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5 青い光

 公園を出て住宅街を歩いた。


 昼のはずなのに世界は薄いままだった。影が薄い。音が軽い。人の声が遠い。車の走行音も、犬の鳴き声も、全部が「音っぽいもの」に変換されて耳に届く。


 私だけ少し浮いている。


 こういう感じ嫌いだ。


 でもどこかで安心している。浮いていると縛られない気がするから。縛られないのは楽だ。だけど、楽が続くと今度は落ちる場所がなくなる。


 スマホはポケットの中で死んでいる。黒い画面。指で撫でても反応しない。馬鹿みたい。


 でも、反応しないほうがいい日もある。


 今日はたぶんその日だ。


 駅のほうへ向かっているはずだった。


 駅っぽい方角。


 今の私はだいたい「っぽい」で動く。目的も理由もぼやけたまま、身体だけが習慣で歩く。なのに今日はそれがうまく働かない。


 曲がるつもりのない角で曲がってしまう。


 信号を渡るつもりがないのに渡ってしまう。


 気づくと、見覚えのない路地に入っていた。


 住宅街の裏側。細い路地。古いブロック塀。洗濯物の匂い。昼の生活の匂いがするのに、妙に人の気配がない。カーテンが閉まっている家が多い。窓がこちらを見ているみたいで落ち着かない。


 私は足を止めた。


 止めたつもりだった。


 でも、目だけが先へ行く。


 路地の奥がぼんやり青い。


 青い……?


 街灯? いや、まだ昼だ。ネオン? 住宅街の路地裏に? あり得ない。車のライトの反射? そういう感じでもない。青がそこに“浮いている”。


 最初は目の錯覚だと思った。貧血のせいだ。寝不足のせいだ。食べてないせいだ。つまり全部私のせい。世界のせいじゃない。


 そう思いたかったのに。


 青は消えなかった。


 私は一歩進んだ。


 冷たい風が顔を撫でた。冬の風。だけど、さっきまでの乾いた冷たさと少し違う。湿り気が混じっている。皮膚の表面じゃなく、鼻の奥に向けて先に触れてくる冷たさ。


 私は鼻で息を吸った。


 潮の匂いがした。


 ……は?


 ここ、海なんてない。少なくとも私は海のそばに住んでない。なのに、潮の匂いがする。しかもはっきりと。


 胸の奥が嫌な感じでざわついた。


 怖くはない。気持ち悪い、に近い。


 現実の皮が少しずつ剥がれていく感じ。いつもの世界が、いつもの形で保てなくなる感じ。


 私は鞄を握り直した。


 中に白いマフラーが入っている。首には巻いてない。巻く気もない。でも、入っている。


 軽いけど、重い。


 何が言いたいのか分からない。分からないけど、そういう矛盾が今の私にはちょうど合っている。私は矛盾でできている。


 青い光へさらに近づく。


 路地の奥は行き止まりのはずだった。ブロック塀。裏口。自転車。ゴミ箱。そういう生活の物で詰まっているはず。


 なのに、青がある。


 ただ光っているだけじゃなかった。


 穴みたいなのが開いていた。


 空間がほんの少しだけ“へこんでいる”。奥行きは見えない。でも奥から潮の匂いがする。風が吹き出している。こちらへ流れ込んでくる。


 私は喉が鳴るのを感じた。


 唾がうまく出ない。口の中が乾く。心臓が勝手に早くなる。


 嫌だ。


 目を逸らせない。


 人間って嫌なものほど見てしまう。見てしまって嫌になる。そして、また見る。


 世界がそういう作りなら、私がこうなるのも仕方ない。


 私は青を見たまま呟いた。


「……まあ、どうにでもなれ」


 言い捨てるみたいに言った。


 投げやり。逃げ。開き直り。


 でも、今の私に残っているのはそれだけだ。


 足が一歩、勝手に前へ出た。


 青い光の縁に触れた瞬間、空気の温度が変わった。


 冷たい。


 冬の冷たさじゃない。肺がきしむような冷たさ。喉が痛くなる。空気が刃みたいに鋭い。


 耳の奥で小さく音がした。


 布が擦れる音。


 鞄の中で白い毛糸が動いた気がした。


 私は反射で鞄を押さえた。


 押さえたところでどうにもならない。分かってる。でも、押さえずにはいられない。


 青の向こう側に影が見えた。


 木々の影。枝。葉。風に揺れる暗い輪郭。


 路地裏のはずなのに、森。


 あり得ない。


 でも、そこにある。


 笑いそうになった。


 こんなときだけファンタジー、やめてくれない?


 喉の奥がひくついた。泣くでもなく笑うでもなく、ただ、変な感情が出ようとしている。


 私は一歩、踏み出した。


 足の裏が地面の感触を失う。


 次の瞬間、風が身体を押し包んだ。


 潮の匂いが濃くなる。湿った土の匂いも混じる。遠くで波の音がする。耳の奥に低い響きが残る。ずっと、ずっと遠くで鳴っている音。


 視界がふっと暗くなって、すぐに開けた。


 空が違う。


 色が違う。光の質が違う。太陽の位置も、角度も、全部が微妙にズレている。現実っぽいのに現実じゃない。


 寒い。


 空気が痛い。


 吐く息が白い。今度のは、昼の住宅街の白じゃない。


 私は自分の腕を見た。


 袖。指先。震え。ちゃんと私の身体だ。夢じゃない。夢みたいな場所に立っている。


「……は?」


 声が出た。


 間の抜けた声が森に吸い込まれていく。返事はない。鳥の声もない。虫の音も薄い。風だけが枝を鳴らす。


 私はゆっくり周囲を見回した。


 木々。見たことのない木。葉の形が微妙に変だ。幹の肌が少し滑らかで、ところどころ淡い色の苔が光っている。地面は湿っていて、枯れ葉が厚く積もっている。踏むとしっとり沈む。


 遠くに何かの匂いがする。


 煙。焚き火の匂い。生き物の匂い。人がいる。


 人、いるの?


 私はその匂いに引かれるように歩き出した。


 歩くたびに、靴の裏が湿った地面を踏む音がする。しゃり、という音。アスファルトの音じゃない。柔らかい音。世界の耳当たりが違う。


 少し進むと、木の間から海が見えた。


 海。


 本物の海。黒い波。冬の波。遠くで白い泡。潮の匂いの正体がそこにある。海の向こうは霞んでいて、水平線がぼやけている。空も低い。


 私は立ち止まった。


 海を見て、急にお腹が鳴った。


 馬鹿みたいなタイミング。現実に引き戻す力が胃にあるなんて知らなかった。


 膝が少し震える。空腹と寒さ。貧血のふわふわが戻ってくる。さっきの薄い世界とは別の、身体の限界を告げる気配。


 そのとき。


「……だいじょうぶ?」


 小さな声がした。


 振り向くと、子どもがいた。


 十歳くらい。小柄。頬が赤い。髪は風で乱れている。寒そうな服なのに、目だけはやけに明るい。明るすぎて逆に眩しい。


 子どもは私を見上げて、少しだけ首を傾げた。


「旅のひと……だよね?」


 嘘の匂いがした。


 でも悪い嘘じゃない。守るための嘘。そういう嘘は分かる。私もよく使う。


 子どもはにっと笑った。


「ウルカ! こっち、おうちあるよ。……あったかいお粥もある」


 断るべきだった。


 知らない世界。知らない村。知らない子ども。


 普通なら断る。


 でも私は普通じゃない。だからここまで来た。


 それに粥。


 その言葉だけで喉が勝手に鳴った。最悪。身体はいつも正直すぎる。意志より先に生きようとする。


 ウルカは私の袖のあたりをちらりと見た。


 見て、何も言わなかった。


 私は鞄の紐を握った。


 白いマフラーはまだ鞄の中だ。


 首には巻かない。


 でも、ここまで一緒に来てしまった。


「……行く」


 私は小さく言った。


 ウルカは嬉しそうに頷いた。


「うん。ゆっくりでいいよ」


 その「いいよ」が妙に柔らかくて、私は少しだけ息を吐けた。


 森の冷たい空気の中で吐いた息が白くなる。


 その白が、今度は少しだけマシに思えた。

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