9 約束未満
外に出た瞬間、冷気が容赦なく頬を叩いた。
さっきまで店の中で吸っていた埃と煙の匂いが一気に洗い流される……はずなのに、鼻の奥にはまだタバコの残り香が引っかかっている。最悪。家に帰っても残るやつだ。
私はポケットに手を突っ込んで、スマホを確認する。
真っ暗。
死んでる。
今日ずっと死んでる。私の人生みたいに。
アスファルトに流れる空気が冷たい。路地の先には住宅街の明かりがある。いつもの帰り道。いつものはずの景色が、なぜか一段だけ遠い。
めが古物店。
あの扉の重さ。
あの鈴の音。
あの女――妻賀ナユハの目。
思い出すだけで胸の奥がむず痒い。痒くて痛い。でも、嫌じゃない。
……最悪だ。
私は歩く。
歩きながら、ポケットの中の白いマフラーに指先が触れた。粗い毛糸の感触。首に巻くには重すぎた優しさ。
私の人生、やたらと他人の優しさが刺さってくる日がある。
刺さってきて、止血できないやつ。
家に着く。ボロいワンルーム。階段が軋む。廊下が冷たい。鍵を回して、扉を開ける。
薄暗い。
暖房は当然切れている。部屋の空気が固まっている。
私は靴を脱いで、コートを脱いで、ベッドに腰を下ろした。
腹は少しだけ落ち着いている。
海の村の粥のせいだ。薄いのに、ちゃんと胃に残っている。不思議だ。私はいつも、ちゃんとしたものほど受け入れられないくせに。
喉が乾く。
水を飲もうとして、シンクが目に付く。
洗っていない皿が積んである。自分の生活の残骸。そういうのが積み上がると、人は自分のことを嫌いになれる。私にとっては便利だ。嫌いになれば、終わらせやすい。
……終わらせやすい。
その言葉が浮かんだ瞬間、私は眉をひそめた。
今日、終わらせる予定だったのに。
何をしてるんだろう、私。
スマホを充電しようとして、ケーブルに手を伸ばして――止めた。
指が動かない。
できるのにしない。できるのにしないことが増えると、人間は自分を信用できなくなる。
信用できないから、他人の言葉に寄りかかる。
他人の言葉に寄りかかるから、余計に傷つく。
そういう循環を私はよく知っている。
なのに。
なのに、ナユハの声が頭の中で再生される。
『明日、また来い』
命令みたいな言い方。
でも、押しつけがましくなかった。
そういう言い方がいちばん厄介だ。
私はベッドに仰向けになって、天井を見た。
天井のシミがいつもより濃い気がする。
私は目を閉じた。
あの海の村の焚き火の匂いと、ウルカの目が浮かぶ。粥の湯気が浮かぶ。水色の石が光る。
夢じゃない。
だから、何だ。
私は息を吐いて、ゆっくり起き上がった。
ポケットから麻袋を探すが――ない。
当たり前だ。ナユハが預かった。鍵のかかる引き出しにしまった。カチリと音がした。
あの音。
あれは妙に安心する音だった。
嫌だ。
安心している自分が嫌いだ。
私は自分の頬を軽く叩いた。痛い。痛いほど現実に繋がる。繋がってしまうのが嫌なのに、繋がっていないと余計に不安になる。
結局、私はいつも中途半端だ。
窓の外は静かだった。隣の生活音も聞こえない。いつもと同じ。世界から切り離された感じ。
私はマフラーを取り出して、膝の上に置いた。
白い毛糸。
花丸さんは「家内が編んでくれた」と言っていた。
それ以上は何も聞いてない。聞けなかった。
優しさの背景に踏み込むと、重さが増える。その重さに耐えられない私は、また逃げる。
逃げる癖は治らない。
でも今日は、逃げた先で変な店に入った。
変な店の、変な女に追いかけられた。
追いかけられて、ちょっとだけ笑ってしまった。
……なに、それ。
私は自分に向かって小さく舌打ちをした。
「めんどくさ」
声に出すと、部屋がいっそう静かになる。
私は布団に潜り込んだ。
眠れない。
眠れないまま、時間だけが過ぎる。
頭の中で、何度もあのネオンが点滅する。
『WELCOME♡』
趣味悪い。
でも、嫌いじゃない。嫌いになれないのが嫌だ。
*
いつの間にか浅い眠りに落ちていたらしい。
目が覚めたとき、外が少しだけ明るかった。灰色の朝。冬の朝。寝坊したわけじゃない。そもそも予定がない。なのに、胸の奥がそわそわしている。
私は起き上がって、洗面所の鏡を見た。
目の下に影。薄い顔。笑えば感じがいい人に見える口角。
またこの顔。
私はこの顔で何度もやり過ごしてきた。
今日もやり過ごすのか。
……違う。
今日はその先がある。
私はコートを羽織って、財布を確認した。小銭が少し。札は少ない。いつも通り。安心するほど貧乏。
部屋を出る。
階段を下りる。
外に出る。
冷たい空気が肺に入って、意識が少しだけシャキッとする。
私は歩き出した。
めが古物店の方向へ。
「気が向いたら」とか言ったくせに。
向いてしまっている自分に腹立つ。
でも、もうそれだけじゃ止まらない。
路地裏に入る。
ピンクのネオンが見える。
『WELCOME♡』
昨日と同じように、趣味悪く光っている。
私は扉の前で少しだけ立ち止まった。
息を吸って、吐く。
扉に手をかける。
重い。
引く。
カランカラン。
鈴の音が鳴った。
薄暗い店内に、埃と、タバコの匂い。
昨日と同じ。
でも、昨日とは少し違う。
私は一歩踏み出して、カウンターの方を見た。
ナユハは――
いた。
だるそうな顔でスマホをいじっている。昨日と同じ。なのに、こちらに気づくと、ほんの少しだけ目が細くなる。
“来た”と言う目。
その目に、私は一瞬だけ腹が立った。
追われるのは嫌いなのに、追われていることが分かると、なぜか安心してしまう自分が嫌いだ。
ナユハはスマホを置いて、顎で私を指した。
「……来たじゃん」
口調は面倒くさそう。
でも声の奥に昨日より少しだけ温度がある。
私は椅子に座る前に言った。
「気が向いただけ」
「へー。こっちが向かせたんだけど」
「調子乗んな」
「お前が勝手に来ただけだろ」
そう言いながら、ナユハはカウンターの奥の引き出しに手を伸ばした。
鍵。
カチリ。
あの音が鳴る。
引き出しが開いて、麻袋が出てくる。
胸の奥が変な音を立てた。
ナユハが袋を軽く振って、じゃら、と鳴らした。
「……昨日の続き。どこで、何があった」
視線が真っ直ぐだった。
面倒くさそうなのに、逃がさない目。
私は息を吐いた。
逃げるのは得意だ。
でも、逃げ続けるのにも飽きる瞬間がある。
私は口を開いた。
「……海の村。ウルカって子がいた。そこで粥を食べて、石をもらった。寝落ちして起きたら、この近く」
ナユハは黙って聴いた。
笑わない。
茶化さない。
その代わり、目が少しだけ鋭くなる。
「……ふーん」
昨日と同じ短い相槌。
でも、昨日より深い。
ナユハは石を一つ摘まみ上げて、光にかざした。
「これ、向こうのもんだろ」
向こう。
言い方は軽いのに、妙に重い。
私は眉をひそめた。
「向こうって何」
「……知らねぇなら、知らねぇでいい」
ナユハが言って、鼻を鳴らす。
その仕草がなぜか悔しい。
「でも」
ナユハは続けた。
「お前が変な嘘ついてないのは分かった」
「嘘ついてたけど」
「嘘の種類が違う。……逃げるための嘘だろ」
刺さる。
図星すぎて言い返せない。
ナユハは石を袋に戻して、テーブルに置いた。
「なあ、カヨ」
いきなり呼び捨て。
昨日より自然。
心臓が一拍だけ跳ねる。
ナユハは続ける。
「とりあえず、いま腹減ってる?」
「……減ってない」
「あまり食ってないんだろ?」
「……うるさい」
「じゃあ、飲め」
ナユハはどこからか缶コーヒーを取り出して、私の前に置いた。
自分の分じゃなく、私の分。
小さな変化。
その変化が少し怖い。
私は缶を見下ろして、迷ってから、手を伸ばした。
冷たい。
昨日と同じ冷たさ。
でも今日は手の中でちゃんと現実になる。
ナユハは腕を組んで、だるそうに言った。
「……話の続き、ちゃんと整理しろ。今、お前の頭ぐちゃぐちゃだろ」
私は缶を開けながら、鼻で笑った。
「いつもぐちゃぐちゃだけどね」
「だろうな。……だから、今ここで吐け」
命令口調。
でも、押しつけじゃない。
私は一口飲んだ。
苦い。
少しだけ落ち着く。
私は息を吐いて、言った。
「……私、昨日、死に場所を探してた」
ナユハの目が一瞬だけ止まった。
でも驚かない。動じない。動じないふりかもしれない。
ナユハは短く言った。
「……へー」
それだけ。
同情もしない。説教もしない。正しい言葉も言わない。
私はその“へー”に、少しだけ救われてしまった。
それが悔しくて、私は続ける。
「で、変なことが起きた。いつの間にか、目の前に青白い光があって。現実っぽくないけど、全部本物みたいで……食べた粥も、温かかった」
言葉にした瞬間、喉の奥が詰まる。
ナユハは少しだけ視線を逸らした。
そして、面倒くさそうに言った。
「……温かいのは嫌いか?」
「嫌い」
「じゃあ、好きじゃん」
「は?」
「嫌いって言いながら覚えてる”どうでもいい”やつは、好きなんだよ」
雑な決めつけ。
でも、雑だからこそ刺さる。
私は缶を握りしめた。
「……うるさい」
ナユハは口角だけ上げた。
「で。その村に戻りたいのか」
戻りたい。
口にしたら、また縛られる。
でも言わなければ、全部嘘になる。
私は缶の縁を指でなぞった。
「……分かんない」
正直。
ナユハは小さく頷いた。
「じゃあ、確かめる」
私は眉を上げた。
「確かめるって何」
ナユハはカウンターの奥を指した。
鍵のある引き出し。
そこに麻袋。
水色の石。
「それが“向こう”に繋がってるなら、恐らく行き方がある。……もしあるなら、私も見てみたい」
それは金を目で追う言い方だった。
でも、その更に奥に、なぜか別の意図が混じっている気がした。
好奇心。
それも、少しだけ寂しさを含んだ好奇心。
私は言葉にできないまま、缶コーヒーをもう一口飲んだ。
ナユハは淡々と言った。
「今日は夜までここにいろ。……青い光?とか言ったな。待ってれば、そのうち出るだろ」
喉が鳴った。
青い光。
確かに言った。口を滑らせた記憶がある。
私は缶を置いて視線を落とした。
「……出なかったら?」
「出ないなら、出ないでいい」
ナユハが言う。
声の温度が昨日より少しだけ低い。
期待してる。
期待してる自分を誤魔化してる。
私はそれが分かってしまって、少しだけ胸が痛くなった。
嫌な痛みじゃない。
最悪だ。
私は小さく息を吐いて、言った。
「……私が、変なことになったら」
「なるだろ」
「……助けて」
言った。
言ってしまった。
ナユハは一瞬だけ固まって、それから、面倒くさそうに眉を寄せた。
「……めんどくせぇ客」
そして、ほんの少しだけ声を落とす。
「じゃあ、逃げるなよ。……逃げたら追うからな」
昨日と同じ言葉。
でも今日のは脅しじゃなく、約束みたいに聞こえた。
私は笑いそうになって、堪えた。
「……追うの好きだね」
「好きじゃねぇ。……仕事だからな」
「仕事って言い方するんだ」
「する。ここは古物店だ。……拾ったもんは、回収する」
拾ったもの。
私は何を拾ったんだろう。
水色の石?
海の村とのつながり?
それとも――こういう面倒な女?
私は自分の考えに自分で引いて、視線を逸らした。
ナユハは椅子にもたれて、だるそうに言った。
「……じゃあ、今日のうちに、もうちょいちゃんと話せ。お前の“向こう”の話。ウルカって子の話もな。あと石をもらったときの話」
私は頷いた。
頷いてしまった。
そして、ふと思った。
この店で、今日一日、時間が潰れる。
違う。
埋まる。
私の空っぽの時間が少しだけ埋まる。
それを、ちょっと嬉しく感じている自分が怖い。
けど――
私は缶コーヒーをもう一口飲んだ。
苦い。
苦いけど、その温度はちゃんと現実だった。




