3 フェンスと電車
公園を出て、私はそのまま歩いた。
駅のほうじゃない。家のほうでもない。
線路。
理由は分かってるけど、あえて言わない。自分の中で言葉にした瞬間、私は自分のことを止めなきゃいけなくなる。止める体力はもうないけど。
冬の夜は静かだ。音が遠い。車の走る音も、人の笑い声も、全部一枚薄い膜の向こう側にあるみたいに聞こえる。私だけがここじゃない場所を歩いてる。
吐く息が白い。
その色だけが妙に正直で腹が立つ。私はもっと嘘っぽくなりたい。誰にも見つからずに消えたい。白い息は「ここにいる」って言ってくる。
足元がふらつく。今日はろくに食べてない。腹が鳴る余裕すらない。空っぽの胃がずっと痛い。
……それでも足は勝手に動く。
勝手に、線路へ。
線路沿いに出ると、風が変わった。鉄の匂いが混じる。湿った土と、油と、冷えた金属。目の前の世界が急に“現実”になる。さっきまでの住宅街の柔らかさが嘘みたいに、輪郭が硬い。
フェンスがある。大人の胸くらいの高さ。上の部分は指が引っかかるように折り返してあって、ところどころ錆びている。誰かが無理やり曲げた跡がある。そこだけ鋭く、ギザギザしていた。
私はフェンスに近づいた。
手をかける。金属が冷たい。指先が痛い。なのに、離したくない。痛みは分かりやすいから。その感覚は今の私でも理解できる。
フェンス越しに線路が見える。暗い。遠くに信号の赤い点。たまに、ガタン、と小さく響く音。鉄が伸び縮みしている音なのか、どこかで何かが落ちた音なのか分からない。でも、全部がここへ繋がっている気がする。
……よし。
足をかける。膝がフェンスの上に乗る。コートが擦れる。手袋はしてない。素手でやるほうが、現実味がある気がした。変なこだわり。こういうこだわりだけは残ってる。人間の最後のプライドって、だいたい意味がない気がする。
その瞬間。
鞄の端が何かに引っ張られた。
「……っ」
肩が持っていかれる。重いわけじゃない。引っかかった、という感触。薄い布がぎゅっと引き止められる。
鞄の口がわずかに開いて、白い毛糸が覗いた。
マフラー。
白い毛糸がフェンスのギザギザに噛みついていた。毛糸が伸びて、引き裂けそうになっている。
一瞬だけ思考が止まった。
馬鹿みたいに。
「……なに、してんの」
誰に言ったのか分からない。マフラーに言ったのか、自分に言ったのか。
私は反射で戻ろうとした。戻って、フェンスから外して、それから——
その「それから」を考える前に、世界が吠えた。
ゴォォォォッ——
目の前を電車が通り過ぎた。
光。風。音。鉄の塊が夜の空気を裂いていく。身体の内側まで震えるような轟音。顔に突き刺さるような風圧。目が勝手に潤んで、呼吸が持っていかれる。
腰が抜けた。
身体が勝手に座り込んだ。膝が笑うとかじゃない。膝が立つことを拒否した。これ以上は無理だと、私の身体が言った。
座り込んだまま、息ができない。
心臓だけが妙に働いている。仕事熱心。こういうときまで頑張らなくていいのに。
電車の窓が一瞬だけ見えた。中の光。座っている人の影。スマホの画面。広告の色。普通の夜。普通の帰宅。普通の生活。
その普通があまりにも遠い。
私は笑いそうになった。
笑えないのに、喉の奥がひくつく。泣くでもなく笑うでもなく、ただ変な音が出そうになる。
……助かった。
そんな言葉が脳の奥から浮いてきた。
助かったって、何?
私は別に助けてくれなんて頼んでない。なのに、そう思ってしまうのが一番の屈辱だ。
安堵が混じる。それがさらに屈辱だ。
電車が去って、急に世界が静かになった。
音が戻ってくる。遠くの車の音。風が枝を揺らす音。どこかの家の換気扇の低い唸り。私の荒い呼吸。心臓の鼓動。
全部、うるさい。
私はフェンスを見上げた。
白い毛糸がギザギザに引っかかったまま揺れていた。
マフラーは首に巻かれないまま夜風に晒されて、白だけが闇に浮いている。
毛糸の一本が少しほつれている。そこから、細い繊維がふわふわと風に飛びそうになっている。
私は手を伸ばした。
伸ばして、触れた。
毛糸は冷たかった。
でも、触っているうちに少しずつ温度が移る。指の温度が毛糸に移っていく。でも、毛糸は何も言わない。ただ、そこにある。
私はそのまま外した。
フェンスのギザギザが毛糸を擦って、小さな音がした。ギシッ、と切れそうな音。
切れなかった。
ぎりぎりで切れずに残った。
……なんで。
どうして、こんなところで、こんなものに引き止められてるんだろう。
私はマフラーを鞄に押し込んだ。鞄の口を閉めた。白い毛糸の感触が指に残る。
立ち上がろうとして、また座り込んだ。
脚に力が入らない。腰が抜けたまま。情けない。
どこかで「よかった」と思っている自分がいる。
最悪。
私は線路の向こう側を見た。
さっき電車が走り抜けた場所。そこはもう暗くて、何もない。そこに“可能性”だけが残っているみたいで余計に気持ち悪い。
私はしばらく動けなかった。
寒さがじわじわ戻ってくる。コートの隙間から風が入って、背中が冷える。手がかじかむ。指先が痛い。
痛い。
痛みは分かりやすい。そういうものだけが、今の私をつなぎとめる。
私はようやく立ち上がった。
ふらつきながら、フェンスから離れる。
どこへ行くのかは決めてない。
でも一つだけ分かったことがある。
今日はもう無理だ。
終わりたくないわけじゃない。でも、終わり方を選べるほどの力が残ってない。勝手に足が動くみたいに、勝手に心臓が動くみたいに、勝手に今を続けてしまう。
私は鞄を握り直した。
中に白い毛糸がある。首には巻いてない。巻く気もない。でも、そこにある。
それがやけに重い。
私は駅とは逆の方向へふらふらと歩き出した。
夜の冷たい空気の中で、吐く息だけが白くて、やっぱり腹が立った。




