふいにスオウが破顔した。立ち上がって衣に付いた砂をはたくと、ハフリを手招く。


「ちょっと、外行かへん? 息抜きに」




 余り布を敷き詰めた箱にフゥが眠っているのを確認すると、手近にあった毛皮の布を肩に羽織り、スオウを追って外に出た。

 一見すると掘っ立てに見える小屋は思いのほか丈夫な作りらしく、厚着をすれば耐えられる温度を保ってくれているが、外はそうもいかない。おのれを取り巻く状況と身体の不調に振り回されていた日々であったけれど、もとより温暖な土地で暮らしてきたハフリにとって、この土地の寒さは身にこたえるのだ。

 数歩先を歩んでいたスオウが、こちらを振り向くなり僅かに目をみはった。「それ」と毛皮を指差され、ハフリは腕を広げてみせる。スオウの様子を見るに、彼が持ってきてくれたものではなさそうだ。


「昨日起きたら肩にかかってて。ツムギさんかな?」

「いや、ちゃう。けど」


 スオウは言葉を濁しかけるも思い直したように、


「それは、ソラトの。一緒に狩りに行ったときに獲ったやつやから、覚えてる」

「ソラトの」


 ほうけたように繰り返すと、スオウは「そう」といたって真面目な顔でうなずいた。


「そ、そうなんだ」


 声が自分でも笑えるくらいに上ずっていた。

 昨朝、フゥがソラトを真似てハフリを呼んだのを思い出す。毛皮のあたたかさが増した気がして、そんな単純な自分が気恥ずかしくもあり、頭を抱えてうずくまりたくなる。

 ふ、と息を吐いた気配がしてそちらをうかがうと、スオウがあわく笑んでいた。切れ長の瞳にすっと通った鼻筋、中性的なやわらかい表情。改めて見れば見るほど、彼はとても整った顔立ちをしている。

 ハフリがまじまじ彼の顔を見つめていると、


「うん」


 スオウが脈絡もなくうなずいた。


「どうか、した?」


「大丈夫かなって。安心した」


 大丈夫と、安心。それらが何を指すのかはかりかねるも、思い当たる節はいくつもある。


「心配してくれて、ありがとう」

「どーいたしまして」


 おどけた調子に戻ったスオウに、ハフリも笑った。

 スオウとは話しやすい。それは同い年ゆえの気兼ねなさと、適度にこちらの言葉を引き出してくれる彼の話術のお陰でもあったけれど、それだけではないような気もしていた。

 どこに向かうでもなく歩を進めながら、息をするように言葉を放りあう。


「前髪、さっぱりしたな」

「うん。切って良かった」


 視界の上端で、短い小麦色の髪が揺らめいている。視界を塞がれることはもうない。

 つい目移りしたのはスオウのそれだった。


「スオウは髪を伸ばしてるの?」


 くせのない、腰まで伸びた美しい真紅の髪。彼にはとても言えないが、まるで幼いころに読んだ絵本の『おひめさま』のようだと、密かに思っていた。


「ああ、これ」


 スオウは束ねた髪を手に取ると、指先を通す。少しの傷みも見受けられない、絹糸のような髪だ。


「伸ばしとるというか、伸ばすのが赤鷹の民の伝統。えーと、大雑把に言うと、『一人前になったら切ってよし』って感じ」


 髪から手を放すと、苦笑混じりに肩をすくめる。


「だから長いんは、半人前のあかし、ってこと」


 ――半人前。


 歌鳥の民が『歌えること』で一人前と認められ額飾りにさす羽を与えられるように、赤鷹の民にもそういうたぐいの決まりがあるのだろう。スオウの表情に垣間見えた翳りは、ハフリがよく知るものだった。


「スオウなら、大丈夫だよ」


 よく知るものだからこそ、彼にはそんな表情など似つかわしくないと思った。慰めでも気休めでも励ましでもない、確信だった。

 一方スオウは気が抜けたように眦をゆるめる。


「変わったな、ハフリちゃん。言葉がちゃんとこっちに届いてくる感じがする」

「そう、かな」


 照れくささにはにかむと、スオウがぽつぽつと、なんでもないことのように語り出す。


「さっき、ちっさいころにチカラでどこまで見れるか試して倒れた、って話したじゃん」

「うん」

「なんかもう、すごくて。山とか、海とか、見えた映像そのものよりも、どんどん自分の周りが拡張していくっつーか、暴かれてくというか。世界が広がる分、自分がすげーちっさくて取るに足りないものに思えた。だからか、倒れて死にそうになったとき、ガキながらにしかたないなって思った。どうしようもないんだって。世界から見ればオレは吹けば飛ぶような小さなチリだもんなって」


 でも、とおかしげに肩を揺らす。


「しかたないって意識を手放そうとするたびに、ばかたれって叫ばれるわけ、横で」


 誰がとは、言われなくてもわかった。


「で、ずっとそれから、そんな感じ。……ごめん、唐突すぎてわけわからん話やったな」

「ううん。わからないけど、わかる気がする。スオウのきもち」

「なんやそれ」


 はぐらかすように笑うので、ふつと悪戯心が湧いた。


「スオウにとって、ツムギさんは大切なひとなんだね」


 茶化すのは躊躇われたのであくまでも真面目に口にすれば、スオウは出し抜かれたように「は、」と息を吐いて固まる。彼がこうなるのは大変珍しいことに思えたので、ついつい、さらにつつきたくなってしまう。


「ちがうの?」


 追い討ちをかけると、しどろもどろに、


「まあ、確かにそうかもやけど。その、えっと」


 スオウは顔をつくって一瞬平静を装おうとするも、失敗し。赤らみ始めた顔を隠すように顔を背け、弱った声を漏らした。


「あんまからかわんといて……」

「からかってはないけど、ちょっと面白かった」

「ひでー」


 少し悪いことをしたな、とは思う。彼のツムギに対する想いは、ともに過ごした年月が長い分ハフリのそれよりもずっと深く、衝動で突き動かすにはずっしりとしている。いまの関係が心地よいものなら尚更、想いを伝えるのは憚られるだろう。

 好きだと自覚することと、その気持ちを相手に伝えることの間には、大きな壁がある。ハフリはその壁の前で立ち尽くしているし、おそらくはこのまま、越えることがない気もしていた。


「そういやツムギとは、喋っとる?」


 話題を変えようとしたのか、スオウの声はいやに明るい。が、結局ツムギのことを口にしてしまったせいか、途端にばつの悪い顔になっている。

 それは見なかったふりをして、


「うん。夕飯はいつも一緒に食べてくれるの。ただ、あんまり元気がないみたい」

「そっか」

「なにか知ってる?」


 ぴんと来るものがあって問うと、スオウは思いつめるように黙り込む。伝えるか伝えまいか迷っているふうだった。


「多分、ツムギは――」


 何がしかを口にしようとするも、打ち切られ、スオウの視線がハフリの向こう側をとらえる。つられて振り返るとそこにいたのは、


「ツムギ、さん?」


 そこにいるのは紛うことなくツムギだった。


 けれども疑問符をつけずにいられなかったのは、彼女があまりに彼女らしくなかったからだ。紺青の瞳には力がなく、顔は蒼白で、今にも倒れそうなのに駆け寄ることを躊躇わせるような空気を纏っている。

 くしゃりと、ツムギの手許で何かがひしゃげた。筒状に丸められた羊皮紙が、曲がって存在を主張している。ツムギは咄嗟にそれを後ろ手に隠そうとしたが、


「なんや、それ」


 スオウがそれを許さない。ハフリを背に回して立ったスオウに、ツムギが不快げに眉をひそめた。


「あんたには関係ない」

「それ、地図やろ」


 スオウの断言に、ツムギが身をこわばらせる。


「ハフリちゃんは『森には帰らない』って言ってたと思うんやけど」

「その子は森に帰ったほうが良いのよ」

「それは誰にとって良えわけ?」


 寸刻前と打って変わって、スオウの声にはわずかに嘲るような響きと、苛立ちがあった。

 ツムギはスオウを睨みつけ顔を崩し、鼻で笑う。


「帰したくないなら、あんたが四六時中その子に貼り付いてればいいでしょ」


 ここにきてようやく、ツムギが努めてハフリを視界に入れまいとしているのがわかってしまって。いてもたっても居られず、ハフリは声をあげた。


「ツムギさん」


 呼ばないでと。ツムギの視線が訴える。


「なに、よ」


 吐き捨てられた言葉が次々と地面に落ちた。


「帰った方が良いって、自分でもわかってるでしょ。生贄になるかもしれないのに、身体だってぼろぼろのくせに、なんでここにいたいなんて言うの? なんでそんな、そんなに」


「ツムギ」


 伸ばされたスオウの手を思い切り弾いて、ツムギが決壊したように叫んだ。


「放っておいてよ! あんたにはわかってたんでしょ。あたしが考えてたこと」


 よろりと一歩後退し消え入りそうな声で、


「あたしが卑怯で、汚い奴だってこと」


 自分を傷つけるように、


「だいきらいよ」


 こぼれた言葉を、無視などできなかった。

 無意識に足が動きスオウを追い抜いてさらに一歩、踵を返しかけたツムギの身体を、精一杯伸ばした両手で捉えて正面から抱きついた。

 ハフリよりほんの少しだけ大きい身体は、解放したら崩れてしまいそうなほどに力が感じられなかった。


「はなして」

「はなしません」

「だいきらい、あんたなんか」

「それでもいい!」


 嫌いと言われても、離す気はなかった。不思議と傷つきもしなかった。むしろツムギが言葉の刃を逆手に持って、自分自身を傷つけているような気がしてならず、一刻も早くやめさせたいと思った。

 弱々しくもがき逃れんとするツムギの身体を、心臓の鼓動を重ね合わせるように、あるいは、ぬくもりを分け与えるように、ぎゅうと、抱きしめる。

 ツムギは忘れているかもしれない、と思いながら、


「前にマトイさんのところでツムギさんのつくった膝掛けを見たっていいましたよね。あのとき、伝えられなかったことがあったんです」


 ずっと伝えたかったことを、今みつけた。


「わたし、あの膝掛けが好きです。色づかいも模様も、ぜんぶ。強くて、鮮やかで、あったかくて。――まるで、ツムギさんみたいだった……!」


 ツムギの手から落ちた地図が、地面に転がった。


「ば、かじゃないの」


 ツムギの身体が震える。耳許で、喉が狭まる痛々しい音が響いた。


「……こわかったのよ」


 ツムギの手がハフリの背に触れる。指を立ててしがみつかれる。爪を立てたいわけではなくて、そうでもしないと立っていられないのだと知れた。


「あんたが来てからずっと、あたしの居場所、とられるんじゃないか、なくなるんじゃないかって。怖くて、怖くてたまらなかった。ずっと、さんにんだったのに、あんたが来たから、もうさんにんでいられないって。ううん。あたしがいらないんだって、思った。だから、あんたがうとましかった」


 一定しない呼吸音、ハフリの肩口に落ちる雫。それらを身をかたくし拳を握りしめ、必死で抑えようとしているツムギに、かける言葉は見つからず。ここで背中をなでたりしたら彼女の矜持を傷つける気がして、ハフリはただ腕に力をこめた。

 居場所のない心細さは知っている。

 けれど、だからこそ、ハフリとツムギは違うのだとわかる。彼女がソラトやスオウと築いた関係と、つくった居場所はハフリひとりの介入で揺らぐほどやわなものではない。


「ツムギさんは、ツムギさんですよ。わたしなんかじゃ、代わりにならないです」


 三人の関係を誰より羨ましく思っていたのは、ハフリ自身だった。

 自分の声が思っていた以上に寂しげで、情けない。本当のことを口にしただけなのに、胸がちくんと痛んだ。せめて苦笑でもつくれればはぐらかすことができそうなのに、顔がひくひくと引きつって、鼻の奥がつんとする。


「ああ、もう」


 ふいに、ツムギが声を漏らした。


「よく、ききなさい」


 かすれた声で、ささやく。


「……あんたのこと、きらいじゃない」


 背中に立てられていた指から、ゆっくりと力が抜ける。両の手のひらがあてられて、引き寄せられる。ツムギは大きく一度鼻をすすって、


「わかった? きらいじゃないって、言ったのよ」


 ここまで言ったらわかるでしょと言わんばかりの口調は、ハフリのよく知るツムギのものだった。

 彼女がもう支えなくとも立てることがわかって、そっと腕をはなす。

 ツムギが衣の袖で乱雑に目許を拭っているのを見やったスオウが、呆れたように呟いた。


「ばかなやつ」

「なによ」


 反射的にスオウの方に向き直ったツムギに、手が伸ばされる。


「ほんま、ばかなやつ」


 スオウの両の手のひらがツムギの頬を包み込む。言葉を失い目を見開くツムギにたいし、スオウは微苦笑を浮かべていた。親指が傍目にも優しく目許を拭う。なぜだか気恥ずかしくハフリが目を逸らそうとしたそのとき――スオウの指がツムギの頬をつまんで、左右に引き伸ばした。


「なんつー顔、しとんの」


 たまらずといった風に盛大に吹き出したスオウは、肩を揺らして笑いながら、「それになんか」と言葉を続ける。


「背ェ、縮んだ?」


「はあ!?」


 ツムギがにわかに気色ばみ、首を振ってスオウの指から逃れる。言葉を探すように口を開いては閉じるを繰り返すと、


「あんたが大きくなっちゃったのよこの馬鹿!」


 叫ぶと同時に彼に背を向ける。すると今度はハフリと視線がかち合って。耳まで真っ赤に染めたツムギのようすに、ハフリは思わず笑ってしまった。


「なに笑ってんのよ!」


 張り上げられたツムギの声をさらうように、強い風が吹きすさぶ。身体を冷気が覆い、指先のかじかみを急に意識する。さっと笑みが引いて、顔がこわばるのがわかった。

 寒さ、痛み、恐れ、あらゆるものが一瞬開いた心の隙間を狙って押し寄せてくる。たまらず目を閉じると、森の天幕で独り膝を抱えて過ごした夜がふいに思い起こされた。暗闇に飲み込まれまいと必死で、明けぬ夜などないと知りながらも信じることができなくなりそうだった、あのころ――


「ハフリ!」


 呼ぶ声に導かれ顔を上げる。風に髪をなぶられ顔を顰めつつもツムギがこちらをのぞきこんでいた。まだ涙のあとが残る目をこちらに向けて、


「……ごめん」


 ツムギの両手が、それぞれハフリの手をとって握りしめる。


「あたし、もっと強くなるから」


 外気に晒されたツムギの手は冷たいはずなのに、不思議とあたたかい。


「だから、ここにいなさい」


 ああ、と。白い吐息がさやかにきらめき霧散する。今ここに立っていることが奇跡めいたことに感じられて、思わずもう一度、ツムギに抱きついていた。


「ちょっと、なんなの」


 ツムギは口を尖らせたが、ハフリがしがみついて離れないことを悟ると肩の力を抜いて息をつく。スオウが笑う気配がした。

 存在を確かめるようにツムギの肩に鼻筋をこすりながら、すんと息を吸い、思った。


(ここに、かえってこよう)


 何があっても、必ず。

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