雨音に包まれて
その日、カフェの屋根をやさしく雨が打っていた。
リズムもない、不規則な音なのに、どこか心地いい。
小鳥たちも今日は屋根の下で羽を休め、
葉に当たる雨粒の音が静かに響いていた。
「雨の日って、落ち着くよね」
寧々がポットからお茶を注ぎながらつぶやくと、ネムは小さくうなずいた。
「うん。音が、心を包んでくれてるみたい」
そのとき、扉の前で小さな鈴の音が鳴った。
ふわりと光が揺れて、一人の女性がカフェの入り口に立っていた。
50代後半くらい、長い髪をゆるくまとめ淡いグレーのカーディガンを羽織っている。
まるで雨そのものを連れてきたような、静かな佇まいだった。
「……こんばんは」
ネムがそっと声をかける。
「ようこそ。雨宿り、しませんか?」
女性は、ほっとしたように微笑んで、うなずいた。
「ええ……ありがとう。
とてもきれいね、この場所……まるで夢の中みたい」
席につくと、寧々がお茶を差し出した。
雨にぬれた葉で淹れた、ほのかに甘いハーブティー。
「最近、定年退職したんです」
女性はカップを手にしながら話し始めた。
「小学校の教師でした。ずっと低学年の子どもたちを見てきて……
毎日が騒がしくて、楽しくて……でも今は、あんなににぎやかだった心に、ぽっかり穴が空いてしまって」
雨の音が、静かに寄り添うように響いている。
「でも、不思議ね。こういう場所に来ると、懐かしいことを思い出すの」
彼女は目を細めて言った。
「私、昔『優しい木の精霊』っていう少し古い本なんだけれど、これをよく読み聞かせしていたのよ。
森の中に住む“こびとのトム”が、迷った動物や人をあたたかく迎えてくれる話。
……そのトムが、あなたに少し似ているわ。ネムくん、って言ったかしら?」
ネムは驚いたように目を見開いた。
「……トム……」
不思議そうに寧々がネムの横顔を覗く。
「……わからないけど、誰かに……
その話、聞かせてもらったことがあるような……気がする。
でも……誰だったんだろう」
ネムの指先が、テーブルの木目をなぞるように動く。
目を閉じれば、ほんのかすかに――
優しい声と、ページをめくる音がよみがえりそうで、でも霧の奥に隠れている。
女性はそんなネムを見つめて、少しだけ目を潤ませた。
「もしそれがほんとなら……あなたの中に、その物語がちゃんと残ってるのね」
雨音は変わらず、静かに、心を包み込むように降り続けている。
やがて、女性は立ち上がり、
「また、どこかで」と言いながら静かに光へと溶けていった。
…しん、とした時間。
カフェの空気が、少しあたたかくなる。
ネムはねむの木の花を手に取り、じっと見つめた。
花びらの奥に映っていたのは――
絵本を手に、読み聞かせをする女性の姿だった。
場所はどこかの福祉施設。まるで、優しさを贈るように、彼女は笑っていた。
「……あの人、戻ってからも誰かに物語を届けてるんだね」
寧々がほほえむ。
「うん。……やっぱりあの話…なんだろう……とても懐かしい」
ネムは目を伏せ、ぽつりとつぶやいた。
「誰かに読んでもらったの? 昔?」
寧々が問いかける。
「たぶん……ううん、きっと。
忘れてるだけで、すごく大事な人だった気がする」
寧々はそっとネムの肩に手を置いた。
「じゃあ、また思い出せる日が来るよ。ゆっくりでいいんだよ」