8 紫煙と鑑定眼
めが古物店の扉はやっぱり重かった。
ナユハが先に入って片手で雑に押さえてくれる。私が中に滑り込むと鈴が鳴る。
カランカラン。
この音、さっきより嫌いじゃない。
店内の空気は相変わらず薄暗くて、埃っぽくて、タバコくさい。壁に染みついた匂いって、なかなか剥がせない。人間関係と一緒。だから私はいつも逃げるしかない。
ナユハはカウンターの奥に戻ると、さっきまで投げ出していた足を下ろして、今度はちゃんと椅子に座った。それだけで「偉い」とか思ってしまって、私は自分を殴りたくなる。
「座って」
短い。
命令っぽいのに、声は面倒くさそうで、妙に強くない。反抗する理由もない。
私は近くの丸椅子に腰を下ろした。座面が冷たい。木が痩せていて、店に似合ってる。
ナユハはタバコを探すように指先を動かして――一瞬だけ手を止めた。
私を見た。
「……吸わねぇ、よな。たぶん」
先回り。
私は黙って頷いた。実際吸ったこともない。でも先回りされると、ちょっとだけ悔しい。
ナユハは小さく鼻を鳴らして、代わりに缶コーヒーを取り出した。いつからそこにあったんだってくらい自然な動きで、棚の奥から。
そして、自分の分だけ開けた。
私の分はない。
……うん。いい。そういうの。距離があるのは安心する。
ナユハは缶を一口飲んで、息を吐いた。
「で」
短い言葉が場を切り替える。
「それ、出してみ」
私は麻袋を膝の上に置いた。紐をほどく。じゃら、と音がする。水色の石が光を拾って、淡く揺れた。
ナユハの目が、またあの目になる。
生々しい目。
でもいやらしいんじゃなくて、真剣な目だ。生活の目。生き延びるための目。
私はそういう目を見慣れていない。職場で見る目とは全然違う。あれは「いい人」を演じる目だ。どれだけ真剣でも、どこか演技が混じってる。
ナユハは石を一つ取って、指先で転がした。
意外と爪が短い。指は細いのに、節がしっかりしてる。何かを掴んで生きてきた手だ。
「……これ」
ナユハが言う。
「ただの石じゃない」
「……宝石?」
私が言うと、ナユハは笑った。声は出さない。口角だけ上がる、嫌な笑い方。
「素人が言うと可愛く聞こえるな。……こっちはマジだよ」
何それ。急に格好つけるな。たぶん自覚もないくせに。
ナユハは石を光にかざして、角度を変えた。水色が、ほんの少し緑を含んだように見えた。海の底みたいな色。
「パライバ……」
言いかけて、ナユハが口をつぐんだ。
言葉を選ぶ癖があるんだろうか。あるいは、私に教えるのが癪なのか。
たぶん両方だ。
「……希少なやつ。小粒でも値がつく」
「へぇ」
反応が薄いと言われそうな反応をしてしまった。実際、実感がない。金の匂いって言われても、私の人生に金の匂いなんてなかった。せいぜい、給料日前の飢えた匂い。
ナユハは石をもう一つ取った。
次は少し大きい。透明度が高い。光を含む。
ナユハの喉が動いた。
「……これ、やばいよ。マジで」
言い方が雑で、逆に本気なのが分かる。
私はようやく、嫌な予感が形になってくるのを感じた。
「どれくらい」
私は聞いた。自分でも驚くくらい、声が落ち着いていた。こういうとき、人は現実味のないまま質問するんだ。自分を守るために。
ナユハは指でこめかみを押さえた。
考える仕草じゃない。頭痛を堪える仕草。
「……言うと、お前、倒れるぞ」
「倒れない」
「倒れる」
「倒れない」
やり取りが幼稚で、自分でも笑いそうになった。
ナユハは私をじっと見た。
その目は、さっきより少しだけ柔らかい。
……いや、柔らかいんじゃない。
“測ってる”。
私がどれくらい耐えられるか。受け止められるか。変な客じゃないか。
測られるのは嫌いだ。でも、測る側の気持ちも分かる。私も職場で人を測ってきた。面倒が起きないように。
ナユハは諦めたみたいに息を吐いた。
「……数千万はくだらないのが、混ざってる」
私は「あ」って言いそうになって、やめた。
声に出したら現実になる。
でも、実際に現実で、私の手の中でじゃらじゃら音を立てている。
私は麻袋を見下ろした。
水色の石。
村では「ただの石」って言われてたやつ。
あの薄い粥と、火の匂いと、ウルカの目が頭の奥で繋がる。
――これ、渡しちゃってるとか、まずくない?
私は喉の奥が乾くのを感じた。
「……返しに行けないの?」
言ってから、自分で可笑しくなる。
行けるなら、今頃私はあっちで生きてるだろ。
ナユハは肩をすくめた。
「行けるなら行くだろうな。……つーか、どこで手に入れたんだよ」
そこでまた来た。
核心。
逃げたい。でも、逃げたらまたこの人は絶対に追ってくる。さっきの路地で証明済みだ。
「……知らない」
私はもう一度嘘を吐いた。
ナユハは目を細めた。
「嘘だね」
即。
最悪。
沈黙が落ちる。店の奥の方で何かが、カタ、と鳴った。風かもしれないし、私の心臓が鳴っただけかもしれない。
ナユハはコーヒーを一口飲んで、ゆっくり言った。
「お前が拾ったにしろ、もらったにしろ、盗んだにしろ、いずれ足がつく」
急に現実の単語を出す。
足がつく。
それだけで背筋が冷える。私が人生で何度も繰り返してきた“逃げ”の記憶が、反射で動く。
「足って」
「同業。税務。盗品の疑い。あと、面倒な客。反社っぽいやつも。……色々だよ」
言い方はだるそうなのに、内容がやたら具体的だ。だからこそ怖い。
ナユハは石を袋に戻して、紐を結び直した。
丁寧な動作だった。
乱雑な服装のくせに、手だけはやたら丁寧。ギャップが腹立つ。
「これ、売るならルートがいる。……私ならある」
その言い方が嫌だった。
“私なら”。
優位。支配。依存。罠。
私はそういうのに弱いくせに、心底嫌いだ。
「……じゃあ売って」
口が勝手に言った。
言ってから、頭の中で警報が鳴る。
何言ってんだ私。
ナユハは一瞬だけ眉を上げた。
「軽いな」
「それが取り柄なんで」
「……取り柄って言うな」
ナユハが妙に真面目な顔をした。
「お前。これ、今すぐ誰かに見せんなよ。SNSとか論外。拾ったとかも言うな。写真も撮るな」
命令口調。
でも、それは押しつけじゃなくて、たぶん“事故防止”だ。
私は頷いた。
「スマホ死んでるし」
「……そういう問題じゃねぇけど、今は助かるな」
ナユハが小さく笑った。
その笑い方がなんだか人間っぽくて、私は少しだけ息がしやすくなった。
……だめだ。
この空気に慣れたら、私はここに居着く。
居着いたら、また終わる。
でも今は、とりあえず話を聞くしかない。
「で」
ナユハが言った。
またスイッチが切り替わる。
「お前の名前」
「カヨ」
「フルで」
「……佐雨。佐雨カヨ」
フルで出すの、久しぶりだ。自分の名前って、他人に渡すときに妙に重くなる。捨てたいのに捨てられない感じ。
ナユハは私の名前を噛むように繰り返した。
「ささめ、かよ」
そして、鼻で笑った。
「雨っぽいな」
「雨は嫌い」
「私は好き。……いつもよりヤニ吸えるし」
最低の理由だった。
でも、その最低さがちょっとだけ救いだった。
ナユハはカウンターの下から灰皿を出しかけて、また止めた。
さっきのやり取りを守っている。それがまた腹立つ。でも、変に信じられる。
ナユハは私を見た。
「お前、今どこ住んでるの」
「……ボロアパート」
「家賃は」
「四万ちょい」
「……安っ」
反応がリアルすぎて笑いそうになる。
ナユハは顎に手を当てて、少し考えるふりをした。
いや、ふりじゃない。本当に考えてる。ちゃんと向き合う顔になる。
「この袋、預かる」
「え」
「お前が持って帰ったら、絶対事故る。……盗まれるか、ビビって捨てる」
当たってるのがムカつく。
「捨てない」
「やりそうな顔してる」
「してない」
「してる」
また幼稚なやり取り。
でも、ナユハの言うことは正しい。私は、怖くなると逃げる。怖いものほど先に捨ててしまう。自分が傷つく前に。
ナユハは麻袋をカウンターの奥にしまった。
鍵の付いた引き出し。カチリと音がする。
その音がどこか落ち着いていた。
「……で」
ナユハが言う。
今度の“で”は、ちょっとだけ優しい。
「どこで手に入れたか、言える範囲でいい。嘘つくなら、もう帰れ」
帰れ。
その言葉が妙に刺さった。
帰る場所なんて私にはない。ボロアパートはある。でも、あれは帰る場所じゃない。ただの箱だ。
私は視線を落とした。
口を開こうとして、止めた。
言ったら終わる。
言わなかったら、この場も終わる。
私は息を吸って――吐いた。
「……海の村で、もらった」
ナユハの目がわずかに細くなる。
「海の村?」
「……海の匂いがした。もらった粥を食べて、寝た。起きたらこの近くにいた」
自分でも何言ってるか分からない。
でも、ナユハは笑わなかった。
笑わないどころか、眉間にしわを寄せて、真面目に私を見ていた。
「……ふーん」
短い。
でも、否定じゃなかった。
ナユハは缶コーヒーを飲み干して、缶を置いた。
カン、と乾いた音。
「……変な客だな、お前」
「今さら」
「初手から変だったけど」
「知ってる」
ナユハが少しだけ口角を上げた。
「……まあ、いい。売り方は考える。必ず金になる。でも、いきなりデカくはやらねぇ」
「目立つから?」
「そう。目立つと死ぬ」
軽く言い切るあたりが逆に重い。
私はさっきまで死に場所を探していた自分を思い出して、少しだけ笑いそうになった。
死ぬのを探してたやつが、生きる方法を聞いてる。
人生ってほんと、嫌いだ。
ナユハが立ち上がった。
穴の開いたショートパンツが揺れて、私は反射で目を逸らした。
視線の動きが自分でも分かって、余計に死にたくなる。
「……お前、帰れる?」
ナユハが言った。
意外だった。
優しさじゃない。心配でもない。
たぶん、“事故防止”のための確認。
それでも、私は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……帰れる」
嘘ではない。でも、本当でもない。
ナユハは私をじっと見て、それから、肩をすくめた。
「ならいい。……明日、また来い」
「は?」
「話の続き。あと、売る段取り。……逃げたら追うからな」
脅しみたいな口調なのに、目は冗談っぽい。
私は最悪だと思った。
追われるのは嫌いだ。
誰かに追われるなんて、いつ以来だろう。
私は立ち上がって扉へ向かった。
扉を開ける手がさっきより少しだけ軽い。
外の冷気が頬を刺した。
私は振り返らずに言った。
「……明日、気が向いたら」
「向けよ」
ナユハの声が飛んできた。
私は思わず、小さく鼻で笑ってしまった。
そんな自分がいちばん気持ち悪い。
でも。
その気持ち悪さが、今夜の私にはちょっとだけ必要だった。




