4 もういない人
その夜、私は家に戻った。
戻ったというより、戻らされただけだ。世界に。
足が勝手に動いて、ドアの前まで連れていって、鍵を回して、部屋に体を押し込んだ。私はその間ずっと、ただ荷物みたいに運ばれていた。
コートを脱いで、ベッドに座って、鞄を床に置く。
白いマフラーは鞄の中に入ったままだ。取り出す気にはならない。首に巻くとか、絶対に嫌だ。巻いたら何かが始まってしまう。何かって何。分からないけど、なんか怖い。
スマホは相変わらず死んでいた。
充電すればいい。目の前にある。指を伸ばせば終わる。
終わらせたくないんじゃない。終わらせる気力がない。こういうとき、私は人間じゃなくて、ただの“重し”になる。
それでも喉は渇く。水を飲む。水道水。冷たい。胃に落ちていく感覚だけがリアルで、腹が立つ。
ベッドで横になる。眠れる気はしない。でも目を閉じる。閉じると、さっきの風圧が戻ってくる。電車の轟音が耳の奥で鳴り続ける。フェンスに引っかかった白い毛糸の感触が指先に残っている。
……切れなかった。
ぎりぎりで、切れずに残った。
どうして。
答えは出ないまま、いつの間にか眠っていた。
意識が落ちただけだ。
朝。
目が覚めた瞬間、いちばん最初に思ったのは「最悪」だった。
生きてる。息をしてる。心臓が勝手に動いてる。体温がある。昨日、あんなに近づいたのに、何も終わっていない。
でも、身体は動く。
トイレに行って、顔を洗って、鏡を見る。目の下の影を確認する。肌が乾いている。唇が荒れている。人間って、ちょっとメンテを怠ると簡単にみすぼらしくなる。でも死ねない。
どんな罰だよこれ。
そして、私はまた外に出た。
理由は分からない。
昨日の線路に行くのかと思った。でも足はそっちに向かわなかった。勝手に別の方向へ曲がっていく。住宅街の中の、あの公園へ。
……公園?
私は歩きながら自分に突っ込んだ。
なんで行くの。会う気? あのおじさんに? 酒臭いだけの酔っ払いに?
昨日もらったマフラーのせい?
いや、もらってない。押し込まれただけ。勝手に私の鞄に入っただけ。私は何も受け取ってない。関係ない。そのはず。
だけど足がそこへ向かう。
公園は昼でも薄暗かった。冬の太陽は弱くて、街灯の光が消えたぶんだけ夜の影が残っている感じがする。ブランコは止まっていた。砂場にも誰もいない。子どもの声がない公園はただの空き地だ。
ブルーシートの場所へ近づく。
昨日と同じ場所。昨日と同じ空気。昨日と同じ匂い。……いや、違う。
花丸さんがいない。
そこにあるのはブルーシートと、段ボールと、生活の痕跡だけ。誰かが寝ていた跡。缶の山。コンビニの袋。
でも、肝心の“人”がいない。
私はそこで初めて、自分が少しだけ焦っていることに気づいた。
焦る意味が分からない。会いたいわけじゃない。会ったら面倒が増える。でも、いないと落ち着かない。私の感情はいつも私の理屈と噛み合わない。
「……花丸さん?」
口から名前が出た。
名前って出すだけで重くなる。しかもその名前は昨日会っただけの人の仮名だ。仮名のくせに、妙に本名みたいに舌に馴染んでしまっている。
そのとき。
「何してんの」
背後から声がした。
振り向くと、男が立っていた。花丸さんより少し若い。四十代くらい。髭は薄い。目元に疲れが溜まっている。作業着の上着。手にはレジ袋。中身はパンと缶コーヒー。
私を見て、男の眉がわずかに寄る。警戒。そりゃそうだ。昼間の公園で、ブルーシートを覗き込んでいる女。どう見ても不審者だ。
「……昨日、ここに花丸さんって人がいて」
私は言い方を選んだつもりだった。でも声が少しだけ震えた。自分でも分かる程度に。最悪。
男の顔が固まった。
それが嫌な予感そのものだった。
次の瞬間、男の目から涙が落ちた。
は?
泣く理由が分からない。私は急に「やっちゃいけないことを言った」気分になる。何も言ってないのに。何もしてないのに。こういう“他人の涙”は、いつも私の足元を崩す。
男は鼻をすすって、笑いそうな顔で、でも笑えないまま言った。
「……あの人らしいな」
あの人らしい。
何が。
私は言葉が追いつかないまま、男を見た。男は目をこすって、深く息を吐いた。
「花丸さんは、去年の冬に死んだよ」
言葉が脳に入ってこない。
「……は?」
私は間の抜けた声を出した。
男は頷いた。頷きって言葉より残酷だ。否定の余地を消す動作だから。
「市に引き取られた。俺らで見送った。……だからさ、昨日あんたが会ったのが誰かって言われたら、俺にも分からん」
言い方が妙に優しかった。そういう言葉ほど私には痛い。優しいと「泣け」って言われてるみたいだから。私は泣くのが下手だ。泣きは敗北になる。何に負けるのか知らないけど、とにかく負ける。
「でも、あの人なら……やりそうなんだよな」
男はそう言って、ブルーシートを見た。
その視線につられて同じ場所を見た。昨日そこにいた花丸さんの姿が鮮明に浮かぶ。酒の缶。明るい目。へらっとした笑い方。白いマフラー。
私は自分の鞄を思い出した。中に白い毛糸が入っている。
急に喉が渇いた。
「……あなた、誰ですか」
やっとそれだけ言えた。
男は少しだけ迷ってから、言った。
「友達。……って言うと変だけどさ。ここで一緒にいたんだよ。あの人は、自分のこと話したがらなかったけど」
男はレジ袋を持ち替えて、笑った。
目はまだ濡れている。
「でもさ。あの人、たまに言ってたんだよ。『本当に困ってる人が来たら、渡すんだ』って。何を、とは言わなかったけど」
本当に困ってる人。
それって私?
思った瞬間、気持ち悪くなった。違う。違うって言いたい。私は困ってなんかない。そんなこと他人に言われたくない。そんな人間にされたくない。助けられる側に置かれたくない。私は誰の物語の主人公にもなりたくない。
男は私の顔を見て言った。
「……あんた、寒そうな顔してたろ」
言い方が花丸さんに似ていて、胸の奥が変に熱くなった。
勝手に反応するな。私は今、冷たくなりたいんだよ。
私は息を吐いた。でも息は白くなかった。昼だから。寒いのに白くない。現実ってそういうところが意地悪だ。
男はブルーシートの端に視線を落として、小さく言った。
「……あんたに会えたなら、あの人、ちょっと喜ぶだろうな」
言われた瞬間、私は一歩引いた。
喜ぶ?
勝手に喜ばないでほしい。勝手に私を“いい出来事”にしないでほしい。
でも。
鞄の中の白い毛糸が急に重く感じた。
私は何も言えなかった。
言葉にすると崩れるものがある。また昨日みたいに線路へ行ってしまう気がした。自分の扱い方が、いまだに分からない。
「……帰ります」
やっとそれだけ言った。
男は頷いた。追いかけてこない。引き止めもしない。ただ、少しだけ悲しそうに笑った。
「うん。気をつけてな」
私は公園を出た。
住宅街の道を歩く。足元がふわふわする。地面が薄い。世界が薄い。昨日までの世界と、今の世界が重ならない。
花丸さんはもういない。
なのに、私は昨日会った。
会ったはずだ。
鞄の中には白いマフラーがある。
冷たい毛糸。
触れれば少しずつ私の温度が移っていく毛糸。
私はその重さが怖くて、鞄の中を覗けなかった。
駅っぽい方角へ向かって歩きながら、私は思った。
——昨夜助かったのは、偶然じゃないのかもしれない。
そう思った瞬間、気持ち悪くなった。
偶然であってくれ。
誰かの優しさで助かったなんて、耐えられない。
私はポケットの中の死んだスマホを握りしめた。
画面は黒いまま。
私も、このまま黒くなれたらいいのに。




