1 またやってしまった
またやってしまった。
愛用の彫刻刀を指先で転がす。刃は冷たい。いや、冷たいのは一瞬だけで、すぐに私の体温に馴染んで、ただの金属になる。そうなったら、あとは手順。
自分のことを”手順”で片付けられるようになった時点で、だいぶ終わってる。
左の前腕。袖を少しまくって、刃を当てる。
ひやり。
それから、じわり。
温もりが腕を伝う。生きてる証明とか、そういう綺麗な言い方はしない。そんなものいらない。
これは温度の確認。今日の私がまだ“現実”に繋がってるかの確認。
そんなもの、繋がってる方が苦しいのに。
「……めんどくさ」
声に出すと部屋がいっそう静かになる。ボロいワンルーム。壁は薄いはずなのに、今夜に限って隣の生活音は聞こえない。それが逆に怖い。世界から切り離されたみたいで。
ティッシュを適当に丸めて、適当に捨てる。慣れた仕草がいちばん嫌いだ。慣れは人を救うって言うけど、私は慣れで余計に沈んでいくタイプ。
スマホの画面は真っ暗。バッテリー切れ。充電ケーブルは目の前にある。コンセントもある。指を伸ばせば終わる話なのに、伸ばせない。
こういう「できるのにしない」が積み重なると、人間はどんどん自分のことを信用できなくなる。
いや、最初から信用なんてしてないか。
鏡の前に立つ。アラサー。目の下の影、薄い顔、笑えば“感じがいい人”に見える口角。私はこの顔を仕事で使ってきた。笑って、うなずいて、空気を読んで、相手が気持ちよくなるように振る舞う。中身は空っぽなのに、表面だけは器用に整える。
福祉施設でのバイト。人を支える仕事。尊い仕事。はいはい、尊い尊い。世界のどこかの偉い人が「働くことが尊い」なんて言い出した時、私は胃がひっくり返りそうになった。ならその尊さで家賃をチャラにしてくれ。そいつで動悸を止めてくれ。
職場には距離感がバグってる人がいる。悪い人じゃない。そこがまた最悪。
「カヨちゃん、今度ご飯行こうよ」
「カヨちゃん、連絡先教えて」
「カヨちゃん、休みの日なにしてるの?」
知らねーよ。休みの日は私のものだよ。誰かの“心配”で塗りつぶすために休んでるわけじゃない。私は休みの日にやっと“無”になれる。そのまま終わればいいと綺麗に思える。
表向きは笑う。やんわり断る。「ごめんね、ちょっと予定が……」とか、便利な言葉で濁す。相手の自尊心を傷つけないように、職場の空気を壊さないように。そうやって、私だけが削れていく。
心の中では中指を立てる。
てめぇらのせいで辞めるんだよカス。
もちろん、口には出さない。出したら社会的に終わる。困るのは私だ。悔しいけど、それが世界の理だ。
——この流れを、私は何度も繰り返してきた。
三流大学をなんとなく卒業して、なんとなく就職して、なんとなく一年で嫌になって辞めた。次も同じ。また次も同じ。だからもう正社員へのこだわりを捨てたら少しだけ楽になった。
辞めるハードルが地面にめり込んで、さらに低くなった。辞め癖が付くって、こういうことなんだと思う。
今日が最後のシフトだった。
退職願いを出してからも、きっちり働いた。きっちり。律儀。真面目。笑える。辞めたいのに、最後までちゃんとする自分が一番キモイ。私が私を辞めたがってるのに、身体だけが社会を続けたがる。
帰り道、吐き気がした。
働いて、食うために働いて、食って、また働いて。人生がその往復で埋まっていく感覚に、胃の奥がひっくり返る。誰かが「生きるために働くのは当たり前」と言うたびに、私は当たり前のはずのものが、どんどん信じられなくなる。
それでも足は勝手に駅へ向かって、改札を抜けて、いつもの道を歩いてしまう。
勝手に。
勝手に足が動く。
家に着いて、何も食べずにベッドに座って、スマホが死んでいることを確認して、彫刻刀を手に取って、またやってしまった。
ループ。ループ。ループ。
私の人生って、これ以外に何かあったっけ。
考えると気持ち悪くなるから、考えるのをやめた。やめると、逆に身体が勝手に動き出す。
外へ出た。
冬の空気が肌を刺す。息を吸うと一気に肺が冷える。吐くと白い。こういう「目に見える呼吸」だけは、やけに現実味がある。そういうものほど、今の私には邪魔だ。
歩く。目的なんてない。いや、実際はある。でも言葉にすると急に安っぽくなるから言わない。
歩いて、気がついたら公園にいた。
住宅街の中の小さな公園。子どもが遊ぶには中途半端な広さ。ブランコが風で揺れて、ギシギシ鳴る。街灯の光は薄くて、地面の影だけがやけに濃い。ベンチは凍ってるみたいに冷たい。
死に場所、どこにしよう。
そんなことを考えながら歩く自分が、いちばん普通で、最低で、いちばん安心する。
私はたぶん、こういう状況が好きなんだと思う。自分なんて大嫌いだ。でも、手放せない。
ベンチの近くで誰かが咳をした。
視線を向けると、そこに人がうずくまっていた。
白髪交じりで髭が伸び放題。服は薄汚れているのに、妙に堂々としているおじさんが、ブルーシートの端に腰を下ろしていた。手にはコンビニの安い酒。吐く息が白い。目だけがやたら明るい。
「おーい、お嬢ちゃん。寒いねえ」
酔っ払いの距離感。嫌いだ。だけど、酔っ払いなら真面目に相手をしなくていい気がして、少し楽になる。私はどうでもいい返事をする準備をした。
そのとき、おじさんが笑って言った。
「寒そうな顔だなあ」
……なにそれ。
私は足を止めた。止めてしまった。理由は分からない。
理由を持たないまま止まれるのが人間だ。理屈がない行動だけが、私を衝き動かす。
寒い夜に、知らないおじさんがこちらを見ている。
私はどうでもいいはずの世界の中で、妙な予感だけを感じてしまった。




