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7 めが古物店

 気がついたら住宅街だった。


 さっきまでの潮の匂いはどこにもない。湿った冷気もない。代わりに、アスファルトの乾いた匂いと遠くで走る車の走行音がある。街灯の光が薄くて、さっきの村の焚き火より頼りない。


 ……は?


 息を吐くと白い。


 ちゃんと冬。ちゃんと日本。ちゃんと現実。


 夢じゃない。いや、夢のはずなのに手の中に感触が残っている。


 私は自分のコートのポケットを探って、指先でそれを掴んだ。


 麻袋。


 小さくて粗い布の袋。口は紐で縛られていて、持つと、じゃら、と音がした。


 心臓が一拍遅れて跳ねる。


 ――残ってる。


 指の腹に布のざらつきがある。重さがある。中身が転がる。


 私は袋の口をほどいて、中を覗いた。


 水色の石。


 あの村で受け取ったやつ。澄んだ色で、街灯の光を拾って淡く光る。言われてみれば子どものおもちゃみたいな、でも妙に目を離せない色。


 ……何これ。


 脳内が現実と異世界の境界で摩擦を起こして、まったく思考が追いつかない。


 いま私、何してる?


 公園で死に場所探して、知らないおじさんに声をかけられて……そのあと、青い光に吸い寄せられて、海の村で粥を食べて、石をもらって、眠って――気づいたらここ。


 いや、情報量が多い。


 処理が追いつかない。


 私はとりあえず歩いた。


 歩きながらポケットの中のスマホを触る。真っ暗。バッテリー切れ。今日もずっと死んでる。私みたい。


 寒い。腹は少しだけ落ち着いた。でも、まだ隙間がたくさん残っていて、時々そこがぐぅぐぅと音を立てる。


 住宅街の路地を曲がったとき、視界の端に違和感が光った。


 ピンク色。


 この町に似合わない、安っぽいネオン。


 私は反射で目を細めた。光が痛い。目の奥を刺してくる。あの海の村の火の色とは真逆だ。こっちは人を誘うための光。


 ネオンの文字は「WELCOME♡」。


 ……うわ。雑。


 路地裏に店があった。


 店、というより隙間に押し込んだ箱。古い建物の一階部分に分厚い木の扉。窓はカーテンで閉め切られていて、中が見えない。出窓に板が張られ、その板に彫られた文字が読める。


 『めが古物店』


 木彫り。しかも手彫りっぽい妙な味がある。かわいくないのに、目を引く。


 ……なんだこれ。


 私は別に古物店に用はない。骨董にも興味がない。そもそも今の私に欲しいものなんてない。欲しいのは終わりだけ。


 なのに足が止まった。


 袋の中の石がまた、じゃら、と鳴った気がした。


 気がしただけ。


 ――入るな。


 脳内のまともな部分が警告を出す。


 ――入れ。


 まともじゃない部分が言う。


 私はいつも、まともじゃない方に従って生きてきた。だからここにいる。きてしまった。


「……どうにでもなれ」


 声に出したら少しだけ楽になった。


 私は扉に手をかけて、引いた。


 重い。


 古い木が軋む音がして、扉が開いた瞬間、鈴が鳴った。


 カランカラン。


 ……うわ、ちゃんと店の音する。


 中は薄暗かった。


 埃の匂い。紙の匂い。古い布の匂い。それに混じって、濃いタバコの匂い。一瞬むせる。肺が「やめとこう」って言う。でも足は入ってしまった。


 棚がある。雑多な物が積まれている。何が何だか分からない。ガラスケースの中に指輪や銀の細工が並んでいて、壁には古いポスターみたいな紙が貼られている。床には段ボール。奥にはカウンター。


 そのカウンターの向こうに――人がいた。


 若い女性。


 カウンターに両足を投げ出して、だらしなく座っている。スマホを片手に指だけ器用に動かしてる。顔の半分が画面の光で青白い。表情は気だるげ。目つきは鋭いのに、焦点が合ってない。寝起きみたいな顔で、人を殺せそうな目。


 髪はショート。黒に近い濃い色だけど、インナーに青が入っている。耳にピアス。口元にも光る。服は黒いシャツ。意味不明な英語と記号がぐちゃぐちゃ。下はゆるいショートパンツ。穴が開いてる――というより、もうパンツが見えちゃってる。でも本人はまるで気にしてない。


 ……いや、気にしろよ。


 視線が勝手にそっちに行って、私は即座に自分の目を殴りたくなった。


 何見てんだ私。ここ店だぞ。他人の領域だぞ。


 女はスマホを見ながら、突然、低い声で叫んだ。


「……あ゛ー、終わった。はい、負け確」


 呪文みたいな言葉だった。


 次の瞬間、女の指が止まった。


 視線がゆっくり上がる。


 私を見た。


 目が合った。


 ……やばい。


 客を見る目じゃなかった。獲物を見る目でもない。もっと厄介な、“面倒なものを見つけた目”。


「……何」


 一言。低い。眠そう。なのに、圧がある。


 私は反射で笑顔を作りかけて、やめた。今の私に愛想は出せない。出したら負ける。いや、何に負けるのか知らないけど。


「……間違えました」


 間違えて入る店じゃないだろ、ここ。


 自分で自分にツッコミながら、私は踵を返した。


 ここにいると変なことが起きる。今はこれ以上変なことはいらない。腹は少し満たされた。石も残っている。もう十分おかしい。


 逃げる。


 そう決めて、私は扉へ向かった。


「おい」


 背後から声。


 短いのに呼び止める力があった。


 私は無視して扉を押した。


 重い。さっきより重い。最悪。


 外へ出て冷たい空気を吸った瞬間、私はようやく息ができた気がした。


 走る。


 意味もなく走る。逃げる。こういうとき、私の人生はいつも同じだ。関係を切る。痕跡を消す。連絡先を消す。ブロックする。引っ越す。転職する。全部、逃げ。


 でも、逃げるのは得意だ。


 私は角を曲がった。


 次の瞬間、足元が軽くなった気がした。


 ……あ。


 やらかした。


 ポケットが空っぽだ。


 私は立ち止まり、コートのポケットを何度も探った。ない。焦ってもう一度探る。ない。背中が冷える。


 麻袋。


 水色の石の入った麻袋。


 落とした。


 どこで? 店だ。店の中だ。あのカウンターのあたりだ。いや、外に出た時か? 分からない。とにかく、心臓だけがうるさい。


 何でこんなに焦ってるんだろう。


 ただの石だ。異世界の村でも「ただの綺麗な石」って言ってた。価値なんて――


 そこまで考えたところで、背後から足音がした。


 速い。


 そして、息を切らす音。


「……おい、待て!」


 女の声。


 さっきのだるい声じゃない。走ったあとの声。息が切れてる。面倒くさそうにしながら、本気で走ってきたのだろう。


 私は振り返った。


 路地の奥から、さっきの女が出てきた。


 運動が苦手そうな体の使い方。なのに、どこか必死。肩で息をしている。目が鋭い。片手には麻袋。


 ……それ。


 女は私の前まで来て、止まった。膝に手をつく。ぜぇぜぇ息を吐く。タバコの匂いがここまで来る。肺が嫌がる。


 なのに私はなぜか目が離せない。


「……これ。落とした」


 麻袋を突き出す。


 私はそれを受け取ろうとして、指が止まった。


 女の目が麻袋じゃなく、私の顔をじっと見ていた。


 いや、違う。


 麻袋と私を交互に見ている。


 計算してる目。


 値段を測る目。


 でも同時に――焦ってる目でもある。獲物を追うタイプの焦りじゃない。もっと個人的な焦り。自分の中の何かが引っかかったみたいな焦り方。


「……それ、どこで拾った」


 女の声が低くなる。


 私は麻袋を抱えたまま、口を開けた。


 どこで拾った? 拾ってない。もらった。海の村で。ウルカって子の母親に。粥を食って。寝て。気づいたらここで――


 説明したら終わる。絶対変人だと思われる。少なくとも、私の社会性が死ぬ。


「……知らない」


 嘘。


 嘘を吐くのは得意だ。社会で鍛えた。


 女は一瞬だけ目を細めた。


「嘘だ。目が泳いでる」


 即バレ。


 最悪。


 私は一歩下がった。逃げる準備。そうしたら、女が一歩詰めた。距離が近い。タバコの匂いが濃くなる。目が強い。やたら近い。


「……なあ。これ、なんだと思ってる?」


 女が言う。


 声の温度が変わった。さっきまで面倒くさそうだったのに、今は妙に鋭い。獲物を見る目じゃない。もっと――金を見る目。


 私は喉が鳴るのを感じた。


「……綺麗な石」


「うん。綺麗だな」


 女は麻袋の口を自分の指先で器用にほどいて、中を覗いた。手の動きが慣れてる。普段からこういうことをしてる手つき。


 女の指先が石を一つ摘まみ上げる。


 街灯の下で水色が淡く光った。


 女の目が、一瞬だけ、ひどく生々しく光った。


「……こりゃ、やばいな」


 小声。


 でも断定している。


 背中がぞわっとした。


「やばいって何」


「やばいもんは、やばい。金の匂いがする」


「金の匂いって何」


「……お前、これどこで手に入れた」


 女は言い切って、麻袋を私に返した。動きが妙に乱暴だった。手放したくない感じが滲んでる。


 私は袋を握った。


 じゃら、と音がした。


 女が私の顔を覗き込む。


 近い。


 表情は冷めてる。だけど目だけ熱い。温度差が気持ち悪い。でも、目が離せない。


「……店に戻れ」


「え」


「戻れって。ここ、寒いし。……それ、話、ちゃんと聞かないと損するよ」


 命令口調。


 でも、押しつけがましいというより、焦りが若干勝ってる。何故かその方が正直で、信用できる気がしてしまう。


 私は一瞬だけ迷った。


 迷ってしまったことが、もう悔しい。


 女が吐き捨てるように言った。


「私は妻賀(めが)ナユハ。……一応、めが古物店の店主」


 名乗った。――メガ? メガって名前か?


 ちょっと笑いそうになる。だから下の名前で女を見ることにした。


 ここで向こうが名乗るってことは、もう逃げられないってことだ。


 最悪。


 なのに私は、なぜか胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じてしまった。


 ――ああ、やっぱり。


 夜はまだ終わらない。


 私は息を吐いて、麻袋を抱え直した。


「……損するのは嫌い」


「だろ。じゃ、戻るぞ」


 ナユハが先に歩き出す。


 その背中は、さっきより少しだけ生きていた。


 私はその背中を見ながら、心の中で小さく毒づいた。


 ――最悪。


 最高に、最悪だ。


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