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6 海の村と粥の温度

 気がつくと空気が違った。


 さっき見た光景は、やっぱり夢じゃなかった。


 寒いのは寒い。でも、さっきまでの冬の街の冷たさじゃない。肺の奥に刺さる金属みたいな冷え方じゃなくて、湿った布を顔に押し当てられてるみたいな冷え方。


 潮の匂いがする。


 土と草と、濡れた木の匂いに混じって、海の匂いだけがやけに主張していた。


 ……え、なにここ。


 立っているのは、道とも呼べない獣道みたいなところだった。踏み固められた泥の上に、枯れ草が押し潰されて、ところどころに小石が転がっている。空は暗い。雲が低い。いや、雲というより天井だ。世界に蓋をされてる。


 手袋をしていない指先がじんじん冷える。


 コートのポケットに手を突っ込むと、そこに布の感触があった。


 白いマフラー。


 あの夜、渡されたやつだ。


 ……巻いてない。巻けなかった。というか、巻く気にならなかった。優しさって、あったかいくせに重い。首に巻くにはちょっと重すぎた。


 私はそれを握ったまま、ぼんやりと前を見た。


 木々の向こうが少しだけ明るい。いや、明るいというより――抜けている。空間が開けている。


 歩く。


 目的があるわけじゃない。けど、止まっていたら、何かに飲まれそうだった。ここがどこか分からないのに、なぜか「ここで座り込んだら終わる」っていう直感だけがある。根拠のない直感はだいたい当たる。


 しばらく歩くと、音が聞こえた。


 波の音。


 それから、木が軋む音。人の声。笑い声。金属が当たる音。


 そして――煙の匂い。


 焚き火だ。


 木々が途切れた先に、村があった。


 海際の貧しい村。


 海が近い。潮風が冷たくて、髪がべたつく感じがする。家は木と土で作られた簡素なものばかりで、屋根は草か薄い板。隙間風が平気で入りそうなのに、みんな普通の顔をしている。寒いのが当たり前の顔。ああ。こういうの、見てるだけで心が乾く。


 村の真ん中あたりで、獣みたいな……いや、”獣人”が荷車を引いていた。耳がある。尻尾もある。顔つきは人間に近いのに、目が妙に澄んでる。視線が合って、一瞬だけ動きが止まった。


 その獣人が私から目を逸らした。


 見なかったことにする、見慣れてないものを見たときの、あの困り方。


 私は一瞬、笑いそうになった。


 私のほうが困ってる。


 完全に場違い。服装。髪。顔色。全部。


 そのとき、背後から小さな足音がした。


 軽い。土を蹴る音がやけに元気。


「――あっ」


 声が聞こえた。子どもの声だ。高くて、明るい。


 振り向くと、そこに女の子が立っていた。


 さっき見た”妄想”にそっくりの子どもだ。


 十歳くらい。肌は白い。頬だけ赤い。寒さではなく、たぶん走ってきたせいで。


 髪は淡い色。月明かりみたいな――いや、もっと薄い。霜が降りた草みたいな色。


 目は妙にまっすぐだった。


 そして、その子が私を見上げて、迷いなく言った。


「……だいじょうぶ?」


 だいじょうぶに見えるか?


 私は口を開けたけど、言葉が出なかった。


 だいじょうぶって何。ここどこ。私は誰。あなた誰。いや私は私だけど、たぶん今の私は“私”として扱われると困る。


 子どもは一瞬だけ眉をひそめて、それから、ぱっと笑った。


「おなか、すいてる?」


 なんで分かるんだろう。


 腹の音が聞こえたから?


 それとも、私の顔が貧相だったから?


 私は、情けなく小さく頷いてしまった。


 子どもは勝手に嬉しそうな顔をして、私の袖を掴んだ。


 掴む力は弱い。強引じゃない。でも、逃げる隙を与えない種類の優しさだった。


「こっち。おうち、ちかいよ」


 命令じゃない。押しつけじゃない。


 ただ、“こっち”と言って歩き出す。


 ……ずるい。


 私はその背中に引っ張られるように歩き始めた。


 村の道は泥だらけだった。靴が沈む。冷たい水が染みる。なのに、子どもは気にしない。そういうふりでもなく、ただまったく気にしていない。


 途中、何人かの大人がこちらを見た。


 獣耳のある人、小さい角がある人、普通の人。


 視線は刺さる。けど、どれも敵意はない。警戒と困惑。つまり、“村”の視線。


 子どもが笑って手を振ると、大人たちはそれ以上何も言わなかった。


 この子、村での信用があるんだな。


 それが逆に怖い。


 “信用”は、いつだって人を縛る。


 辿り着いた家は小さかった。外から見た通り、中も狭い。土に木を敷いただけの床に机。隅に藁の寝床。壁には干した魚が吊るされている。魚の匂いと、煙の匂いが混ざっている。生活の匂い。嫌いじゃない。


「ただいまー」


 子どもが言った。


 家の奥から大人が出てきた。


 母親らしい女性。疲れた顔をしている。目の下に影。でも、目が優しい。今にも泣きそうな目。ああ、貧しさってこういう顔を作るんだ。


「……どうしたの、その子」


 女性の声は低くて、静かだった。


 子どもは胸を張った。


「おねえちゃん、たすけてくれたの。おなかすいてるって」


 勝手に決めるな。


 でも否定できない。今にも腹が鳴りそうだったから。


 母親は私を見て、それから深く頭を下げた。


「本当にありがとう。……こんなところだけど、あがって。寒いでしょう」


 寒い。


 その一言がなんだかやけに現実的で、胸の奥がじわっとした。


 私は靴を脱いで、家に上がった。床が冷たい。足の裏が痛い。でも、今はそのほうがいい。痛みは現実に繋がっている気がする。


 母親が鍋を火にかけた。


 鍋の中身は白い。薄い。水に米粒が浮かんでるだけみたいな粥。


 私はそれを見ただけで喉が鳴った。


 情けない。


 子どもが私の隣に座って、にこにこしている。


「……わたし、ウルカ」


 妄想で見た女の子と同じ名前。


 私は小さく息を吐いた。


「……カヨ」


 それだけ言った。


 ウルカは私の名前を口の中で転がして、嬉しそうに笑った。


「カヨ。へんな音。かわいいね」


 うるさい。かわいいとか言うな。私の名前に価値をつけるな。価値がつくと、捨てられなくなるだろ。


 母親が器を並べた。


 木の器。欠けている。けど丁寧に洗われている。生活って、こういう小さな努力で保ってるんだと思う。私はそれができない。だから、いつも崩れる。


「ごめんね。本当に……何もできなくて」


 母親はそう言って、粥をよそった。


 器から湯気が上がる。薄いのに、ちゃんと湯気が上がる。


 私は両手で器を持った。


 指先がじわっと温かくなる。


 その温度が妙に怖い。


 温かいってこういうことだ。優しさって、こういうことだ。


 こういうものに触れると、心のどこかが壊れる。いや、壊れているところにふと気づいてしまう。


 私はそれを口に入れた。


 熱い。


 でも、熱すぎない。


 舌を焼かない温度。


 喉を通ると、身体の奥が少しだけ緩んだ。


 ……やばい。


 私は無言で食べ続けた。薄い。でも胃が「これだ」と言っている。胃は単純で羨ましい。


 ウルカが私を見て、満足そうに頷いた。


「よかった」


 よかったって何。私が食ってるのがよかったの? あなたの飯が減るのに?


 母親が少しだけ笑った。


「……この子ね、最近変なの。急に“何か知ってる”みたいなことを言い出すの」


 ウルカは首を傾げた。


「だって、しってるんだもん」


 意味が分からない。


 けど、嫌な感じはしなかった。


 食べ終えると、眠気が来た。


 意識が沈む。身体が勝手に“安全”を判断したみたいに、力が抜けていく。


 母親が申し訳なさそうに小さな麻袋を差し出した。


「……これ、ね。お礼になるか分からないけど……」


 ウルカが私に目で合図をした。


 見ろ、と。


 私は袋の口を開けた。


 中に入っていたのは、澄んだ水色の石ころだった。小さいのがたくさん。


 水底の光みたいな色。


 綺麗だ。


 思わず見惚れるくらい、綺麗だ。


 母親が慌てて言った。


「ただの石なの。ここらへんで、よく落ちてる……子どもが喜ぶだけの」


 自虐みたいな口調だった。


 ウルカがむっとした顔をした。


「ただじゃないよ」


 母親が困ったように笑う。


「旅の人がね、たまに買ってくれるの。形のいいのを……安いけど……」


 安い。


 その言葉が村の現実を全部言っている気がした。


 私は袋を握った。石がじゃらじゃら鳴った。


 軽い。


 でも綺麗だ。


「……いただきます」


 私は言った。言ってしまった。


 母親が深く頭を下げた。


 ウルカが満足そうに頷いた。


 意識がさらに沈む。


 瞼が重い。器の底に残った粥の温もりが、まだ指に残っている。


 ウルカが私の耳元に顔を寄せて、小さく囁いた。


「また、いつでもおいで」


 その声がやけに近かった。


 近いのに、遠い。


 私は返事をしようとしたけど、声が出なかった。


 世界がゆっくり暗くなっていく。


 最後に見えたのは、ウルカの目だった。


 まっすぐで、怖いくらい優しい目。


 ――優しさって、ほんと、たちが悪い。


 そう思ったところで、私の意識はぷつんと切れた。

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