2 花丸さん
「寒そうな顔だなあ」
……なにそれ。
私は足を止めてしまった。理由は分からない。
でも分かることが一つだけある。
こういうの、嫌いだ。
勝手に人を評価して、勝手に距離を詰めてくるタイプ。職場で散々見た。見飽きた。人の気なんて知らずに目の前に出てくる。
そんなに暇なの?
「……そういう顔です」
言うと、おじさんはへらっと笑った。酔っ払いの笑い方。歯が欠けてる。口角がやけに上がる。目だけが妙に澄んでる。
「いいねえ。嘘が少ない」
うるさい。
嘘が少ない? 私は嘘だらけだよ。笑ってるときの私なんて、八割が嘘だ。
「……何の用ですか」
冷たく言ったつもりだったのに、声は意外と普通だった。
おじさんは酒の缶を軽く振って見せた。
「用ってほどじゃないけどさ。寒いからさ。人間、寒いと話したくなるんだよ」
知らねーよ。それはおじさんの仕様でしょ。
私は公園の入口に視線を向けた。帰ろうと思えば帰れる。帰りたい。なのに、足が動かない。
最悪だ。自分の足のくせに言うことを聞かない。
「俺は花丸。花丸さんでいいよ」
勝手に名乗るな。
でも返さないと感じが悪い。人のウケばかり気にする私は、こういうときだけ気遣いを発動する。いらない機能。
「……佐雨。カヨ」
言ってしまった。
言った瞬間、胃の奥がきゅっと縮む。名前って極力渡したくないんだよ。渡すと、相手が私の人生に踏み込んでくる気がするから。
花丸さんは缶を口に運んで一口飲んだ。喉が鳴る音がやけに大きい。
「佐雨って、いいねえ。なんか、しっとりしてる」
適当。
なのに、変に的を射てる感じがして、ムカつく。
「……花丸って本名ですか?」
私が言うと、花丸さんは目を細めた。
「昔さ、塾で花丸もらうのがたまらなく嬉しくてさ。だから花丸って名乗ってる」
子どもか。
いや、子どもだな。こういう“変な自分ルール”を持ってる人はだいたい面倒くさい。しかもこういう人って、案外しぶとい。
「でも今は赤点もいいとこだけどね!」
自分で言って自分で笑う。私は笑わない。笑う気力がない。でも、口の端が少しだけ動きそうになる。
危ない。笑ったら負けだ。何に負けるのか分からないけど、負けだ。
花丸さんは私の手元を見た。
手元というか、正確には、私の袖のあたり。視線が一瞬だけ止まる。
ああ。見たな。
私は反射で袖を引っ張り、腕を隠した。隠したところで意味はないのに。
花丸さんは何も言わなかった。
言及しない。
それが逆に刺さる。
私は一瞬だけ息が詰まった。言葉で刺す人より、黙ってる人のほうが厄介だ。
「寒いときはな」
花丸さんが空を見上げて言った。
「首をあっためるんだよ。首と腹。あと……心だなあ」
心。
心ね。
はいはい。
私は鼻で笑いそうになった。でも、うまく笑えない。
「……そういうの、宗教みたいで嫌いです」
言ってしまった。
花丸さんは怒らなかった。むしろ、面白そうに頷いた。
「いいねえ。嫌いって言えるのは元気な証拠だ」
元気?
どこが?
私は今、死に場所を探してたんだけど。普通の人間は死に場所なんて探さないんだよ。
花丸さんは急に足元に置いていた鞄を開けた。古い鞄。汚れてるのに、雑には扱われてない感じ。扱い方が妙に丁寧だ。
中から白い毛糸の塊が出てきた。
白いマフラー。
ふわっとした毛糸の白。冬の白。夜の街灯に照らされて、やけに浮いている。
「これさ。家内が編んでくれたんだ」
家内。
その言い方がなんか生々しい。そして、どこか遠い。
花丸さんはマフラーを両手で持って、私に差し出した。
「ほら。お嬢ちゃん、首あっためな」
は?
「……いらないです」
反射で断った。いらない。もらう理由がない。もらったら、返す理由ができる。また会う理由ができてしまう。
そんなもの、いらない。
私は誰とも繋がりたくない。繋がったら期待される。期待されても応えられない。応えられない自分が嫌いになる。それが嫌で最初から繋がらないようにしてきた。
それでも花丸さんは引っ込めなかった。
「いいんだよ。俺はもう、首はいいんだ」
意味が分からない。
「お嬢ちゃんのほうが必要そうだ」
勝手に決めるな。
必要とか言うな。
必要って言葉はたまに人を殺す。優しさの形をしてるから、余計に。
私はマフラーを受け取らなかった。
でも、花丸さんはマフラーを私の鞄の口にぎゅっと押し込んできた。
「巻かなくていい。しまっといて」
妙に軽い言い方で、無理やりねじ込まれた。
「いつか使いたくなったら、使えばいい」
いつか。
来ないかもしれない“いつか”。
でも、だからこそ、今の私にはちょうどいい重さだった。
私は鞄の口を閉めた。マフラーが中でふわりと動いた気がした。
「……重い」
私が言うと、花丸さんは笑った。
「そのほうがいい。軽いと風で飛んじゃうからね」
うわ。
なんだそれ。
詩人かよ。酔っ払い詩人。
私は立ち上がった。
帰る。帰るって決めた。
「では」
短く言って、歩き出す。
背中に視線を感じる。花丸さんは追ってこない。でも視線だけがついてくる。
公園の出口に近づいたとき、背中に声が飛んできた。
「お嬢ちゃん」
私は止まらなかった。止まりたくなかった。
だけど耳だけは勝手に拾う。こういうところが本当に嫌い。
「寒いときは、無理に走らなくていい。歩いて。歩けるうちは、ゆっくりでも歩いて」
私は何も返さなかった。
返したら、何かが始まる気がしたから。
公園を出ると、夜の空気がさらに冷たくなった。街灯の光が薄い。影だけが濃く感じる。
私は線路のある方向に向かって歩いた。
目的なんてない。
……いや、ある。
でも、言葉にすると安っぽいから言わない。
鞄の中で白い毛糸がかすかに擦れる音がした。
私はそれを聞かなかったことにして、歩き続けた。




