第18話 貴方だけを見つめている
『おにぃ……いつもありがとう。傍にいてくれてありがとう。ひよはね……ずっと、不幸じゃなかったんだよ。おにぃがいてくれたから……!』
『俺も……陽和が傍にいてくれたから、今日という日を迎えることができたんだ』
入学式の日。涙を拭って笑顔で抱きしめ合う二人の男女を見た。
赤いカーネーションに彩られた、それはどんな絵画よりも美しくて。ドラマよりも切なくて。陰で潜んでいた私は、必死に声を押し殺して溢れ出る涙を零した。
その日はなにも手が付かず。家の壁にぶつかっては、母に注意され。
お風呂で溺れそうになり、父からは受験疲れなのかと心配されてしまう。
弟に手を繋がれながら階段を上り下りするくらい。なにもできなくなっていた。
どうすればあの人のように、心から愛される人になれるのだろう。
誰かから認めてもらえるのだろう。ずっとそればかり考えていた。
私は環境が変わろうと、見た目でしか評価されていない。
むしろ共学になったことでその傾向がより激しくなっていた。
初日からまったく面識のない上級生に迫られ、恐怖で逃げ出して。
もう身に覚えのない噂まで流れている。
このままでは女子校にいた頃となにも変わらない。
同じクラスの男の子。遠坂和樹くん。喧嘩を止めた勇気ある少年。
再会した日。私は臆病で、声を掛けることができなかった。
男性への苦手意識と、強い憧れの気持ちが二の足を踏ませてしまう。
私にとって彼はあまりに眩しくて、遠巻きに見ていることしかできない。
それでも一歩、勇気を振り絞って。
朝、遠坂くんの前で「おはようございます」と声を掛ける。
彼は少し引き攣った笑みを浮かべて。逃げるように席へと戻った。
失敗してしまった。いきなり馴れ馴れしく近付きすぎたのだろうか。
周囲に疑問を持たれないよう、私はクラスメイト全員に声を掛けることにした。
他の男の子は嬉しそうにしてくれた。遠坂くんは、女性が苦手みたい。
授業中もどうすれば仲良くなれるのか考えて、そうして初めて気付く。
私はこれまで自分からお友達を作った経験がないのだと。
いつも相手の方から声を掛けて貰えて。受動的に関係が構築されていた。
結局、人間関係すら無意識に容姿に依存していた。ますます落ち込む。
ふと、遠坂くんのお友達に目が留まる。木場勉くん。彼に相談してみよう。
木場くんには悪い噂があった。実際私も喧嘩を目撃している。
それでもあの日、二人が仲直りの握手をしている姿も見ているから。
あの遠坂くんのお友達なのだから、きっと大丈夫。
「あ? 和樹とお友達になりたいだぁ? 正気かよ」
呼び出された木場くんは、面倒臭そうにしてこちらを一瞥する。
男性にここまで辛辣な態度を取られるのは、生まれて初めてで面食らった。
「ああ、そうかお前か……元カノに俺の進学先を探らせたのは。はぁ……だから嫌だったんだよ。学生同士で付き合うと、余計な面倒事に巻き込まれる。つか、あの日喧嘩覗いてたやつだろ? 見覚えある制服だったから憶えてるぞ」
二人の名前は記憶に鮮明に残っていた。
木場くんはこの辺りではかなり有名な不良で。
私の母校の卒業生に、過去に木場くんと交際していた人がいた。その人から木場くんの進学先を教えてもらい……きっと彼も同じ学校を選ぶだろうと。
私は賭けに勝った。遠坂くんと同じ学校に、クラスになれたのだ。
「断る。どうして俺がほぼ面識のない女を助けないといけねぇんだよ」
「確かに直接的な面識はありませんが……木場くんはあの日、あれだけの騒ぎを起こして何故、警察沙汰にならなかったと思いますか?」
「あ? そりゃ、中坊に負けたことを世間に知られたら連中が恥かくからだろ」
「それ以前の問題です。倒れた彼らを放置したまま、通行人に通報される可能性は考えませんでしたか? 路地裏とはいえ、誰も通らないという確証はありませんし、現に私が目撃しているのですから。遠坂くんがいなければ、警察を呼ぶ一歩手前でした」
「んげっ……お前、まさか」
「放置された大学生たちを私……ではなく迎えに来た父とゆーきちゃん――お友達に応急処置をお願いして。喧嘩の原因を聞き出し。それから学生証のコピーを取りました。もし逆恨みするようであれば貴方たちの痴態を公にすると。つまり、木場くんのやらかしの後始末をさせられたわけです」
彼は爪が甘いというより後先を考えず行動する気がある。
当時は内心、捕まっても構わないと思っていたのかもしれない。
「どうりで和樹と謝罪に回ったとき、連中が大人しかったわけか」
「誤解のないよう伝えておきますが、これは脅しではありません。木場くんとしても、見ず知らずの女に借りを作ったままでいるのは、不本意ではありませんか?」
「ほぼ脅しじゃねーか……」
木場くんは眉をひそめながらも、やれやれと肩をすくめる。
「わーったよ。お前の執念に免じて協力してやる」
「ありがとうございます」
不良というのは仁義を重んじる。漫画知識は間違っていなかった。
「まさか、今の和樹をストーカーする女が現れるとはな」
「あ、あの。私は……すとーかーでは」
「なにが違うんだよ。やってることはそのまんまだろ。普通にドン引きだっての。女で顔がいいから許されるだろうが。お前これが男なら終わってたぞ」
確かに、そこに恋愛感情がないだけで。下心で彼に近付こうとしているのには変わりない。私はきっと最低な人間なんだろう。
「まっ、それぐらいの覚悟もなければ。脅されようが門前払いにしていたがな」
木場くんからは最低限の情報を教わった。
遠坂くんは学校に通っていない時期があり。とある事情から黒髪の女性が苦手であること。
遠坂くんが抱きしめていたのは、妹の遠坂陽和ちゃんであること。
少し安堵した。もし彼女さんであれば私は間違いなく邪魔者になるから。
彼のお友達とは協力関係を結べたものの。
取っ掛かりは自分の力で掴まないといけない。
『おはようございます!』
それからも毎朝、教室で声を掛け続けた。けれど朝の挨拶から先に進めない。
共通の話題も見つからず。どうすれば彼の関心を惹けるのか。私は貴方を知りたい。
メガネをかけた遠坂くんが、急に冷たくなって避けられたときは……ついに私の下心が露呈してしまったのかと。どうしていいのかわからなくなった。
私のせいで遠坂くんが孤立していく。罪悪感で押し潰されそうになった。
ただ、仲良くしたいだけなのに。どうしても上手くできない。
木場くんにとっても想定外の出来事だったらしく。
殴ってでも目を覚まさせると。彼は本気で言い出して。
木場くんの暴走を阻止するため、私は覚悟を決めて手紙を遠坂くんの机に忍ばせた。
体育館裏。あの場所でなら私はきっと勇気を出せる。
初めて自分から新しい関係を結ぶ。お友達を作る。無我夢中だった。
酷く緊張して、話の内容はほとんど記憶に残っていない。
代償としてたくさんの弱点をさらけ出してしまった気がする。
結果的に彼に受け入れてもらえて。誤解? も解消されたみたいで。
――私と遠坂くんの秘密の関係が始まった。
訓練と称して、ただお話をするだけの時間。
目を合わせるだけで、みっともなく足が震えてしまう。
遠坂くんも緊張しているみたいで。お互い最初はぎこちなかった。
彼は家庭料理が得意で、勉強もできて、お友達やご家族をとても大切にしていて。
同じ学生とは思えないほど、大人びていた。
それでも、中身は普通の男の子でしかないことも知った。
彼も同じだった。私が理想の湊姫華になろうと足掻いているのと同じ。
遠坂くんにも目標とする誰かがいて、彼はその人になろうとしているんだ。
GWに入り、遠坂くんの実家に足を運ぶ機会を得られた。
陽和ちゃんとお話することができて。警戒はされてしまったけれど。
そこで遠坂くんの原点を知った。お母様の事故。初恋の女の子との別れ。
とても辛い経験をしていたはずなのに。
遠坂くんは自分は不幸じゃないと言い切っていた。
知れば知るほど、彼は強い人だと思った。かっこいい人だと。
同時に、泣きたいほど惨めな気持ちになってしまった。
自分の見栄のためだけに生きている私とはあまりにも違って。
私なんかが彼と一緒に居てもいいのだろうかと。こんなの全然……釣り合わない。
『――湊さんは、とてもかっこいいよね』
その言葉を掛けられたとき。私は頭が真っ白になった。
私はずっと、かっこわるい生き方をしていたと思う。
容姿ばかり注目されて、でもそれ以外の中身は全然ダメで。
両親や周囲の期待に応えられない自分が嫌いで仕方がなかった。
彼は言う。自分を変えようともがき続けるその姿勢こそ、強さだよと。
遠坂和樹の憧れなんだと。私が嫌いな湊姫華を、遠坂くんは肯定してくれた。
――かっこいいって言ってくれたんだ。
それからは自分でもよく覚えていない。
身体が熱くて、胸が苦しくて。彼の声が延々と残り続けていて。
帰りの車内から見える景色が一段と輝いて、世界が眩しくて仕方がなかった。
部屋に戻ると、私は自然と髪をいじっていた。
黒髪を染めてしまうと、おじい様にいらぬ詮索を受けてしまう。
せめて少しでも短く見えるようアレンジして。鏡と向き合う頻度が増えた。
ある日、母から突然ファッション誌を贈られた。
今度、貴女の大切な人を紹介しなさいと。応援しているからと。
普段は凛々しい父も、どこか落ち着きのない様子で、母に揶揄われていた。
どうやら私は、わかりやすく浮かれていたみたいで。
もう隠し切れないほど。彼への想いが大きくなっていた。
GW最終日、約束通り二人を家に招いて両親に紹介した。
両親も弟も遠坂くんと陽和ちゃんをとても気に入ってくれて。
ああ、楽しい。毎日が充実していて。明日が恋しくなる。
去年までどう過ごしていたのか。もう忘れてしまうくらい。
あれだけ苦しかったお勉強も、少しずつ芽が出始めた。
たとえ失敗したとしても、次は頑張ろうと。前向きになれた。
彼に褒めて欲しくて。その声で名前を呼んで欲しくて。
好き。私は貴方のことを心から……
『男、苦手なんだろ? 俺が克服に協力してやるよ』
手芸部の部室で、上級生に迫られたときも。
男性恐怖症なんてもう頭にはなかった。ただ、遠坂くんとの想い出の場所を守りたい一心で。私の好きな人を侮辱した相手を許せなくて。逃げずに戦おうとした。
私は、立ち向かう勇気を手に入れた……はずだった。
「……ごめんなさい。私のせいで陽和ちゃんのお兄さんが」
「どうして先輩が謝るの? 悪いのは先輩に無理やり迫った男の人なんでしょ。むしろ被害者なんだから。ひよに謝られても困るし。それはきっと兄貴も同じだと思う」
陽和ちゃんから普段の無邪気さがなくなっていた。
淡々としたその口調に、行き場のない怒りが伝わってくる。
陽和ちゃんは、遠坂くんの前では普段通りの明るさで気丈な振る舞いをしていたけれど。最初に連絡を受けたとき、部活中にも関わらず、荷物もなにかも置いて直接病院に向かおうとしたらしい。部活動の仲間や顧問の先生に止められて。落ち着いてから自宅まで送り届けられたのだとか。
お父様に怪我の詳細を伝える際も、声も身体も震えていて。
陽和ちゃんは、お母様を失い一度は心を閉ざしていたのを知っていたのに。
辛い記憶を思い出させてしまった。私が不甲斐ないせいで、二人を傷付けてしまった。
「先輩……兄貴はああいう性格だから。今の先輩と一緒に居ても、きっと同じことが繰り返される。それを、理解したうえでまだ一緒に居るのなら。次からは先輩も同罪だからね」
陽和ちゃんの言葉は、どこまでも冷静で逃げ場のない正論だった。
私は私を取り巻く環境すら制御できていないのに。無責任にも他人と関わり続けた。その結果、大切な人を危険に晒してしまった。そしてこれからも――
療養中の遠坂くんは、どこかぼんやりとしている時間が多かった。
仕事がないと、どう過ごしていいのかわからないのだとで伝えられて。
私は両親にお願いして門限をなくしてもらい。
テスト勉強を口実にできる限り一緒の時間を過ごそうとした。
私は彼から離れた方がいい。ただのクラスメイトに戻るべきだ。
でも、いざその機会が訪れて。私は咄嗟に関係を継続させてしまった。
和樹くんと、下の名前で呼べるほど関係を深めることができた。
彼は照れ臭そうにして。私を姫華とは呼んでくれなかったけれど。
教室で編み物の続きをする。周囲の視線も気にせず。
木場くんの席をお借りして、和樹くんと隣り合わせで過ごして。
近い将来、この関係が破綻するとわかっていても。
今は、二人だけの世界が。この暖かい時間が一番幸せ。
和樹くんは私の言葉に、真剣に耳を傾けてくれる。
私の好きを否定せず、どこまでも受け入れてくれて。
彼の名前を呼ぶたび、私の心は満たされていく。
貴方だけを見つめている。こんなにも幸せな日々が、いつまでも続けばいいのに。
いつまでも――――




